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キリスト⇔仏陀 など

キリストや仏陀など、 宗教の主催者なる人々は、 互いに相手方の宗教が推し進める様々な行いやその動機をみて、 賛成できる面や賞賛出来る一面を発見できているのでしょうか? それはどういった面に対して、どう思われているだろうと推察出来そうですか?

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  • ベストアンサー
  • -ananas-
  • ベストアンサー率48% (13/27)
回答No.5

キリストや仏陀がどう考えていたかはわかりませんが・・・ うちの町(イタリア在住です)のカトリックの神父さんは、かなり毒舌で他宗教に対して攻撃的な方ですが、意外にも「イスラム教は受け入れがたいが、仏教には賛成。」とはっきりおっしゃっていました。 なんでも仏教には矛盾していない優れた考え方が多く、キリスト教と類似する点も多いし、和を尊ぶ教義が素晴らしいとのことです。 No.5さんがおっしゃる通り「お互いに我関せず」他宗教信者に対する強制力が少ない点、死後の世界観(天国と極楽浄土)が似ているのかなぁと個人的には思います。 知識不足で具体的な回答ができず申し訳ないです。ご参考にまで。

idonoyoko
質問者

お礼

>「イスラム教は受け入れがたいが、仏教には賛成。」とはっきりおっしゃっていました。 なんでも仏教には矛盾していない優れた考え方が多く、キリスト教と類似する点も多いし、和を尊ぶ教義が素晴らしいとのこと きっと思慮深い方であられたのでしょう。ね。

その他の回答 (6)

回答No.7

 こんにちは。  まづ  ★ 宗教の主催者なる人々  ☆ という規定について キリスト・イエスにかんしては 否定します。組織宗教は 個人の信仰の自殺行為だと考えます。  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳しかえて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  ★ 互いに相手方の宗教が推し進める様々な行いやその動機をみて、  ☆ と問うておられる趣旨にはそえられずに申し訳ありません。つまり そのような集団としての活動を 信仰の問題としておこなうことには 何の意義も見出せないと考えています。せいぜいが 気休めであるという結論です。 あるいはまた ひとにとっての信教・良心の自由を もし組織における身分の上下によって命令されたりその振る舞いを裁かれたりして妨げられるというようなことがあれば 百害あって一利無しということになるでしょう。  ただし個人にとって・個人として 信仰――非思考の場のごとく わが心にそなわっているまど――は生きます。その信仰から得られた観想を思想として表わしそれをさらに規範として 偶像崇拝のごとく いただくようになったのが 組織宗教です。信仰にとっては 規範としての教義も教祖もましてや教団もいっさい無縁です。

idonoyoko
質問者

お礼

>無い のかもしれませんね。 複数教があることが人間を救っているのかもしれませんね。

noname#202494
noname#202494
回答No.6

まだ修行中で未熟なものです。 このカテゴリーで皆さんおっしゃっているとおり、”Books”の一神教の成り立ちには、エジプト、イラン、イラク、インドの古代文明の思想の影響が深く入り込んでいます。 特にアーリア人(イラン)が紀元前17世紀ごろインダス川の流域にまで侵入し、のちにインドの文化(ヒンズー教を含めて)ギリシァに伝えたため、プラトンとアリストテレスの”神”の考えにはインド的な残滓がみられる。お釈迦様もインドに生まれ、その文化に育まれたわけですから、当然ヒンズー教の教えに影響を受けていたでしょう。 そして、カトリックは哲学的な要素としてにアリストテレス学を取り入れているため、間接的にインドの文化の影響を受けていることになる。 私達東洋人が考えるより地中海世界とインド中近東の世界は密接に繫がっていたということなのでしょう。それをこんがらかった毛糸をほぐすように理解したい私ですが、これはあと100年経っても無理でしょう。考古学者さんたちの努力を望むところです。 イスラム教の教祖であるムハメッドの従兄弟は熱心なキリスト教徒であったと聞いています。(Karen Armstrong ”Islam”) ところで、日本で育った私には、日本人は皆仏教徒のように考えられるのですが、それは間違いでしょうか?

