「命あっての物種」の意味とは?

このQ&Aのポイント
  • 「命あっての物種」とは、命があることを前提とした上で、新たな物事が生じることを示す言葉です。
  • 一方、あるページの説明では、「命さえあれば、他のものを失っても命が種となって物が生まれる」と述べられています。
  • 意味の解釈は人によって異なるかもしれませんが、一般的には前者がより正しい解釈とされています。
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『命あっての物種』の意味について

【引用】 命あっての物種の意味 ⇒何事も命があるからできる。命がすべての物のもと。命さえあれば、もし他のものすべてを失ったとしても命が種となって、物が生じてくる。生命の危険を冒すようなことは避けるべし。(語:物種=物事の基になるもの。) ………………… とあるページにて上のような説明がなされていましたが、これは正しいですか?(※批判するつもりではないです.) 「物種」とは、あくまで、「物事のもととなるもの」であり、命があることを前提とした上で、命とは別の、新しく生じる何らかの事象の端緒糸口とっかかり(?)のことだと私は思っていました。 しかしながら初めに出した引用文章によれば、 「命さえあれば、もし他のものすべてを失ったとしても命が種となって、物が生じてくる」 とされてあり、あたかも「命」が種であるかのように説明されているのです。 どのように解釈するのが正しいのでしょうか?どなたかご意見ご回答の程よろしくお願いします。

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  • dogday
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回答No.6

A3です。相談者さんが引っかかる部分が理解できました。 >先程から感じていたのですが……「命あっての人生」と「命あっての物種」とは似た表現ですが別物ですよね、混乱しそうですが。 「命あっての物種」の言葉としては「命あっての人生」を指していません。 命があくまで事象の元本としてタネです。引用のそこが間違っているといいたいのですね。 そこに第3の捉え方「命あってのものだね」という会話口語としても、現代には掛詞として伝承されてくるんですよ。 「命あっての物種だね」とは一般的に使いませんよね。 ことわざは教訓ですから、古人の教えがなければ伝承されないので、 >「命あっての物種」も同様に、命がなくては物種自体が存在しない、即ち、物事をなすにあたってのきっかけすらも存在しない だけでは、哲学でしかなく、教訓にならないのです。 ことわざの体をなすのは、「~であるから~しなさい」という因果の解が含まれる必要があり、相談者さんの解釈が言葉の正しい意味であり、引用文がことわざの説明部分に当たります。そして現代語の運用方法としては「命あってのものだね」との掛詞です。 で、本来ことわざは道徳の口伝ですから、厳密な意味なんて持ちません。多様な解釈も持たないと時代の価値観の変化で死語になります。 >「命あっての物種」ということわざの使う場面自体を間違えさせてしまう危険性もあるのではないか?そのように不安に感じた次第です。 不安に感じるのは、今時分の価値観の忘却に対してであり、 世代を伝承する言葉自体には、原理的な価値を持たず、変化に対応する包容力があるから、逆に誰にでも当てはまる普遍として、ことわざが今に伝わるのです。 真理には原理と普遍のふたつあるんですよ。それがまさしくタネ。

yuramiss
質問者

お礼

はじめに言葉足らずや心遣いの至らないところがあり,わざわざ回答を下さる皆様にご迷惑をおかけいたしましたことをお詫びさせて下さい。 >> ことわざの体をなすのは、「~であるから~しなさい」という因果の解が含まれる必要があり、相談者さんの解釈が言葉の正しい意味であり、引用文がことわざの説明部分に当たります。そして現代語の運用方法としては「命あってのものだね」との掛詞です。 恥ずかしながら、第三の口語表現としての「命あってのものだね」、これの存在を解していませんでした。 文章構造と意味とは本来的には等号で結ばれているものであるが、その意味はしばしば時代推移により変容する。広く言えばこれが原理。 「命あってのものだね」の語尾の「ものだね」。 この語尾の現代的な用法(=命の大切さの共感を呼びかけるような使い方)と「物種」とが被っている事実が示すのは、もはや「物種」の厳格な意味合いは幾分か阻却され、むしろ「呼びかけ」の意味に重きが置かれることになった訳ですよね。 また、「呼びかけ」は言葉を変えれば「教訓」であり、「普遍」であると。 「命あっての物種」と「命あってのものだね」、さらには背景的な、原理と普遍(的な価値)の仕組みも理解できたように思えます。なにやらすっきりできた気がします。 お付き合いいただきありがとうございました。

