• ベストアンサー

仏教に関して疑問があります。

仏教聖典では執着をはなれよと教えていますが、学校の勉強をするためや、仕事をこなすためには、どうしても執着がつきまとうと思います。「正解しなくては」「正確に業務を遂行しなくては」などです。この矛盾をどう解決していけばいいでしょうか?どう考えれば勉強や仕事と仏教を両立できますか? どなたか教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.13

どうしても執着がつきまとうと思います。「正解しなくては」「正確に業務を遂行しなくては」などです。この矛盾をどう解決していけばいいでしょうか? ○ 目標と実際との間のギャップを埋めようとする心の格闘は「執着」ではありません。「結果」を求め過ぎるということなんですよ。仏教では「目標」に対する「努力」を良しとしているのです。1つの目標が達成されれば次の目標に向かって努力する。つまりいつまでも努力なのです。「結果」を求めてもすぐ得られるものではありませんからそこにはあせりや落胆という気持ちもあるでしょう。でも1つの目標に向かって努力することは良いことで「執着」とは言わないのですね。どのような目標を持っても良いですが高すぎると苦しくなりますね。だから、少し高めの目標を設けて努力するというのが仏教的中道の思想なのです。つまり、全てがたゆまない努力の過程と捉えれば良いわけです。 歴史上の天才といわれる人は一つのことに没頭した方々ですね。現代流に言えば変人ですが、執着の塊とは言われないでしょ。 では「執着」とは何かですか。努力の過程で得られた「結果」に心が留まることなのです。一つの目標でしかなかったものに留まって動こうとしない様を執着というのです。 例えば、勉強であれば「この理論しかない。」とかね。業務であれば「これしかない。」という考えですね。退職しても「私は元・社長、部長、課長」とか、「私は元・総理、大臣」とかいう人いるでしょう。 そのように過去にできた結果、過去にできなかったこと、悔しかったこと、嬉しかったことなど過去に心が留まること、それを執着というのです。つまり誰しも離れればただの人なんですよね。それだけのことなのです。一方、未来に対してはあせりですね。結果を求めすぎることは「あせり」ですね。 だから、目標を持って努力する(格闘する)自分を愛することですね。それが執着やあせりから抜け出す特効薬ですね。 「言葉」に囚われることはありませんよ。

akaiyellow
質問者

お礼

みなさんご回答ありがとうございます。参考になりました。

その他の回答 (15)

noname#128939
noname#128939
回答No.16

どうもー、#14ですー! 勘違いしてましたーごめんなさい。。。 なんか、、宗教ちがうみたいです。「仏教聖典」って聞いたことないです。 私がまちがってました。ごめんなちゃい。

回答No.15

 「結果」にこだわることが「執着」・・・・・  そういえば、質問自体も「結果」を気にすることを“執着”と捉えているようでもあるし。  一理あるなぁ。  だからポチッ!  

noname#128939
noname#128939
回答No.14

こんにちは。 意味をちゃんと理解されていませんね。 「仏教の教えにさえも執着してはならない。」と、教えられているはずですよ。 読書百遍と申すがごとく、何回でも読んでみて下さい。

回答No.12

 なんか変ですね。  質問内の事柄は、物事を間違いなくやろうという気持ちを取り上げているようなので、この場合は“心構え”という事になるのではないでしょうか。こうした心構え的こだわりは執着とは言わないように思いますが。  “執着”という表現は仏教的には「好ましくない結果」が付きまとうようです。    たとえば、正確に業務を遂行しなくてはと、常に業務に就くときに細心の注意を怠らないよう努力するのは、よい結果が期待できますが、業務を離れてもそのことが気になって、日がな一日他の事が手につかない、他人とのかかわりに気を使う余裕もない、といった状況になれば、執着という言い方も可能かと思います。  でも、これもなんかちょっとおかしいような。  執着と云うよりノイローゼでしょう、なんて言われそうな。  とは云っても、とりあえず「結果が思わしくない状況になることが予想されるのにもかかわらず、その事にこだわる心を、“執着心”と云う」  ・・・・・と、表現してみました。  未熟な“回答”ですが、これなら矛盾は感じないと思います。  

