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関ヶ原の東軍について質問です。

豊臣恩顧の武将、大名が東軍について戦った理由がわかりません。 賤ヶ岳の七本槍に数えられた武将さえ寝返っています。 秀吉亡き後、家康の専横は素人が見てもわかる程に無茶苦茶でした。 三成や淀憎しの感情で家康側に味方しても最後豊臣が滅ぼされるのは明白だったはず。 恩義ある主人筋を裏切るこの卑怯な行為が理解できません。 恩義のある豊臣を見限った本当の理由を教えて下さい。 お願いします。

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  • eroero1919
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回答No.3

そら、大人になったら多少は理解できるようになります。豊臣恩顧の武将と三成が対立していたというのはご存知なんですよね。 今の民主党を見てみればいいです。小沢一郎氏がいなけりゃ民主党政権は誕生しなかったでしょう。そして、小沢氏をどうするか身内で揉めあっていたら次の選挙は大敗北することはいくらアホな菅首相でも仙石氏でも分かっているはずです。 でも、ご覧のとおりです。権力闘争って、そういうものなんですよ。小沢氏を潰せば民主党はオシマイ、でも生き残らせると今度は小沢氏の復讐で反小沢派の人たちはオシマイです。 豊臣恩顧の武将たちは、豊臣を裏切るつもりじゃなかったのです。むしろ彼らは「豊臣への忠義」のつもりで行動していたのです。「三成らをのさばらせると豊臣家が潰れる」とね。 豊臣恩顧の武将たちは根っからの軍人(武断派)、三成らは官僚(文治派)です。この、武断派と文治派の対立というのは別に豊臣政権に限ったことではなく歴史上どこでも必ずといっていいほど起きています。徳川政権でさえ、根っからの軍人系である本多家などは世の中が平和になると扱いが軽んじられて文治派と対立しています。 ただ、関ヶ原くらいの時代になるともう家康の政治家としての能力が他の戦国大名たちとはお話にならないくらい飛びぬけていたので、家康のほうが一枚も二枚も上手だったということですね。関ヶ原直前、家康は秀吉正室で豊臣恩顧の武将たちから母親として慕われていたねねに近づいています。こういったしたたかさはさすが信長や信玄と同時代を生き抜いてきただけのことはありますね。

Enfield
質問者

お礼

ご丁寧な回答ありがとうございます。 武断派VS文治派と考えたらスッキリする様な気がします。 それに家康の「機を見るに敏」の行動で、eroero1919様ご指摘の通り おねに接近したことも大きかったのでしょうね。 ありがとうございました。

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その他の回答 (7)

  • nene-k
  • ベストアンサー率42% (118/279)
回答No.8

関ヶ原の戦いは、豊臣家内の石田三成に代表される文治派と、加藤清正や福島正則らの武闘派による内紛=豊臣家臣のトップ争いです。 豊臣家の大老である家康が武闘派についた事で、下っ端の三成は安国寺恵瓊を通じて、同じく大老の毛利輝元に総大将を頼みました。 関ヶ原の時点では、東軍も西軍も、豊臣家の家臣です。 なので、家康は、関ヶ原の12日後には、大坂城におもむいて、秀頼と淀殿に勝利の報告をするとともに、改めて忠誠を誓っています。 この時の家康の心の奥底には豊臣を倒して天下を取る構想が、すでにあったかも知れませんが、あくまで、それは、家康の心の中だけで、少なくとも表向きには、豊臣配下の大老であるポーズは崩していません。 ですから、この関ヶ原の時点では 豊臣が滅ぼされるのが明白でもありませんし、東軍についた武将が恩義ある主人筋を裏切ってもいません。 西軍も東軍も、どちらも、豊臣のために戦っていたという事です。

Enfield
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 やはり文治派VS武闘派という事なのですね。

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.7

私の中で「忠臣は二君に仕えず」みたいな固定観念があったようです。 ↓ 葉隠は、肥前 鍋島藩士が書いています。 武士道とは死ぬことと見つけたりのあの葉隠。 穿った見方をする人によれば 「龍造寺家から権力を簒奪した、鍋島家の家中であるから、あのように『正当なる武士道』というのを主張する必要があった」 という解釈です。 また、現代日本人の常識として理解している武士道とは、明治時代にキリスト教倫理観とぶつかった明治期のキリスト者達が、西欧に唯一神キリストあるように、日本にも古来からそれに相当する倫理観がある。 という、前提で構築したのが武士道であるという側面があります。 武士がいなくなってから構築されたという意味で、フィクションでもあります、武士道は。 神を裏切れないと同様に、主人も裏切れない。

Enfield
質問者

お礼

御親切にありがとうございます。 打算的に考え行動する武士は私のイメージにないものです。 しかし現実には史実の様に多くの豊臣恩顧の大名が家康の元に馳せ参じています。 これも生きるための「処世術」でしょうか。