その他の回答 (7)

  • kine-ore
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回答No.8

#4です。 「物種」→「芋種」はさらに続きます→「芋あっての屁の種」と。 まあ昨今でも「長嶋あっての巨人」などと言いはやされましたが。 其の場の思いつきで得手勝手に意味解釈することを語源俗解(Volks-etymologie)などと呼びます。 子供が知ったかぶりで「ハンスト」を「半分ストライキ」のことだと吹聴するするようなものです。 その点、俳味の達人芭蕉翁の句には唸らされます。    命こそ芋種よ又今日の月 (千宜理記)

  • cyototu
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回答No.7

#5です。別に腹は立ちませんよ。ただ、貴方と私が共鳴出来ないと言うことですね。ソクラテスの産婆術を彷佛とさせますね。貴方は折角論理に目覚めたんだから、世の中には自分の論理とは違った世界の見方をしている人間もいるのだとか、あるいは、そう言う見方は考えたこともなかったとか、そんな風にして、自分の肥やしになる所は肥やしにし、そうでないと思える所は、あっ、そうですかって言っていれば良いんじゃないんですか。そうでないと、まだ見たことのない世界の存在を見い出す機会を潰すことになっって、勿体ないですよ。 人類の歴史を見ていると、重大な発見は既存の論理を使ってスッキリ近づける所なんかから見付かって来たわけではなくて、常に想定外の所から出て来たのですから、自分の論理から外れている所にも目をやっておかないと、一生誰でも思い付くような当たり前のことだけ言って終わりになってしまいかねませんよ。貴方の筋は良さそうなんだから、余計勿体ない。まあ、それでも良い、余計なお世話だって言うんなら、私がどうのこうのと言う筋じゃありませんけどね。

yuramiss
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 >>ソクラテスの産婆術を彷佛とさせますね。貴方は折角論理に目覚めたんだから、世の中には自分の論理とは違った世界の見方をしている人間もいるのだとか、あるいは、そう言う見方は考えたこともなかったとか、そんな風にして、自分の肥やしになる所は肥やしにし、そうでないと思える所は、あっ、そうですかって言っていれば良いんじゃないんですか。そうでないと、まだ見たことのない世界の存在を見い出す機会を潰すことになっって、勿体ないですよ。 …… 処世術についてまでご教示いただきましてありがたいです。 自分と異なる考えについてを拒絶するのではなく,拒絶したくても受け流す。 私もその通りだと思います。そのことにつきましては実は友人から一年前ぐらいに気づかされ、気をつけていたつもりなのですが…。ダメなようですね、精進いたします。 さらには残念なことに、勉強という側面だけで見ても、最低限とはいえ人間関係がないことには相手から教えてもらう機会すらなくなりますし。 これは今回私が主張した意味合いでの『命あっての物種』と似た構造でしょうかね。命が人であり、物種が教えてもらう機会、ってことです(笑) ただ,この度におきましては自説は自説として諺の態様本質も留意しつつ、、 そして今後は、知に貪欲に,そして人間関係は謙虚に,知的探求並びに社会人たる素養を身につけていきたいと思います。 深いお付き合いをありがとうございました。