  • yuimakozi
  • ベストアンサー率22% (25/110)
回答No.11

  人間が生きているのは、「生」に執着していると考えれば、死んだ方がいいということになりますか。  食べることが、執着だとすれば餓死しろということですか。  「正確に業務を遂行する。」と言う事が執着だとすれば、何もするなということですか。  仏陀は、この世は諸行無常だと説きました。全ては変化するのである。不変なものは無いのです。 しかし、人間は永遠に変らない事に執着するのです。ずっと美しいままでありたい。づっと気持ちが変らないでほしい。  いつまでも若くありたい。死にたくない。等々です。  仏陀は、諸法無我であると説きました。全ての事(もの)には実体がないのです。しかし、人間は、自分の実体だと考えている「我」に執着します。  そういった執着から離れよと教えているのです。  また、執着は欲(煩悩)から生じます。だから、欲を滅することが重要になるのです。  人間は、食べなければ死んでしまいますよね。けれども生きていく必要以上の食べ物を欲しがったり、美味しいものを食べたいと思うのは、欲なのです。つまり食に執着しているのです。  また、生きていくためには働かなければいけませんよね。居、食、住をまかなうお金が必要です。しかし、人間はもっと良い生活がしたい。もっとお金をもうけて贅沢したいと思いますよね。それが、欲です。お金や物に執着しているのです。  そういった執着から離れよと仏典では説いているのです。  しかし、在家のままでは欲を滅することは不可能ですし、執着を捨てる事は出来ないでしょう。  出家して、釈迦や比丘たちのような生活をすれば、その可能性は高くなるでしょうがね。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.10

>「正解しなくては」「正確に業務を遂行しなくては」などです。 その理由が出世や他人の高評価、を狙ったものなら立派な執着でしょう。 自分がなぜそのような考えや動機を持つのか自覚すれば執着を美化することもないはずです。 仏教聖典よりも己を知ることが大事だと思いますよ。

  • Nucleus_
  • ベストアンサー率34% (8/23)
回答No.9

~しなくては とか ~でなければならない   が執着なのだと想います。つまり、とらわれ。 ~したい などというのは 希望や望み だと想います。  「希望や望みも執着である」というのは間違いでしょう。

noname#144995
noname#144995
回答No.8

執着を離れようとすること自体も執着であるということを聞いたことがあります。 無理に離れようとはせず、しかし次第に、結果的に離れたならよいということではないでしょうか。 さとりを目指すこともある種の執着から始まります。しかし、その執着がなければ執着を離れる、つまりさとりと言うこともないわけです。ですから、執着と言うのはきっかけぐらいにおもって、特に気に病むようなものでもないのではないかと思ったりもします。 博学なことは良いことですし、有能であることも私の知る限りでは、仏教においては薦められる事です。ですが、それらの事が主になって、さとりに向かう修行がおろそかになっては本末転倒であるというのが、実際の教えではないかと思います。つまり、目的と手段が入れ替わるようでは困ると言う意味です。博学有能で、しかもいつも新鮮な思考の持ち主であると言うのが、本当の意味で執着を離れつつある状態ではないかと思います。もちろん、博学で有能であることは、よいことではありますが、さとりの必須条件というわけでもないのですが。

noname#156094
noname#156094
回答No.7

在家の身でしたら、世俗の義務を果たす事が最優先だと思われます。 義務以上の夢を持たれているのならば、それも了として差し支えないものとも思われます。 社会的に価値のある夢の実現に向かってゆかれるのならば大変に良い事ではないでしょうか。 成すべき事を成しつつ、仏教を学んでゆかれる事は素晴らしい事だと思われます。 顕教では、実体の無いものに対して執着を離れよと説かれていますが 在家の身では、まず無理な事のように思われます。 しかし、少しづつ教えを学んで過ごすうちに、年月と共に、自然と離欲した心境に至る事ができるのではないでしょうか。 仏教は年をとってはじめて分かる、という言葉があります。 若いうちに学んだ事が、やがて年をとってから実を結ぶという事なのでしょう。 在家であるならば、学業や仕事をまず第一にした上で、仏教を学んでゆくべきものと思われます。 「執着を離れよ」という教えは、出家者向きの教えと考えてよいのではないでしょうか。 在家であるならば、執着あるがままに、学んでいってよろしいものと思われます。 それが自然でもあり、そこに在家の純粋さが感じられるようにも思われます。 ご参考になさってください。

