• ベストアンサー

淡路島の歴史

淡路島の管理は、明治時代前までは、徳島藩に属しており、代々、稲田氏が管理していました。 しかし、明治時代になって廃藩置県が行われると、代々管理をしていた稲田氏が政府に不服を申し出たのですが、そのあとどうやって兵庫県に属するようになったのかがいまいちわからないのです。 詳しく分かる方、教えてください!困ってます!

noname#139112
noname#139112
  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数8

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • dayone
  • ベストアンサー率79% (360/452)
回答No.2

淡路島(全島)が兵庫県に編入されるに至たるキッカケは 「庚午事変」だったかもしれませんね^^ 「庚午事変」自体の解説などは、 「庚午事変の群像/徳島県立文書館」が詳しいかと思います。 http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/tenjikai/8D4D8CDF8E9695CF82CC8C51919C.pdf なお上記から一部抜粋すると …その他の処分について(国立公文書館所蔵)『公文録徳島騒擾始末』で見ると、 徳島藩領から稲田支配地を引き離すため稲田家は(明治3年)十月十五日正式に北海道移住が言い渡されている。 しかし、移住が終了するまでの期間、稲田家の領地を淡路島に集中させて兵庫県に編入することも同時に決めている。 …これらも換算され、明治四年四月になって、淡路津名郡四十三ヶ村計三万余石が兵庫県に編入された。 しかし、同年八月には廃藩置県が行われ、淡路の村々は再び全て徳島に県庁のある名東県に編入されることとなった。… 以上のとおり「庚午事変」の処分結果として、淡路北部が一時的(約半年間)に兵庫県に編入されたものの、 廃藩置県によって再び淡路島(全島)が四国側の名東県(阿波及び淡路全域)に編入された流れがありますから 淡路島(全島)が最終的(明治9年7月~)に兵庫県に編入された原因はどうやら他にあるようです。 当時の県域変遷については、兵庫県庁のWEBサイトに詳細があります。 http://web.pref.hyogo.jp/pa13/pa13_000000013.html 上記から一部抜粋すると さらに、明治9年(1876)8月、飾磨県と豊岡・名東両県の一部が兵庫県に併合されて、ほぼ現在の県域が確定しました。 これ以後を第3次兵庫県といいます。 このような大きな県域になった理由については、次のようなことが言われています。 但馬の出身で、内務卿大久保利通のもとで地租改正に従事し、その後、県知事や内務省の局長などを歴任した櫻井努という人がいました。 櫻井は、府県統合に際し、大久保から豊岡県と鳥取県の統合に関して意見を求められたそうです。 櫻井は、「豊岡・鳥取両県は歴史的に関係が深いが、両県を往来する山間部の交通が不便です。 かといって兵庫県と統合すると、面積が大きすぎます。 豊岡県は、飾磨県と併合するのが良いと思います」と述べますが、 大久保から、「開港場である兵庫県の力を充実させるように考え直せ」と言われ、第3次兵庫県の原案を考え出しました。 大久保はこの案を「一府県の増減に過ぎぬが、人々が幸福になって、県庁ひとつを減らすことができるなら、一挙両得である」と賞賛したということです。 以上、どうやら時の内務卿大久保利通の一言が原因だとか? 『じぶん更新日記』のサイトにも以下のような事が… http://www.geocities.jp/hasep1997/_9/04/12.htm しかし、そのいっぽう、播磨・淡路・但馬など旧7国もの地域から構成される兵庫県では、 播磨地域(当時は「飾磨県」)などから強い要望があったにもかかわらず、 けっきょく分割・独立を果たすことはできなかった。 番組によればその理由は、 当時は、外貨を稼ぐという国策のため、但馬(合併前は「豊岡県」)の絹を神戸(合併前は「兵庫県」)の港から輸出する必要があった。 神戸の整備には、国ではなく県の予算を確保する必要があったが、豊岡県と兵庫県だけでは税収不足であった。 そこで広大な農業地域をもつ播磨や淡路を統合する必要があった。 ちなみに、明治13年の統計によれば、合併後の兵庫県の税収において播磨地域からの税収の割合は52%にものぼっていたという。 兵庫県の広域主義は大久保利通の力によるところが大きかった。 以上少しでもヒントになれば幸いです^^

noname#139112
質問者

お礼

とても詳しい回答をありがとうございます。

その他の回答 (1)

noname#155097
noname#155097
回答No.1

「庚午事変(こうごじへん)別名稲田騒動(いなだそうどう)ともよばれる」 1870年に当時の徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、 家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。 「明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島本藩の家臣は士族とされたが、 陪臣(徳島本藩の家臣)である稲田氏の家臣は卒族とされた事に稲田氏の家臣は納得できず、 自分達の士族編入を徳島本藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや今度は洲本を中心に 淡路を徳島本藩から分藩独立させて稲田氏を藩主とする稲田藩(洲本藩)の設立を目指す (そうすれば自分達は士族になる)ようになり、明治新政府にも独立を働きかけていくようになる。 稲田側は幕末時の活躍によりすぐ認められると思っていた。 稲田側こうした一連の行動に怒った本藩側の一部過激派藩士らが、 明治3年5月13日(1870年6月11日)、洲本城下の稲田家とその藩士らの屋敷を襲撃した。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9A%E5%8D%88%E4%BA%8B%E5%A4%89 とあるように、本土(徳島)と島(淡路島)間の抜き差しならない 敵対関係がこの事件により表面化し、それを鎮静化する目的で 淡路島が兵庫県側にくみいれられた。ということではないでしょうか。