  • cyototu
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回答No.5

先ず諺の理解に対する大前提は、これが記号論理学の問題ではないと言うことを確認しておきましょう。 人間の使う言葉はどんなに厳密に理解しようとしても、指の隙間から砂が逃げるように逃げて行ってしまう側面があります。実は、その曖昧さを含んでいることが、いざと予想外の事が起こっても、それに適応出来る柔軟性の元にもなっているのです。そして、多様で面白い世界が言葉の世界にも存在し得るのですね。また、その理由があるから記号論理学が幾ら発達しても、未だにどの学者もそれで論文を書こうとする人がいないのです。 そう考えると、「命あっての物種」の解釈を貴方のようにどちらか一方に決めつけてしまって身動きができなくすることは、言葉の持っている多様性の底力を潰してしまうことになりかねません。貴方の言う微妙に違った二通りの受け取られ方の違いで、その会話の当事者達が何か重要な迷惑を蒙るとは考え難いです。それよりも、このような微妙な違いや微妙な誤解が、世の中に一寸した想定外の事象を生み出す可能性を残し、世界で起こることが決定論的に前もって決まっているわけではなく、何か新しい驚きの或る面白い世の中にしてくれているのではないでしょうか。言葉の曖昧さは、ある意味で新しい世界を創りだす契機にもなっているとも考えられます。 さて、そこまで言ってから、無理矢理理屈を付けてみますと、種に命がなかったら種ではありませんね。だから、その種が物を生み出す種だと言うわけにはいかない。だから、 種は種である=命のある種は種である=命があるから種である=命あっての種である=命あっての物種である=命あっての物種 なんて論理の流れも可能です。でも繰り返しになりますが、そこまで考え過ぎると言葉が曖昧であるが故の創造性の芽を潰しかねないですね。

yuramiss
質問者

補足

論点についての議論の可能なご回答をお願いします。 前提として、私は意見や回答を求めてここに投稿しています。 あなたは私が「考えすぎている」と断定していますが、 一体何をもって「考えすぎている」として「決めつけ」という「定義づけ」を論理に潜り込ませるのか? 言葉の曖昧さや微妙さを重んじるべきだと主張する本人が安易な定義づけをするようでは、議論はできませんよ。 記号論理学を批判しておられますね。批判はご自由にして構いませんが、その批判の線上で、言葉の定義を知ることを萎縮させられたらたまりませんよ。そういう議論は記号論理学論者と行って下さいませ。私には無関係な話です。 「創造性」、についても一度考え直してみられた方がよろしいかと。定義なしに創造なんてできるのですか? 余計な指摘になりますが… あなたの論理構造からは,燻製ニシンの論理を彷彿させられます。※簡単に言えば,架空の相手を否定して論破したように見せる、よく陥る詭弁(あなたは故意ではないでしょうから誤謬でしょうか)の一種ですね。 最低限でよいので、あなたの得意であろう分野以外の分野も勉強なさった方がよいと思いますよ。議論とは1分野を知るだけではできないのですから。 もちろんこのことは私自身にも言えることです。無知な領域が山のようにあり、日々勉強に追われてます。 だからこそ今回の「命あっての物種」に関して私は疑問を感じた訳ですね。 「ことわざ」として「命あっての物種」を定義し、「ことわざは記号的に意味は決められない」という枠にはめることで、「命あっての物種」の解釈をさせないなんてことは、まったくもっておかしな話です。 諺は本当に全て記号的に意味内容が定まらないのですか? 『昔の表現とは、時代による意味の変化が介在しがちであり、本来的な文章構造や意味内容がずれることが往々にしてある。』 これが正確な理解ではありませんか? もし、「命あっての物種」が往々にしてある時代推移による変化を受けたとするならば、その変化についてを示していただきたい訳ですね。証明なんて要らないです、疎明程度で結構です。ご意見,ご回答を求めているだけですので学術的なものは求めてません。ただ、納得できる上記についての根拠だけは最低限お示し下さい。あなたのご回答にはそれが見当たらないので。 以上補足になります。 もしご気分を害されましたら申し訳ありません。

