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江戸城と大阪城

大阪城は大阪の陣で実戦に使われましたが、江戸城はそうでありません。純軍事的に見た場合、江戸城と大阪城(秀吉が作成したもの)はどちらが優れているのですか? また幕末で江戸城が無血開城されず戦争に用いられたら、落城したのでしょうか?

noname#182748
noname#182748
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  • eroero1919
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回答No.1

まず、その攻防戦がいつの時代を想定しているかによります。 ご存知かもしれませんが、江戸城は天守閣がいわゆる振袖火事で焼失しており、その後再建されていません。たかが天守閣ひとつで勝敗が分かれるものでもないですが、違いはあるでしょう。 大阪城は一向門徒の本山兼基地として、信長と十年戦争をしながら遂に直接落城することはなく、さらにそれを基にして小田原城も参考にしつつ築城の天才秀吉が心血を注いで作ったものです。戦国時代の戦争なら、かなり優れていたと思います。 一方江戸城は元々が前線基地的な平城で、政治首都としての機能を優先させた街づくりとなっています。小田原城などの城塞都市は市街の周囲を掘などで囲ったのですが、江戸城はそれをしていません。東京って想像より起伏があるので案外に登ったり降りたりなんですけど(皇居の北側と南側じゃかなり高低差があります)、そうはいっても平地に建てられた城だし、大阪城のように淀川みたいな川を利用したものでもありません。 しかしいくら大阪城といっても大砲が発達した幕末の頃ではもう時代遅れのものになっていました。その頃は五稜郭みたいな星形の城が最もなうだったのです。でも大阪にしろ江戸にしろそんなものを作れる土地はもうありませんでした。 戊辰戦争での江戸無血開城ですが、あれは勝海舟の功績ですよ。戦ったところで幕府軍が勝つ可能性がゼロだったからこそ海舟は開城に応じたのです。 そのため残った(新政府軍が江戸に迫っていたころは幕府軍は事実上敗残兵の集まりでした)幕軍の中で最も過激派で手が付けられなかった新撰組の連中を甲府に派兵してまんまと片づけるのに成功しています。 元々江戸城では防御力が少ないことは江戸幕府は分かっていて、そのため有事の際は将軍は甲州街道を通って周囲が山に囲まれている甲州(甲府)へ逃れることとなっていました。ゆえに、甲州街道に近い大久保には鉄砲衆が住み、甲州街道と南北(神奈川と川越などの埼玉)の要になる八王子(現代でもトラック走行が多い国道16号と甲州街道(国道20号)が交差しています)に旗本(親衛隊)を千人住ませています。 元新撰組なきあと、幕府軍に残っていた士気の高い部隊は彰義隊くらいでしたが、その彰義隊も大村益次郎の名作戦があったとはいえたった一日で片づけられてしまいました。勝海舟は自分の手元にある駒はその程度のものであると見抜いていたのではないかと思いますよ。

noname#182748
質問者

お礼

詳しい解答ありがとうございます。江戸市民のために無血開城したのではなく、自軍の戦力が足りないのが分かっていたから開城したのですね。勉強になりました。

その他の回答 (2)

  • char2nd
  • ベストアンサー率34% (2685/7757)
回答No.3

 戦国~安土桃山時代の頃の話であれば、大坂城の方が軍事的には有利だったでしょう。  江戸城があれほどの規模の城になったのは、関ヶ原以降で、徳川家の政治的な優位性がほぼ確立した頃ですから、それほど戦術的な防御態勢を敷く必要はなかったと思われます。  ただ、江戸城も大坂城と同様に外濠と内濠の2つの堀があって、内濠が今の皇居のお堀と呼ばれるもの、外濠はその一部が神田川や新見附濠などとして残っています。これらが整備されたのは、大坂の陣のあとです。  ちなみに、秀吉が築造したのは「大坂城」。現在の城も正式にはそちらの表記ですが、自治体の名称に合わせて「大阪城」と表記する場合もあるようです。

noname#182748
質問者

お礼

解答ありがとうございます。江戸城にも外堀があって、その一部がまだ残っているとは知りませんでした。

  • noise21
  • ベストアンサー率38% (107/278)
回答No.2

大阪城は城単体で要塞としての機能を重視し、城で敵を迎撃する事に優れており、 江戸城は城塞都市としての機能を重視し、城に敵を近付けず町で敵を迎撃する事に優れています。 無論、大阪城も城塞都市機能は有していますし、 江戸城も城単体での守備力攻撃力の確保に怠りはありませんが、 秀吉・家康それぞれの軍略思想や得意な戦略により重視している物が違います。 ですのでどちらが優れているとは言えません。 また、戦国期終演後シンボルとしての居城になり、 戦国城主としての後継者が双方いませんので、 秀吉・家康それぞれが指揮してはじめてその力を発揮出来る事と推測されます。 その例が有名な大阪城の堀の埋め立てです。 家康は計略を用いてあの二重の堀を埋め立てさせなければ大阪城を落とせたかはかなり怪しいと思われます。 単に戦力の問題では無く、時間・収支経済問題・見方の信頼と離反等々が関わってきます。 (戦力と時間と資金に限りが無ければ落とせない城は無い筈です。) 秀吉健在時に家康が謀叛を起こし城攻めという図式であれば、まず落ちなかった事でしょう。 そして、江戸城が抗戦していたら…。との話ですが、 これは逆に簡単に落ちたのでは無いかと推測します。 幕末と戦国末期~江戸初期とでは火力兵器、それに伴い用兵思想も違い、 近代軍略化した支援国がついています。支援国的には城を温存する必要もありませんし、 対して江戸城及び江戸の町は戦国期の戦略・戦術に有効な造りであり、 太平の世しか知らない幕府は戦国期の戦い方も近代の戦い方も知らず、 また幕府側支援国に急ぎ学んでも官僚化した体系に振り回され機能出来ずに自滅するのでは無いかと考えます。

noname#182748
質問者

お礼

解答ありがとうございます。江戸城も造られたときと幕末では全然状況が違ったのですね。

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