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何て言う?

冷酷な総大将が、あるいは部下を思いやり義や友情を重んじる武将が戦いの前また勝利 敗戦した後部下に対して声をかけるならなんと言うと思いますか? またまた アイディアや文章に余裕がある方は もし回答者(自分自身)が武将、将軍であったなら なんて声をかけると思いますか

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回答No.2

戦う前 「我が命皆に授けし、皆の命我に授けし、命尽きるまで 皆で戦おう、いざ出陣じゃ~」 勝利後 「皆の力の結集の賜物だ、しかし勝って兜の緒をしめよ、 本当の戦いはこれからじゃ、また皆のものの力を我に 貸して下され」   敗戦後 「この戦の敗戦は、我の不徳のいたるところ、すまぬ・・・、 皆のものよ」 やはり、武将、大将であるなら、懐の広い寛大な言葉を勝利しても 敗戦してもかけますね。 これなら、部下はついてきます。 でも、うちの上司といったら・・・、情けない限りです。

takaharamituki
質問者

お礼

確かに ありがとうございます

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回答No.4

 んー・・・そうですね(酔汗) ・冷酷な総大将 戦いの前「勝てるまで戻って来るな」 敗戦「お前は何故生きている? 戦って死ね」 ・思いやり武将 戦いの前「・・・必ず、生きて戻って来い」 敗戦「よくぞ生きて戻ってくれた・・・」 ・・・こんなとこかと(´_`;b

takaharamituki
質問者

お礼

ありがとうございます 参考になりました

noname#142902
noname#142902
回答No.3

●●冷酷な総大将 勝利 『よくぞ頑張った、我が下僕たちよ。』 『こんな奴らが仲間でよくぞ勝てたものよの。』 『勝って当たり前だ。喜ぶものではない。』 『誰のお陰で勝てたと思っている。俺様だ。勘違いするなよ。』 『お前らみたいな怠け者と一緒でよく勝てたものだ。』 敗戦 『戯け者らのせいだ。』 『お前らの弱さは万死に値する。死して償え!』 『この……無礼者どもめが!』 『この……戯け者! 何様のつもりだ!』 ●●優しい武将 勝利 『ありがとう、仲間たちよ。』 『皆さん大丈夫ですか?』 『皆のもの、よく頑張った。』 『次も頼むぞ。』 『お前らと一緒で良かった。』 『また修行をしようぞ。』 敗北 『お互いにあの世で会おうぞ!』 『来世でも共に戦おう!』 『お前らと戦えて嬉しかったぞ!』 『いい死に場所だ! 信じられる仲間がいて……。』 といったところでしょうか……。 『大将』と言う言葉が出たので和風の言葉遣いにしてみました。

takaharamituki
質問者

お礼

ありがとうございます いい言葉ですね~

  • 1582
  • ベストアンサー率10% (293/2664)
回答No.1

(泣きながら)死ね by孔明

takaharamituki
質問者

お礼

どうも

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  • 何て言う?

    冷酷な総大将が、あるいは部下を思いやり義や友情を重んじる武将が戦いの前また勝利 敗戦した後部下に対して声をかけるならなんと言うと思いますか? またまた アイディアや文章に余裕がある方は もし回答者(自分自身)が武将、将軍であったなら なんて声をかけると思いますか

  • 何て言うと思いますか

    冷酷で勝つことを重んじる曹操や信長 部下を思いやり義や友情を重んじる劉備や謙信 などが 戦いの前 また勝利 敗戦した後 部下に対して声をかけるならなんと言うと思いますか 戦に対する考え方でも 仲間への友情の言葉 または冷酷な言葉など 何でも構いません 回答よろしくお願いします 武将は誰でもかまいません(上に挙げている四将でなくてもいいです) 言葉もどのような感じ?でもいいです(例えば 俺は戦は~だと思う。俺は戦は~のようにあるべきだと思う。今まで俺に貢献してくれてありがとう など)