  • kine-ore
  • ベストアンサー率54% (808/1481)
回答No.4

「命あっての物種、畑あっての芋種」という、同じ調子の文句を続けて、いわば語呂を合わせた言い方もあります。 これをそのまま取れば、命が畑で、それが前提にあってこその物種/芋種ということでしょう。 「命は法の宝」という言葉も、命はたくさんの仏教の教えの中で最も貴いの意味にもなるでしょう。 ただ、これらの論理的に明快性のある文句の、実際には命=物種であり、それはそれ「命は専(せん)」「命は宝の宝」であり、ありがたい仏法を聞けるのも命あってこそという意味が暗黙の前提として了解されているからともいえるでしょう。 あくまでも辻褄を整えるための論理性を、ややアイロニカルに「語呂合わせ」させているのだと。 ところで、「物種は盗めるが人種は盗まれぬ」という俚言もあります。植物の種は盗めるが人種は窃(ぬす)れない、それは血筋は争えないという意味となるでしょう。

  • dogday
  • ベストアンサー率29% (2314/7952)
回答No.3

引用とあなたの見解を包括したものです。 物種が、現代の種子を意味するだけでしかないので、命をタネに比喩する言葉が他にないですし、 物種は、ものざねやたねものと同じ言葉で、事象のタネという意味を持っていません。 物種は、種子そのものを指したり、天ぷらのタネというような、全体の源、核心という包括的な概念なのです。 「虫」も古来似た様な使い方で、かんの虫とか、虫の知らせとか、虫垂炎とか水虫とか、 現代では昆虫を指す言葉だけになっていますが、人間の身体に病気を起こしたりする、眼に見えない微細ないきもの(場合によっては霊的存在まで)を総括した概念が「虫」「蟲」の古来の使い方になります。

yuramiss
質問者

補足

同じ内容になりますがひとまず一応補足させてください。 物種の意味についてというよりは、「命あっての物種」という文章構造が私には引っかかるのです。 つまりは、何らかの行為に取りかかるにあたっては命が大前提となる訳です。 命なしには、例えばピアニストになるにしても、ピアノを弾くことに取りかかることすらできないわけです。 命という大前提があった上で、初めてそのような行為をすることを考える余地が生じる訳ですね。 つまりは、「物種」という「ものごとのきっかけ」は命の存在を大前提とした上で発生するものなのです。 だから「命あっての物種」という文章構造をしている訳です。 確かに、 「命=種」というお考えはよくわかります。否定どころか大賛成です。 しかしながら、 もしですよ? もし、命それ自体が物種であれば、わざわざ「命あっての物種」とは言う必要はないのではないでしょうか?「命あっての人生」といえば済むのでは? 先程から感じていたのですが……「命あっての人生」と「命あっての物種」とは似た表現ですが別物ですよね、混乱しそうですが。 「命あっての人生」とは、命を大前提として、命がなくては人生自体が存在しないのだから大切にしましょうね、このような意味でしょう。 もしそうであるならば、「命あっての物種」も同様に、命がなくては物種自体が存在しない、即ち、物事をなすにあたってのきっかけすらも存在しない、このように解するのが自然ではないでしょうか? 以上が補足です。 ps. 引用した文章だと、 「命あっての物種」ということわざの使う場面自体を間違えさせてしまう危険性もあるのではないか?そのように不安に感じた次第です。

noname#152554
noname#152554
回答No.2

全くの「私見」を書かせて戴きますが。 「広辞苑[第六版]」の解説には、『命は物種』とも書かれています。 >「物種」=物事の基になるもの ↑ を、素直に解釈すれば宜しいと思いますよ。 つまり、「自分の命が物種と成る」訳です。 死んでしまえば、遺体は朽ち果てるしかありません。 しかし、生きていれば、何かを成して行こうとするのが人間。 「命(生きてるコト)」が「物種」なんですね。