noname#139112
質問者

お礼

詳しくありがとうございます。ベストアンサーとあわせてまとめていきたいと思います。

関連するQ&A

  • 廃藩置県について

    明治政府が、江戸時代に築かれた幕藩体制にかわる政策として、 「廃藩置県」(フランスをモデルとしたのか?)は有名ですが、 その置かれた県の名前と県庁所在地の名称と同じである場合と 違う場合とがありますが、これはその県を置かれる前の藩の 政府に対する施政で、政府派か、反政府かによって 決められたのでしょうか?

  • 廃藩置県のときの藩の借金はチャラ?

    明治維新の版籍奉還、廃藩置県で政治体制が一新しますが、 そのとき藩や藩主、藩士などの借金はどうなったのでしょうか? 藩の借金はチャラで、藩主、藩士などの個人の借金は残ったのでしょうか。 よろしくお願いします。

  • 都道府県の 府 とは

    廃藩置県で藩が県になりましたが、県はいいとして、また都は首都ということでいいんですが大阪府、京都府は県と何がどう違うんですか? 府とはどういうものなんでしょうか?

  • 『愛媛県』の由来にもなった万葉集なんですが、、、

    地理のレポートで今、『愛媛県の由来』というものを調べています。 理由は、自分自身が住んでるのが愛媛というのと、 今年、歴史で明治政府の「廃藩置県」を習いました。それで、「松山藩」⇒『愛媛県』になったというのを先生から教えてもらいました。 そこで、なぜ『愛媛県』になったかなんですが、現状では、奈良時代の「万葉集」の中の記載である、 ”伊邪那岐の命と伊邪那美の命が国生みをしたとき、「伊予の国を愛比売といひ」” という文が元になっていると言われているそうです。 この万葉集の本文について、もっと知りたいので原文が載っているページを紹介してください。お願いします。

  • 幕末の明治維新の時に廃藩置県が起きて藩が廃止になり

    幕末の明治維新の時に廃藩置県が起きて藩が廃止になりましたがそのときにあった○○藩の○○が現在の名字に多く残っていないのはなぜですか? ○○藩出身者ということが分かりやすいので名字もそのまま○○を使えば良かったのにそうしなかったのはなぜでしょう? 八戸、弘前という名字の人は少ないですよね? 佐倉とか土佐とかも少ない。 なぜでしょう?

  • なぜ「琉球」は「沖縄」と呼ばれることになったのか。

    1879年の廃藩置県によって「琉球藩」が廃止され、「沖縄県」が生まれますが、なぜそれまでの「琉球」という地名が「沖縄」に変えられたのでしょうか。「沖縄」という言葉の意味を知りたいのですが。

  • 廃藩置県まえの日本人は日本国内でも他県(藩)へ旅行することはあったので

    廃藩置県まえの日本人は日本国内でも他県(藩)へ旅行することはあったのでしょうか?また、そのような感覚があったのでしょうか?生まれた土地(藩)しか知らず一生を終わる人があたりまえだったのでしょうか?

  • 奈良について

    実家が奈良なのですが前から疑問に思ってました。 江戸時代まで大和の中心は大和郡山城を中心とした 大和郡山でした。 明治時代になって行政の中心は現在の奈良市に移った訳ですが、 どういう過程で郡山から奈良になったのか詳しい資料がありません。 以前、大阪の「ピーバップハイヒール」という番組で廃藩置県の話をしていて 奈良県誕生の複雑な過程は説明されてました。(当初は堺県だった!) やはり廃藩置県の過程で行政の中心が郡山から奈良に移ったのでしょうか。 ご存知の方いらっしゃいましたら教えて頂けたら幸いです。

  • 廃藩置県について

    廃藩置県のときどのような基準で県を置いたのでしょうか? わたしの生まれたところは元天領で中野県となり数年で長野県に吸収されました。しかし隣町も天領小布施でしたが小布施県にはならなかったようです。 新政府はどのような基準で県を置いたんでしょうか?

  • 地方分権は国力が弱くなる可能性はないですか?

    政治に疎いものですが(^-^; 地方分権を進めるという風潮がありますが、 日本の歴史をみると、江戸時代は藩が自治を行う地方分権。 それを明治時代の廃藩置県により中央集権にし、国力を強めた(と僕は考えています)。 アメリカは地方分権ですが、2度の大戦・不況・ニューディール政策期で連邦政府の力が増したといいます。 また、ドイツではナチス時代に中央集権でしたが、現在地方分権なのは、他国がドイツの大国化を防ぎたいこともあるとか。 中央集権はいろいろ問題はあるでしょうが、日本の国力という大きな視点に立ったら中央集権の方が良いように思いますが、 この問題に詳しい方のご意見を伺いたいと思います。 宜しくお願いします。