  • 何て言うと思いますか

    勝つことが一番と考える総大将 冷酷な将軍 部下 友達を大切にする武将などが 戦いの前 部下に対して声をかけるならなんと言うと思いますか 戦に対する考え方でも 仲間への友情の言葉 または冷酷な言葉など 何でも構いません 回答よろしくお願いします 武将はどのような感じの人物でもかまいません 言葉もどのような感じ?でもいいです(例えば 俺は戦は~だと思う。俺は戦は~のようにあるべきだと思う。今まで俺に貢献してくれてありがとう など) を書いてください

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     この聖書のひとくだりの物語を例に 組織宗教の揚棄を問います。  ▲(出エジプト記 32:1-35) ~~~~~~~  1:モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、  2:アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」  3:民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。  4:彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。  5:アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。  6:彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。  7:主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、  8:早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」  9:主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。  10:今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」  11:モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。  12:どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。  13:どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」  14:主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。  15:モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。  16:その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。  17:ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、  18:モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも 敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  21:モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、  22:アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。  23:彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、  24:わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」  25:モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、  26:宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、  27:彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。  28:レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。  29:モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」  30:翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。  31:モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。  32:今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」  33:主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。  34:しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」  35:主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。  ~~~~~~~~~~~~~  【Q】 社会的な交通(コミュニケーション)においては 特に権限関係のある場合に 主観内面におさまりとどまる神を持ち出して その神との近しさや信じる度合いあるいはそれにもとづく業績を判断基準として ひとの思惟や行動を左右することは ゆるされない。のではないか?  集団ないし組織としての宗教は 揚げて棄てられるのがよいと考えられるのではないか?

  • 牟田口廉也は無能なのか?