yuramiss
質問者

補足

論点をあいまいに提示してしまったように反省しています。そこで、補足を入れさせていただきます。 物種の意味についてというよりは、「命あっての物種」という文章構造が私には引っかかるのです。 つまりは、何らかの行為に取りかかるにあたっては命が大前提となる訳です。 命なしには、例えばピアニストになるにしても、ピアノを弾くことに取りかかることすらできないわけです。 命という大前提があった上で、初めてそのような行為をすることを考える余地が生じる訳ですね。 つまりは、「物種」という「ものごとのきっかけ」は命の存在を大前提とした上で発生するものなのです。 だから「命あっての物種」という文章構造をしている訳です。 確かに、 「命=種」というお考えはよくわかります。否定どころか大賛成です。 しかしながら、 もしですよ? もし、命それ自体が物種であれば、わざわざ「命あっての物種」とは言う必要はないのではないでしょうか?「命あっての人生」といえば済むのでは? 先程から感じていたのですが……「命あっての人生」と「命あっての物種」とは似た表現ですが別物ですよね、混乱しそうですが。 「命あっての人生」とは、命を大前提として、命がなくては人生自体が存在しないのだから大切にしましょうね、このような意味でしょう。 もしそうであるならば、「命あっての物種」も同様に、命がなくては物種自体が存在しない、即ち、物事をなすにあたってのきっかけすらも存在しない、このように解するのが自然ではないでしょうか? 以上が補足です。 ps. 引用した文章だと、 「命あっての物種」ということわざの使う場面自体を間違えさせてしまう危険性もあるのではないか?そのように不安に感じた次第です。

  • lions-123
  • ベストアンサー率41% (4360/10497)
回答No.1

>『命あっての物種』の意味について      ↓ そんなに難しく論理的に追究しなくても、「ことわざ」「暮らしの処世の知恵」としての教え・伝承は私たちに生き様・処し方・戒め・勇気を示唆してくれるものでは・・・ ◇命がある限り、可能性・チャンス・機会がある⇒短慮や諦めを戒め、捲土重来を再起を諭す言葉 ◇たった一度一代で諦めなくても、命が繋がり種子が残る限り可能性は承継される。 ◇全ての大本・源種は生命であり、その命が引き継がれるように、願いや思いは、その志・大義が清く正しく真心からならば伝わり受け継がれる。 そんな意味・意義・気持ちで、思いを込めて使われる時 *種子 *源種 *種(タネ)・ネタ は、命・魂・希望の源・始まりの事であり、比喩された物(具体的なシンボル)ではないでしょうか・・・

yuramiss
質問者

補足

論点をあいまいに提示してしまったように反省しています。そこで、補足を入れさせていただきます。 物種の意味についてというよりは、「命あっての物種」という文章構造が私には引っかかるのです。 つまりは、何らかの行為に取りかかるにあたっては命が大前提となる訳です。 命なしには、例えばピアニストになるにしても、ピアノを弾くことに取りかかることすらできないわけです。 命という大前提があった上で、初めてそのような行為をすることを考える余地が生じる訳ですね。 つまりは、「物種」という「ものごとのきっかけ」は命の存在を大前提とした上で発生するものなのです。 だから「命あっての物種」という文章構造をしている訳です。 確かに、 「命=種」というお考えはよくわかります。否定どころか大賛成です。 しかしながら、 もしですよ? もし、命それ自体が物種であれば、わざわざ「命あっての物種」とは言う必要はないのではないでしょうか?「命あっての人生」といえば済むのでは? 先程から感じていたのですが……「命あっての人生」と「命あっての物種」とは似た表現ですが別物ですよね、混乱しそうですが。 「命あっての人生」とは、命を大前提として、命がなくては人生自体が存在しないのだから大切にしましょうね、このような意味でしょう。 もしそうであるならば、「命あっての物種」も同様に、命がなくては物種自体が存在しない、即ち、物事をなすにあたってのきっかけすらも存在しない、このように解するのが自然ではないでしょうか? 以上が補足です。 ps. 引用した文章だと、 「命あっての物種」ということわざの使う場面自体を間違えさせてしまう危険性もあるのではないか?そのように不安に感じた次第です。