noname#136007
noname#136007
回答No.6

実際には複雑ですが、簡単な例で説明を試みます。 「正解したいとか」、「正確に業務を遂行したい」では、仏教の言う執着に当たらないと思います。 執着とはもっと、思想が染みついた(他人を差し置いて)自分に益を持ってきたいような欲望を指すと思います。 例えば数学の問題を解く場合、人間には子供が分からないことを「何故空は青いの?」と聞くように 分からないことを理解したいという、自然な心の働きがあります。 この様な心の動きで、正解したい、問題を充分に解きたいという「欲」なら純な心の動きでしょう。 これは、執着と言わないと思います。 しかしそうではなく、他人に自分の優秀さを見せつけたい。 他人を排しても自分の益を求めるような欲を、執着と言うと思います。 ですから、欲と仏教は充分両立できると言えるでしょう。 簡単な例ですが、イメージで理解できるでしょうか?

関連するQ&A

  • 仏教聖典に関する疑問

    仏教聖典で仏教を勉強しています。 62ページに、「人は不幸を恐れて幸福を望む。しかし、真実の智慧をもってこの二つをながめると、不幸の状態がそのままに、幸福となることがわかる。」という記述があるのですが、なぜそうなるのかがどうしてもわかりません。 どなたか仏教に詳しい方、教えてください。

  • 仏教で言われる欲を捨てると

    半年ほど前から仏教に惹かれ、仏教こそ人の生きる道しるべという思いがつのりました。ところが、いろいろ勉強するうちに、仏教の道を極めるには、あらゆる欲を捨てることが必要なことがわかりました。生きること自体が苦しみであり、その苦しみは欲から発しているのだ。欲があるから執着が生まれ、苦しみとなる。 そこまでは理解したのですが、では欲をなくしたら、仕事も出来ないし、収入も途絶えるし、現実には死ぬしかないのではないのか。結局、仏教を極めるには死を選ぶことなのかと考えるようになりました。しかし、仏教では、自殺は否定されているようです。この矛盾をどのように解決すれば良いのでしょうか。 私としては、仏教の教義に沿った生き方をしながらも、生活の糧を得たいのですが。外国で出家して、托鉢で生活するしかないのでしょうか。 

  • 仏教には聖典が無いのですか?

    ある宗教を勉強する時、その宗教が定める聖典を読むと、大体の事は理解出来る様になって来ます。 ユダヤ教ならば旧約聖書とタルムード、キリスト教ならば旧約聖書と新約聖書、イスラム教ならば旧約聖書とクルアーンとハディースと言った感じです。 さて仏教では聖典と言ったものが存在するのでしょうか?もし聖典が存在するのであれば、どんな書物なのか?僕が仏教を勉強していて納得出来てない部分は、正にその点です。 その辺りに詳しい方(別に僧侶の方で無くても構いません)、僕に詳しく教えて下さい。宜しくお願いします。

  • 仏教聖典の引き取り手は?

    職場の倉庫を片付けていたら『仏教聖典』30冊(よくホテルのベッドサイドに置かれているアレです)が新品のままダンボール箱に入っていました。上司によると過去に寄贈されたものだそうなんですが、今となっては倉庫のお荷物になっていたため処分方法を考えていました。 まず、古本屋さんに電話をして聞いてみると「もともと定価の無いものは取り扱いできません。」とのことでした。 宗教の教典だけに廃棄処分するのもちょっと(>_<) そこで、どこか引き取ってくれるところはないでしょうか? 例えば、ホテルとか仏教系の学校とかは引き取ってくれないんでしょうか。

  • 仏教における極楽について

    今、仏教について興味があり、勉強しているのですが、「極楽」のところでいきづまっています。 仏陀のお教えでは、煩悩と言う欲は、人を迷わせるものであり、断ち切らねば、涅槃には入れないとあります。 ですが、仏教で言う天国、極楽は、花が咲き乱れ、きれいな家やおいしい食べ物があり、自由に生きられる世界だとあります。 この二つは、大きく矛盾していないでしょうか? 友人などに聞くと、「一般庶民に布教するために、何かしらの拠り所が必要で、極楽はそういうもんだ」と言われます。 本当にそんなものなんでしょうか?世界的宗教である仏教の教えがそんなものであるとは、私には思えないのです。 どうか教えて頂けませんでしょうか? よろしくお願いします。