    牟田口廉也は無能なのか? の質問があったので以下投稿しました すると不支持の方がいた 具体的に何が不支持なるのか意見を下さい 興味のある方願います 少し加筆しました インパールの失敗は 戦後しばらくは罷免された3人の師団長(佐藤、柳田、山内)が無能とされてた 現在は牟田口廉也軍司令官が悪者となっている そして独断撤退した佐藤幸徳第31師団師団長が英雄になってる この東部インドへの進行作戦は、昭和17年に南方軍が第二段作戦として準備を発令 この時、第18師団長だった牟田口は兵站困難の為反対している その後は、ガダルカナル、ニューギニア線があり、保留に その後ビルマ周囲に英中軍が兵力増強してきたため、日本軍も師団を増強 第15軍の一軍だけでは手に追えなくなるので、上部のビルマ方面軍を新設 同時に大人事異動が行われ、この時、牟田口は第15軍司令官に昇進 牟田口は師団長時代とは違い、今度はこの作戦を進行させる立場になった この異動で西ビルマ方面の地理地勢敵状に通じているのは、牟田口軍司令官のみとなる その為、参謀達を一般論として受け付けず、自ら作戦計画書を加筆したとも伝わる 作戦反対の参謀、参謀長を更迭も行った 牟田口は、陸士陸大で恩賜ではなかったものの、省部勤務が長く、部隊勤務も近衛部隊長を経験し、かなりプライドが高かった だから、特に歩兵科出身者にありがちな皇軍精神論の持主であった だから、気合と根性で人を判断し、人事をないがしろする一面があったようだ その結果は、一介の軍司令官が前代未聞の親補職の師団長解任を3人も行なった。 また、支那事変は自分が始めたので何か自分でカタをつけなければ、という思いがあった だから、牟田口はビルマ方面軍、南方軍、大本営に、インパール作戦を強く要望している 牟田口には、全体像の日本国、全陸軍の情報がなく、自分の担当範囲のビルマ、インドが全てで、そこに猛進していた それでカタをつけた事になると思っていた 大本営の思惑としては、南東方面、中部太平洋方面が押されているので、 絶対国防圏外郭での作戦成功で、戦果の自負と国民の戦意高揚を欲していた一面がある これは大陸打通作戦にも期待されていた また、たった3コ師団くらい現地軍まかせて、どうでも良いと考えていた インパール作戦は日本陸軍が大好きな攻勢防御 と言うか 陸軍大学でそういう教育をしている 日本軍勢力下の外郭要地を望むのは当たり前の事 現在の牟田口廉也像は、生還者、作戦に反対派だった参謀、部隊長達が、一部の牟田口の言動をとらえたり、生還した士官に皇軍士官としての敬礼、軍装品の不備を叱責された事を恨めしく思った一部の極端な一面のようだ また牟田口は作戦にあたり、自動車、輜重兵中隊、合わせて300コを南方軍に要求している その数は全陸軍が保有する中隊数を超える数であった 要求数は、ビルマ方面軍により減らされ、減らされたその数も南方軍の手持ち数を超えており、 南方軍の答申は要求数の2割りだった しかし、この兵站部隊が減らされたのに作戦は実行しなければならなかった ここは、牟田口の責任ではなく、ビルマ方面軍、南方軍の責任である 苦悩の末、参謀のアイデアを採用して、物資を水牛に駄載運搬、必要時に食料に使う、一石二鳥のジンギスカン作戦を採用する 結果はこの地方で徴発した動物は物資運搬には適さずアイデアは成功しない 良く誤解されるが 上部司令部の作戦命令に、第15軍には兵站の不足の状況があったが、命令を達成するために苦悩の末、採用したアイデアである 牟田口が個人的に先走った作戦ではない 日本陸軍は与えられた兵力で目的達成しなければならない 開戦時のフィリピン作戦の失敗が良い例だ 実際問題として、作戦中の3個師団の報告、命令、事務を一人の人間が行うことは不可能だ 作られた作戦計画は、奇襲により短期で敵地を抜き、敵根拠地で食料を得るという、日本陸軍の通例の作戦だった 特に牟田口だけが採用した特殊な作戦ではない 結果の敗戦は牟田口が軍司令官でなくても大同小異 たまたま、そこに牟田口が居ただけ 特に牟田口だけ能力が劣っていたわけではない 第15軍司令官という職責がそうさせた 牟田口自身は、後年作戦失敗を、天皇に詫びる気持ちと、戦死戦病死した将兵に詫びたい気持ちだったようだ ただ、戦後に英軍が危機だったことを聞き、自分の作戦は正しかった事の主張が多くなった。 