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    頭が非常に悪いので助けて下さい。具体例を挙げて言葉を解説してくれたり、言葉のもっとわかりやすい口語的な定義(話す上で、書く上で自分の中でこういう意味だととらえている独自の定義でも構いません)や違い、そして例文を噛み砕いて教えてくれると助かります。 日本人ですが、いつまでたっても全く理解できません。 そのため、下記にあげる訳のわからないといっている言葉を一切使用せず解説でお願いします。 (論理、筋道、理屈、道理、条理、つじつまなど)  Ex. 条理=道理。 ←× 道理という言葉の意味がわからないので申し訳ないですが、説明の際に                 は道理という言葉は使わないでください。他の言葉も同様です      条理=「これは~みたいな意味で、こういう時に使うよ」みたいなやさしい説明 ←○    理屈=物事の筋道 ←× 筋道という言葉の意味がわかないので申し訳ないですが、説明の                     際には筋道と言う言葉は使わないでください。他の言葉も同様です    理屈=「これは~みたいな意味で、こういう時に使うよ」みたいなやさしい説明 ←○ まず、論理の意味を調べてみると、 論理=考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保障される法則や形式     例文:「筆者の論理を追え」「彼の論理は正しい」 思考の妥当性が保障される法則や形式って何? なんだ、筋道って? 調べてみよう・・・ 筋道=物事がそうなっているわけ(理由)。事の条理。道理。     例文:「筋道を立てて話す」「筋道を追う」 なんだ条理って? 道理って? だけど、世間でよく使われる筋が通っているって、「考えや気持ちがブレずに首尾一貫していること」だよな。でも定義の意味から考えると、筋が通っている=理由が矛盾なく人にも分かる? 意味がわからん。 ※通っている=矛盾がなく内容が理解できる 条理=物事の筋道。道理。 例文:「これは条理に合っている」 明らかに文章じゃ筋道とか道理の意味合いとは異なるような・・・。 また、道理とか筋道が出てきたぞ。じゃあ道理ってなんだ? 道理=(1)物事の正しい筋道。また、人として行うべき正しい道。理。      例文:「道理をわきまえる」「道理にはずれた行為」      (2)筋が通っていること。正論であること。      例文:「言われてみれば道理な話だ」「道理であいつがバカなわけだ」 人として行うべき正しい道っていうのは理解できるけど、物事の正しい筋道って条理と似たような定義だ。わけわからん。それから正論ってなんだ? 正論=道理にかなった正しい意見や議論  例文:「君の言うことは正論だ」 ※適った=ぴったり合った、当てはまった なんか意味が全て同じようで訳が分からなくなってきた。 所で矛盾ってなんだ? 矛盾=2つの物事が合うべき所が食い違っていて、つじつまが合わないこと     例文:「二人の話が矛盾している」 ※食い違う=(何か)と違っている、合わない なんだつじつまって?  つじつま=合うべき所がきちんと合う物事の筋道      例文:「話のつじつまを考える」 また筋道って言葉に逆戻り・・・・。つじつまと筋道って何が違うの? んじゃあ良く聞くつじつまが合うって? つじつまがあう=筋道が通っている。理屈に合う。          ※「証言はまるでつじつまが合わない」 ※合う=ぴったり合った、当てはまった もうわけわからない。 気を取り直して、今度は理屈の意味を調べてみよう 理屈=(1)物事の筋道。道理。 ←また同じ意味が出てきた。口語的な解釈だと筋道と道理と何が違うんだ。この意味からだと同じにしか見えない。      例文:「君の理屈が正しければ成功する」「理屈で物を語るな」      (2)無理につじつまを合わせた論理。屁理屈。 ←つじつまと論理って言葉が出てきた。論理とつじつまの意味と何が違って、どういうところと関連しているんだ?      例文:「理屈をこねる」 道理。筋道。論理。だの訳のわからない言葉ばかり。 物事の道理とか物事の筋道とかなんでもっとわかりやすく説明できないんだ・・・。 って感じで調べてたんですけど、各々の言葉が似たような意味で違いが分からず、書く言葉の意味合いが全く何も見えません。しかし世の中では、明らかにこれらの言葉は使い分けられて使われています。私も頭が馬鹿以外にもなんか理解できない原因があるのかもしれません。