idonoyoko
質問者

お礼

日本には神が多いですね。

回答No.4

仏陀は唯一お釈迦様=ゴータマ・シダールタさんだけ、という前提で申し上げますが、この方はイエス・キリストより500年位前の人ですから、仏陀が生存中にキリスト教はありませんでした。ですから何も思いようが無かったでしょう。 仏陀の500年後に登場したイエス・キリストはなにも書き物を残していないそうですから、彼が仏教をどの程度勉強したのか、そして仏教のどこを評価し、どこを批判したかなどは知ることができないはずです。 仏陀の考えを継承した仏教徒やイエス・キリストの口伝書を称賛しているキリスト教徒たちが、お互いに他の宗教を勉強しているのかという疑問がのこりますが、論文や講義で飯を食う宗教学者はさておいて、一般の仏教徒がキリスト教を詳しく勉強したり、一般のキリスト教徒が仏教を詳しく勉強したりすることはあまりないと思います。 仏教徒やキリスト教徒は自分が信じた宗教に満足しているのですから、他の宗教に時間を使う必要を感じないのでしょう。 愚拙と致しましては、お互いに「我関せず」であると推察いたします。

idonoyoko
質問者

お礼

>ゴータマ・シダールタさん >イエス・キリストより500年位前の人 というわけで仏教側からはその生前見解はできなかったという訳ですね。 >イエス・キリストはなにも書き物を残していない 情報が届くのは今よりはずっと遅遅なるものですね。 >彼が仏教をどの程度勉強したのか あまり出てきませんね。 >信じた宗教に満足しているのですから、他の宗教に時間を使う必要を感じないのでしょう。 ある意味的確なポイントを付かれていますね。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.3

どうなんでしょうね。 客観的にみても、要するに<太陽>のことでしょ ってわかります。 イエスの絵画で後光が差していますが要するに太陽の擬人化なわけだし、仏像を観ても背後に後光や炎がありますから、やはり太陽の擬人化が仏像なわけだし、日本の日の丸も太陽だし。 仏教の場合、太陽がどうしようとそれは一方的で人間が関与できないものなので、いいときもあれば悪いときもあるのは、自分のせいだけではなく、不遇に対して「こら 太陽」と文句を言ったところでどうにかなるわけじゃなく、ただ太陽の恵みを感謝することしか人間にはできないって言っているように思います。 だから<うろたえるな>と諭しているように感じる。 キリスト教の場合は、太陽の子ホルスが元ネタだし、それがヨーロッパの方に伝わって太陽信仰がやはり起こったが現地の宗教と習合していった。 エジプトの太陽信仰がギリシャ方面にも伝わって、恵み深き太陽がマアト信仰になってギリシャ方面にあり、北欧にあった太陽信仰と集合してキリスト教ができたわけです。 だからシンボルの十字架は元は異教徒のシンボルだったので、初期の教父は「それは異教徒のシンボルじゃないか」と十字架をシンボルとしている信者に文句言ったらしいです。 だって異教徒から同じ種類のキリスト教に取り込まれたので、シンボルは自分たちが持っていた十字架。 で、十字架ってのは南十字星のことで、冬至になると太陽が出ている時間が一番短くなる。北半球では。 だって太陽は南半球を照らすから。 そしてまた上昇するがその時になんだっけ?南十字星がそこにあるので、太陽が十字架に処されるって物語になり、それ以降日の出が長くなるので太陽の復活となったらしいです。 まっ いずれにせよ 古代の人は太陽のおかげで生命が存在できると知っていたので、太陽を信仰していたってことですね。 「おてんとうさん」信仰は世界各地にあったので、どの民族も太陽と自分につながりがあるとうすうす気づいていたってわけです。 それだけのことなのに、誰にでも平等な太陽を使って、権威を持ちたがるやからがいるのか。 「お前だけが人より多く太陽光線浴びているわけじゃあない 何様のつもりだ 太陽を独占できているとでも思ってるのか」 って無知さに呆れたりします。 太陽を神格化してそれを使って地位と名誉を得ようとする愚かな人達って傍からみて思います。 ただ、太陽の勝手ではありますが、不作だったり豊作の値域があったりするので、良いときは他者を助け、悪いときは他者に助けられる そうすれば恵は均一になる って話なら「ですね」って思います。 、

