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頼朝が助命されなかったら

池禅尼の依頼でにより頼朝の命を助けた事で平家が滅亡していますが、清盛が助命しな かった場合でも、義経,義仲等の源氏が挙兵し平家滅亡迄、歴史が至っていく事になったで しょうか? (個人的には、頼朝の様な一大勢力の兵が集まらないと思われるので挙兵せず、結果として もう少し平氏政権が続いていたと思うのですが) 歴史上での"・・・したら"と言う架空の話ですが、歴史に詳しい方の意見をお聞かせ下さい。

  • 歴史
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回答No.1

平家は歴史の流れに逆行し貴族化しましたので いずれ源氏に滅ぼされる運命に変わりありません。 ただ頼朝のような政治力のある武将の出現を待たねば なりませんので鎌倉幕府の成立はなかったと思います。 義経が平家を滅ぼしても貴族化したのは間違いありません。 頼朝がこの時代のキーパーソンでした。 彼を生かした事は清盛最大のミスでした。

kamekichi764
質問者

お礼

"頼朝がこの時代のキーパーソン"は同感です。 歴史上の人物で清盛は非常に好きなのですが、助命した事が 唯一のミスであり一族を破滅に向かわせる最大のミスでした。 義経系統か義仲系統か子孫か、他の源氏で政治力のある人物が出てきた のかもしれません。 ご意見、参考になりました。 有難う御座いました。

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  • tanuki4u
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回答No.3

頼朝の最大の特性は、決着がつくまで京都に行かなかったこと。あるいは行けなかったこと。 行かなかったのか、行けなかったのかは鎌倉幕府の特性を決定づける上で重要なキーファクターだと思います。 行かなかった:頼朝の主体的な政治判断を評価することになります。関東に独自権力を作らない限り、平家政権の代替物として、平家が滅ぶと同様に、自分の政権も滅ぶと認識したことになります。 行けなかった:関東の有力武士団の言いなりで、いわば、「シンボル」頼朝でなくても、他の源氏の血筋のものでOKとなります。奥羽からやってきた義経を替りに戴いてもOKという判断を関東有力武士団がしていることになります。 頼朝が挙兵後主にやっていたのは、平家打倒ではなく「源氏の親分は自分である」という源氏勝ち抜け戦です。 具体的には、義仲への牽制や、甲斐源氏や佐竹氏への対処などが、源氏勝ち抜け戦略の一端となります。 頼朝のもとに集まった関東節のスタンスで考えると、頼朝でなくても、義仲でも甲斐源氏でも佐竹氏でもよかったのだと思います。 最近の歴史記述として、院政側や公家側の積極性を評価しようというものがあります。 「平家、生意気だから、そろそろ、さぶらう奴らを替えないか?」 という選択の力です。 この論を進めると、頼朝がいる・・・という問題ではなく、平家以外の代替武家があればいい話なので、平家の滅亡は早晩来ることになります。

kamekichi764
質問者

お礼

"平家以外の代替武家があればいい"と言う単純な考えは、当時の満たされなかった平氏 以外の武士の認識なのでしょう。 歴史上での"・・・したら"と言う架空の想像をする場合、実存した人物でしか 想像が出来ない為、難しいです。 (例えば、平氏の中で優れた者が後世に出たとか、義経,義仲の子息が優れていたとか であったら、又別の歴史が起こっていった気がします) 又"甲斐源氏","佐竹氏"が歴史の表舞台に出てきていたら面白い展開になっていた気 がします。 ご意見、参考になりました。 有難う御座いました。

  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.2

平家の没落に変化は無いでしょうが、 義仲追討の見返りに中部東海の領地を得た頼朝が存在しない訳ですから、 天皇の御陵は健在となり、幕府への足掛かりを全く失います。 ちょっとした事で大きく狂います。 後鳥羽上皇が居なかったら歴史は凄いでしょう。 実際には、 承久の乱で天皇は有力な公家と多くの領地を失います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1 二度と武家に逆らえなくなった訳ですが、 この件でも鎌倉幕府は新しい鎌倉殿として雅成親王を迎えたいと申し出ていますが、 これを断ってまで後鳥羽上皇は挙兵したのです。 上皇に100騎も逆らうや。天皇でないので19万も逆らいました。 味方は2千騎足らずです。

kamekichi764
質問者

お礼

平氏政権が続いていた場合、後鳥羽上皇が平氏に対してどう考えていた かにもよりますが、同じ京都内での出来事として承久の乱にはならず、 "・・・・の変"の様なクーデターで終わっていた様な気もします。 ご意見、参考になりました。 有難う御座いました。

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