これが嫌悪感を高めているようだ ただ、出身の北九州では兵を可愛がる良い将軍と人気があった 牟田口は、司令部に家を建て、芸者を呼んで宴会をしていた これが戦場帰りには不快に感じられたようだ 命令違反退却して英雄視されている佐藤幸徳第31師団長は、 食料不足で苦しんでいるときに、前線に慰安所を設置しようとしたり、 兵達がテントを過ごしている中、師団長の為の豪華な家を建てさせている 軍司令官、師団長という親任官は、感覚がズレていた たとえ戦場においても、そういうものなのだ 特にビルマだけ、おかしいものではない 兵隊と同じ兵食を食べたり、減食すること等、庶民の兵隊と同じ生活をすること自体、おかしいと考えられていた 上官ほど良いものを食べ、良い生活するのは、高等官は当たり前の事 特に親任官は、戦場においても、それだけの格式、優雅な生活をしていなければならなかった これは、現在の官僚体質や、国会議員、大臣と同じと言えるかもしれない 戦場で刺身を作らせた事や、担当兵に梅干樽を担がせて移動したこと事を、大問題と投稿されている方もいるが、この戦場の生活スタイルは、当時は当たり前のもの 平等という考えは存在しなかった 軍司令官、師団長は親補職であるから兵にとっては天皇と同じ 兵と一緒にとか、同じなんていうのは、映画で作られた虚像 ただ、100%そうだったかと言うと、一部にはそういう考えの人もいたのは事実 でも内容は違った 感覚はズレていた 本当に兵の生活を理解している人は居たかどうか…。 少尉だって学校出ただけで奏任官であって、それだけの待遇があって当たり前 戦時国際法でも、捕虜の兵は使役に使っても良いが、少尉の士官は免除された これが当たり前 まして、軍司令官、師団長の中将なら当たり前 捕虜になっても、軍司令官、師団長の中将は、その格式の食事給養がされる 捕虜収容所の所長が中将より階級が下であったら、たとえ相手が捕虜でも、所長から先に敬礼しなくてはならない 参謀は作戦に反対意見を述べる事はできるが、どの意見を採用するかどうかは軍司令官の判断 実際米軍と違い、日本軍の主義として、司令官が直接主導権を取らず参謀長が決定するのが通例 これは師団長も同様 司令官自ら決定しなければならないのは、参謀長をもたない旅団長まで 軍司令官により決心された作戦を、細部計画を立案するのは参謀の仕事 これも師団長も同じ 決定に逆らった参謀は罷免、更迭されるのは当然 同じく、決定、命令に従わない師団長が罷免、更迭されるのも当然 また、部下は意見具申はできるが決定事項に従うのは当然 米軍は、作戦が計画通り進まないのは戦意が欠けると、戦場で師団長解任が行われている 日本の場合は、師団長が親補職だから大きな問題として注目されている 実際は、本当に牟田口司令官個人から発せられた解任かどうかも不明 日本軍は、米軍と違い、参謀、参謀長を無視して軍司令官が直接命令を発する事は不可能 師団長に命令伝達するのは軍参謀長 師団長が報告行うのは軍参謀長宛 結局、慌てた南方軍が解任された佐藤師団長を精神異常として処理、予備役編入されている 同じく、牟田口廉也も作戦失敗の責任を取らせる形で予備役編入されている ただ直ぐに召集されて予科士官学校長になっている また佐藤幸徳もすぐに召集されている 陸軍の評価としては、作戦失敗の責任で予備役編入しているが、それ以上のおとがめ無しですぐに召集している これは親補職であったからと言われる 牟田口の予科士官学校長は、軍司令官経験者としては格下、かなり責任を取らされた形である 戦後の評価は、佐藤ら3師団長だったが、現在は牟田口軍司令官に変わっている しかし、牟田口廉也が無能で佐藤幸徳が有能とは一概に言えない 失敗=最終的な作戦立案した参謀の問題 第15軍のインパール作戦失敗は結果論 更に言えば、一番の問題は、作戦開始を命令し作戦中止命令の遅れた上部のビルマ方面軍司令部 個人を言うならビルマ方面軍司令官の河辺正三大将 だから牟田口個人を一概に無能とするには当たらない 誰が司令官でも結果は大同小異 内容はガダルカナルやニューギニアと同じ 問題は3人の親補職の師団長が作戦中に解任になった事 親補職であることが問題 ガダルカナルでも川口清武旅団長が戦場で解任になっているが、親補職でないので全然問題になって無い 牟田口廉也無能論は、戦後随分たってから発生した結果論 当時の一般的な軍司令官 中将で師団長のあとに予備役にならず、軍司令官に昇進できただけで大したもの。 結局、日本の軍司令官の資質ってこんなもん そういう教育しか受けていない だから牟田口廉也個人を無能とするには当たらない どうでしょう? 私の意見 師団長時代と違い今度は進行させる立場になった 自動車、輜重兵中隊、合わせて300コを要求 与えられた兵力で目的達成しなければならない 敵地で食料を得る通例の作戦 牟田口だけが採用した特殊な作戦ではない 個人的に先走った作戦ではない たまたま、そこに牟田口が居ただけ 職責がそうさせた 当時の一般的軍司令官 誰が司令官でも大同小異