idonoyoko
質問者

お礼

宗教宗教お互いに良い所は認めようとすべきですね。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.2

イエスとお釈迦様の比較は面白いですね。新石器時代以降歴史時代に入り始めた初期に都市化がどんどん進んで、都市問題起こって来た。そしてその都市問題がどうにもならなくなってしまったそんな時に、このお二方は出現されましたよね。他にも、そんな場面で出て来た方に、孔子とソクラテスがいる。人間て歴史の中でタイミングが良い時期に出現すると人類の教師と呼ばれるようになるようですね。その反対にタイミングを外すと、この四人の方よりも遥かに優れていても、歴史的には忘れられてしまうようです。 さて、イエスは今まで人々が経験したことが無かったこの都市問題をどう解決しようとしたか。彼は、それを物事に執着せよ、と言ってその問題を解決しようとしたようです。執着の極致は愛ですね。ですから、徹底的に執着せよ。そうすれば人々は都市問題として起こって来たこの世の苦しみから逃れることができる、と主張したようです。 ところが面白いことにお釈迦様はその都市問題の原因をイエス様とは正反対に、執着にあると主張したのですね。だから、この世の苦しみから逃れるには、物事に執着するな、と教えた。勿論愛なんて執着の極致だから大変危ない。お釈迦様は家族も捨てました。事実、正義の名の下に愛がしばしば人々を盲目にして来ましたよね。つい最近も、これは十字軍だって言っていた方もおりましたから。 さあ、我々を苦しめている都市問題を解決するには、イエス様流が良いんでしょうか、それともお釈迦様流が良いんでしょうか。孰れにしても、両方と言う訳にはいかないようです。

idonoyoko
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

回答No.1

 んー・・・宗教サミットなるものが開かれるくらい ですし、どこかに共感し合える部分は見出しているのでは ないかと思いますが。 各々が、その歴史から導き出した・・・ 人間の上に立つ存在を定義する事で 人間の欲望をある程度コントロールする手段を模索する ・・・という一面から、互いに相違点を非難し合うよりも 共通の目的を持つ者同士だと認め合おうとしているもの、と 推察できるのではないでせうか。

idonoyoko
質問者

お礼

>宗教サミット >どこかに共感し合える部分は見出しているのではないか 各各の推し進めるもののイデオロギーに共感するという流れですね。 >人間の欲望をある程度コントロールする手段 止め処ありませんからね。 >共通の目的を持つ者同士だと認め合おうとしている 互いに理解と共感を模索するということなのですね。