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.6

1 時代背景 天下は持ち回り 秀吉による織田家からの権力奪取を生身で見ているのが、当時の大名たちです。 織田秀信が、祖父に由来する岐阜城城主として扱われている。 秀頼が天下人にならなくてもそれなりの扱いを受けるのであればヨシとする雰囲気であったと推定されます。 2 武士道 他の方も指摘していますが、主替えは当時の武士にとっては当たり前の行為。 家康とその後の徳川家にとってみれば、POST秀吉時代に権力を握ることも重要だが、一度握った権力を徳川家で継承させていく(天下持ち回りの考えや、主替えの考えを否定する)ことこそが大変な事業となっています。

Enfield
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 私の中で「忠臣は二君に仕えず」みたいな固定観念があったようです。 いつの時代も世渡り上手が得をする様ですね。 ありがとうございました。

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回答No.5

No.4です あなたはそもそもを理解していないのではありませんか? 東軍の総大将は羽柴秀頼です 西軍の総大将は毛利輝元です 福島・黒田・細川は石田・毛利憎しです 東軍最大の戦力が德川家康なだけです あと、侍には忠義心はないですよ。御家を守る事が第一です 家族を見捨てる卑怯者にはなれません

Enfield
質問者

お礼

度々の回答をありがとうございます。 この回答を読んでやっとPENPENMAKKY様の回答の意味がわかりました。 世間一般では東軍は秀頼ではなく家康と思っている方が大多数かと思います。 正確をきすために「豊臣恩顧の武将、大名が東軍について戦った理由がわかりません」ではなくて 「豊臣恩顧の武将、大名が家康の元に参集して戦った理由がわかりません」と記すべきでしたね。 ご指摘ありがとうございます。

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回答No.4

えっ…豊臣恩顧が豊臣を裏切って三成に味方するんですか? 豊臣軍は東軍ですよ 西軍は石田三成・宇喜多秀家・毛利輝元の支持者軍です

Enfield
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 質問内容は豊臣恩顧の大名が何故?徳川家康軍(東軍)に味方したかという事です。 有名な大名を列挙しますと・・・ ・池田 輝政 ・細川 忠興 ・黒田 孝高 ・浅野 幸長 ・藤堂 高虎 ・山内 一豊 ・伊達 政宗 ・前田 利長 中には親戚もいます。 この人達が豊臣を見限って家康方になった訳を知りたかったのです。

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  • mappy0213
  • ベストアンサー率26% (1706/6353)
回答No.2

本当の理由ってのは誰にもわからんでしょ そもそも 卑怯な行為ってことですが あの時代肉親である親兄弟でさえ戦をしていますしね 息子に寝首をかかれたなんてこともある意味日常茶飯事ですからね あくまで私見ですが 豊臣秀吉というカリスマ性に惹かれて家臣となったってのが多いんじゃないですかね 秀吉亡き後そのカリスマ性を持っている人がいなかった・・・ってことじゃないですかね

Enfield
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 下剋上の世の中から「織豊政権」になって下剋上の風潮から脱却したと思っています。 むしろ封建制度が確立して主従関係がシッカリしたと理解しています。 だからmappy0213様の書かれた通り秀吉というカリスマ性を持った人間がいなくなったからでしょうか。 ありがとうどざいました。

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  • Yodo-gawa
  • ベストアンサー率14% (133/944)
回答No.1

関ヶ原の時点では、徳川勢は豊臣勢を滅ぼすつもりはなかったでしょう。 もし、その気ならば、大坂冬・夏の陣まで時間をかけるような事をせず、 関ヶ原の勝利に乗じて豊臣家の解体を行ったでしょう。まあ、この時点で それを強行すると反発も強いから行わなかったのでしょうが・・・。 秀吉のいちばんの失敗は戦略無き朝鮮出兵です。これで大きく失望させられ、 さらに三成の専横を見ていると、帰還兵は少なくとも主筋を疑いたくなるでしょう。 裏切ったのではなく、見限ったのです。主筋には他人を従わせるだけの器量が 必要です。それが失われると滅びます。これは歴史における必然でもあります。 それぞれの武将も、部下を食わしていかなければ己の地位が危うくなるのです。 豊臣勢の後継に器量と人望が無かったから、関ヶ原で敗れたのです。 さらに豊臣勢が滅んだ原因は、器量のない淀君が原因の一つでもあります。

Enfield
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 やはり朝鮮出兵や豊臣秀次の残虐な処刑等々のツケが回ってきて人心が離れたのでしょうか。 豊臣秀頼は器量があった様に書いてある書もあります。 淀殿がいけなかったのでしょうか。

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