  • 仏教・老子の哲学について良書を教えてください。

    最近仏教や老子の哲学に惹かれ、NETなどの記事を見て 勉強しているのですが、なかなか知りたい事について 的確に書いてある記事を探すのが難しく、その思想的中立性も よく分からないので、もうちょっとちゃんとした専門書で 勉強したいと考えるようになりました。 そこで、仏教や老子の哲学について詳しい方に、 良書を紹介して頂けたら…と思い、書きこませていただきました。 仏教は特に仏陀や釈迦といった「初期仏教」の中でも、 特に「人間が苦しみから逃れるには煩悩や執着を捨て去らねばならない」 というテーマにすごく惹かれ、そのテーマを中心に実践的な 哲学を学びたいです。 老子に惹かれるのも、似たような理由です。 書籍の選択に当たっては、まず入門的なもの、新書や岩波文庫の ような価格が安くお手軽なものが読みたいと思っています。 皆さんよろしくお願いいたします。

  • 仏教用語の四苦八苦

    仏教で四苦八苦というものがあると思いますが、これを正確に意味までわかる方はいらっしゃいますか。 昔、学校の授業で仏教を学んだのですが、忘れてしまったのです。 一つだけ覚えているものは四苦の一つで、確か・・・ 「愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ)」だったでしょうか。 特に思い出したいのが「嫌いな人間と会わなければならない苦しみ」の意味の言葉です。 意味の説明は簡単で結構ですので、よろしくお願いします。

  • 心理学か仏教学か

    私は21歳の社会人、男です。 仕事は印刷オペレーターをしています。 入社し、1年が経ちますが業務内容に変化もなく、あと二~三年は同じこと(紙を積む)の繰り返しだと思います。 そこで仕事にも慣れてきて、せっかく、専門学校を卒業したのだから ついでに大卒の資格も欲しくなり通信制の大学への編入を考えております。 そこで、2つの学部で迷っています。 私自身、ストレスをためやすい性格で学生時代は、資格をとらないと資格をとらないとと、無茶をして胃に穴があいたり、帯状疱疹にかかったりと大変でした。 通信制の大学の中には、このようなストレスをコントロールするための勉強をするような心理学部も存在し、今後、いつストレスが爆発するか分からないので勉強しておこうかと思います。 また、同時に、一時期、ブッダの本を哲学書として愛読していた時もあり、そのおかけで心が楽になった事もあり仏教学部も捨て難いです。 どちらも、ストレスに対する正しい知識をつけるという目的は同じなのですが、どちらがよいでしょう。

  • 仏教の「縁起」は何によって起こるのですか?

    学生時代、仏教を勉強していたものです。 確か当時、縁起によって全ての事象が起こると学んだような気がします。 私はこの観念が好きで、社会人になってもそのように物事を見るよう心がけてます。 しかし、ふと最近、疑問が湧きました。 縁起によって事象が起こるのはわかったけど、そもそも「縁起」自体は何によって起こるのだろう。 そんな疑問が浮かびました。 要素と要素の間に関係を生み出す力とは一体何なのだろうと。 何の力によって要素同士は「縁起」という結びつきに至るのでしょうか。 そこにも何か法則があるのでしょうか。 もしかしたら学校で教えてくれたのに私が理解してなかっただけかも知れない。 また、もしかしたら、初期仏教ではブッダはそれに言及していないのかも知れない。 もしかしたら、それを理解するというのは悟った人にしか不可能なことなのかも知れない。 もしかしたら、後に大乗仏教や上座部仏教で語られてるのかも知れない。 と、いろいろ考えてみましたが、やはり真相が知りたくて質問させて頂きました。 何とぞよろしくお願いいたします。

  • お金から解放されるにはお金に執着することです。

    お金から解放されるにはお金に執着することです。 矛盾していますがこれが真理です。 矛盾しているのに正解の回答って他に何がありますか?