  • 論理用語の意味の”違い”が全くさっぱりです。

    頭が非常に悪いので助けて下さい。具体例を挙げて言葉を解説してくれたり、言葉のもっとわかりやすい口語的な定義(話す上で、書く上で自分の中でこういう意味だととらえている独自の定義でも構いません)や違い、そして例文を噛み砕いて教えてくれると助かります。 日本人ですが、いつまでたっても全く理解できません。 そのため、下記にあげる訳のわからないといっている言葉を一切使用せず解説でお願いします。 (論理、筋道、理屈、道理、条理、つじつまなど)  Ex. 条理=道理。 ←× 道理という言葉の意味がわからないので申し訳ないですが、説明の際に                 は道理という言葉は使わないでください。他の言葉も同様です      条理=「これは~みたいな意味で、こういう時に使うよ」みたいなやさしい説明 ←○    理屈=物事の筋道 ←× 筋道という言葉の意味がわかないので申し訳ないですが、説明の                     際には筋道と言う言葉は使わないでください。他の言葉も同様です    理屈=「これは~みたいな意味で、こういう時に使うよ」みたいなやさしい説明 ←○ まず、論理の意味を調べてみると、 論理=考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保障される法則や形式     例文:「筆者の論理を追え」「彼の論理は正しい」 思考の妥当性が保障される法則や形式って何? なんだ、筋道って? 調べてみよう・・・ 筋道=物事がそうなっているわけ(理由)。事の条理。道理。     例文:「筋道を立てて話す」「筋道を追う」 なんだ条理って? 道理って? だけど、世間でよく使われる筋が通っているって、「考えや気持ちがブレずに首尾一貫していること」だよな。でも定義の意味から考えると、筋が通っている=理由が矛盾なく人にも分かる? 意味がわからん。 ※通っている=矛盾がなく内容が理解できる 条理=物事の筋道。道理。 例文:「これは条理に合っている」 明らかに文章じゃ筋道とか道理の意味合いとは異なるような・・・。 また、道理とか筋道が出てきたぞ。じゃあ道理ってなんだ? 道理=(1)物事の正しい筋道。また、人として行うべき正しい道。理。      例文:「道理をわきまえる」「道理にはずれた行為」      (2)筋が通っていること。正論であること。      例文:「言われてみれば道理な話だ」「道理であいつがバカなわけだ」 人として行うべき正しい道っていうのは理解できるけど、物事の正しい筋道って条理と似たような定義だ。わけわからん。それから正論ってなんだ? 正論=道理にかなった正しい意見や議論  例文:「君の言うことは正論だ」 ※適った=ぴったり合った、当てはまった なんか意味が全て同じようで訳が分からなくなってきた。 所で矛盾ってなんだ? 矛盾=2つの物事が合うべき所が食い違っていて、つじつまが合わないこと     例文:「二人の話が矛盾している」 ※食い違う=(何か)と違っている、合わない なんだつじつまって?  つじつま=合うべき所がきちんと合う物事の筋道      例文:「話のつじつまを考える」 また筋道って言葉に逆戻り・・・・。つじつまと筋道って何が違うの? んじゃあ良く聞くつじつまが合うって? つじつまがあう=筋道が通っている。理屈に合う。          ※「証言はまるでつじつまが合わない」 ※合う=ぴったり合った、当てはまった もうわけわからない。 気を取り直して、今度は理屈の意味を調べてみよう 理屈=(1)物事の筋道。道理。 ←また同じ意味が出てきた。口語的な解釈だと筋道と道理と何が違うんだ。この意味からだと同じにしか見えない。      例文:「君の理屈が正しければ成功する」「理屈で物を語るな」      (2)無理につじつまを合わせた論理。屁理屈。 ←つじつまと論理って言葉が出てきた。論理とつじつまの意味と何が違って、どういうところと関連しているんだ?      例文:「理屈をこねる」 道理。筋道。論理。だの訳のわからない言葉ばかり。 物事の道理とか物事の筋道とかなんでもっとわかりやすく説明できないんだ・・・。 って感じで調べてたんですけど、各々の言葉が似たような意味で違いが分からず、書く言葉の意味合いが全く何も見えません。しかし世の中では、明らかにこれらの言葉は使い分けられて使われています。私も頭が馬鹿以外にもなんか理解できない原因があるのかもしれません。

  • 意味や価値

    最近身辺で色々あり、物事について考える機会が多くなったのですが、 このところ一般的に考えられていたり、教えられている事と私の考えが 全く一致しない事が多くなってきました。 例えば物事の価値とか意味というのは、一般的には、 それそのものに在るかのように考えられており、また教えられてきていると思うのですが、 しかしよくよく考えてみれば、自分で意味をつけていたり自分で価値をつけていたりするのではと考えるのです。 何かこの間、生徒を土下座をさせたというような事が問題視されていた時に、ふっとそう思いました。 土下座というのは、そういう、単なる動きであって、それに意味など無いのではないのでしょうか。 実際問題どこかの国の人は毎日そういう動きで神様?にお祈りをしたりすると思います。 これは見かけ上は土下座と何も変わらないですし、犬や猫にとってみれば本当に単なる動きなのではないでしょうか。 或いは宇宙などに行ってみれば上下も無いので土下座は成立しないですよね。 そのようなことを色々考えてみれば、実は全てのあらゆる事には何もかも意味や価値などなく、 それぞれの人がつけているだけなのでは、と考えるのです。 しかしこういう考えは明らかに一般的ではなく、そんなことを発言した日には 何か宗教に入ったのかと勘ぐられたり、おかしな人だと思われそうで、とても言い出せた物ではありません。 これは幽霊がいるとかいないとか言うようなものではないのかと思うので、あえて私が正しいとは言いませんが、 それこそ一般的には、幽霊などには懐疑的なのに、 見えない意味や価値が物事にあるように考えられているのは不自然な気がします。 なぜ私たちの社会は今このように教えられて来ているのでしょうか? 他の人は全く気づかないのでしょうか? それとも気づいていて、あえてゲームのように楽しんでいるだけなのでしょうか? 少なくとも私の周りでこういったことを話している人は全くおりません。 それとも私がおかしいのでしょうか?

  • 自分と鉛筆が同じとはどういう意味ですか?

    仏教の話で釈迦が本当に悟ったことと言うのを耳にしました 宇宙の、例えば自分の母親と地球の裏側のどっかの部族のなんとかさんが同じ重要性であること 他にも何でもいいのですが自分と鉛筆が同じなどなど。。。 すべての人、物は全て同じだということ。だと聞きました ここでは釈迦が本当に悟ったのは「空」だとか、いや別のなんとかだ!という話は置いておいて 私にはこの全てが同じである、の意味が分かりませんでした どなたか説明が得意な方、して下さると嬉しいです それとこの悟りを開くと結局何がどう便利?・・・という何がか良いのでしょうか?

  • マウスのホイールが上に回しても下にいったり、下に回しても上にいったり誤

    マウスのホイールが上に回しても下にいったり、下に回しても上にいったり誤動作します。 これはけっこう悩みの種で、ページの下を見たくても上に戻されて見れないので非常に厄介です。マウスの故障かと思い買い換えてみたり、2000円くらいの物で安いからダメかもしれないと思い高いのを買ってみたりしても(といっても5千円弱ぐらいですが:)必ず同じ現象が起こります。PCやOSが変わっても同じ現象が起こりますね。ぶっちゃけマウスは7個目ですがどのマウスでも起こります。なんとかならないでしょうか?

  • 嫌われてるんですかね?

    9人グループの実習の班で男の子が一人だけいるのですがその子が他の女の子を呼ぶときは〇〇と下の名前で呼び捨てなのに私だけ上の名字でさん付けなのがすごく気になります。もしかして避けられてるのか?嫌われてるのか何なのかわかりませんが結構傷ついてます。嫌なのですかね?私にだけ上から物事を言われることも多々あります。イラッとすることもあります