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    結論から言います。キリスト教徒の女性はイスラム教徒の男性(イラン人)と 最終的に人生を共にすることはできるのでしょうか?信頼のおける知り合いの牧師さんによると イスラム教徒だったけれどイエス様を神として受け入れ改宗した人は多くいるそうです。 相手の宗教を変えようとするのは恣意的なのでするつもりはありません。というか信仰は他人が変えられるものではありません。神様とその本人次第です。 もしあなたの周りの聞いた話、または実体験で、イスラム教徒の彼がイエスを神として信じるようになり、愛するキリスト教徒の彼女と結婚したというお話があれば聞かせてください。(イスラム教徒の男性はキリスト教徒とユダヤ教徒なら結婚はOKらしいよ!などの、インターネットから拾ってきた情報を持ってくる方はご回答をご遠慮ください。) 〈詳細〉 こんにちは。私は21歳の女性です。キリスト教徒です。まだ学生です。 私はつい先月まで、10ヶ月間アメリカで留学をしていました。 そこでイスラム教徒の男友達に出会いました。彼は29歳大学院生(Ph.D)です。 彼とは知り合って約10ヶ月ほどになります。 私たちは知り合って2ヶ月でお互い好きだということが分かりました。 それからはお互い、相手に幸せになってほしいと思い、 私は彼に料理を作ってあげたり、彼は私の複数回の引っ越しを手伝ってくれたり。 初めてのアメリカでの生活ということもあり、辛いことは多くありました。 彼は私が精神的に不安なときは優しくハグしてくれて、よく大丈夫だよって 安心させてくれました。要するに彼のすべてが愛おしいです。 そんなに大好きな彼ですが、私たちはキスはしましたがエッチまではしていません。 っていってもABCのBまでです!笑 最後の最後であるCはお互いそういう行為は将来の妻や夫ととするものだと考えていたから、お互い我慢しました。 そんなわけで、彼は精神的にも少し身体的にも繋がっていた相手です。 彼もCは旦那とするものだという私の考えを尊敬していてくれたんだと思います。 好きな女の子とCができないなんて、そこらの男性じゃ我慢できないと思います。 彼はムスリムなので今まで恋愛経験はありませんでした。 だから私が彼の人生で初めて恋をした女の子、初めてこんなに親しくなった女の子です。 イスラムの世界では、結婚を考えてしまうので、なかなか異性と親しい友達になれないそうです。 そんな私も彼が人生で初めてでした。男友達でこんなに相手のことを知ったのも、キスしたのも、こんなに人を愛したのも、なにもかもが初めてでした。 そんな初めてだらけの私は、彼が最初で最後の相手だったらなと強く願って仕方ありません。 彼も私と結婚を考えたことはあるそうなのですが、やはり自分の奥さんは自分の言語を話せなきゃな、自分の国の料理を作れなきゃな、ってかそれ以前にイスラム教徒じゃないとなって思ってるみたいです。なので私が婚約者になれるわけがなく、彼の中では、友達とお嫁さんの間にあるはずの彼女という概念がないので、私はキスをしたりカップル特有の指を交差させた手のつなぎ方をする“友達”です。こういう言い方をすると私が利用されてるように解釈される方もいるかと思いますが、それは決してありません。彼は常に誠実な人です。 現在はもう私は日本に帰って来ていてアメリカにいる彼とは離ればなれです。今朝、彼に「あなたが好きすぎて、一緒にいられないことが辛い。2,3ヶ月くらいしたら、あたなを特別に好きな感情も収まると思うから、それまであなたと連絡を絶ちたいの。だけど、あなたは私の人生で一番の友達よ!あなたには本当に支えられたから、わたしもあなたのためになんでもしてあげたい!またね!」ってメッセージを送りました。そういう風に、今は彼と一切連絡せずに彼を忘れるつもりです。 「新しく彼氏でも作るか!」と思ったりするんですが、どこにCを我慢してくれる男性がこの世にいるんですか?なので、今は彼氏いらないです。精神的に魅かれる人が現れれば別ですが。 もしイスラム教徒の方が改宗してキリスト教徒の女性と一緒になったっていう実例がありましたら聞かせてください。心よりお待ちしております。

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    罪や悪に対して、その因果が解る人は、何であれ心の奥では「許しているはず」ですよね。それだけの長い因果の末に、そういう心となり悪を犯してしまったのですから。 ところが宗教では、その歴史の過程で「道徳を権威づける役割」があったためか、子供を叱るためにおどすように、なんと神とか仏のようにすべての因果を理解しているような存在が、例えば最後の審判などといった裁きと悪への罰というその主催者として描かれています。 本来キリストも仏陀も、最終的に説こうとしたところの愛や慈悲の世界においては、過去のすべては許して未来のその教育の力を信じる道だったはず。 《罰と仏とは無関係。単なる子供扱いした時の方便でしかない。》 私自身はそう思います。 もう一度このへん、哲学からの宗教改革が必要な時代になっていると私は思うのですが、みなさんはそのへんどうお考えでしょうか。

  • 「キリストや仏陀は韓国人だった」と言い出したら?!

    「キリストや仏陀やムハンマドの正体は、  実は韓国人の祖先だった。」 もしも韓国人がそう言い出したら、 世界はどんな反応を示すと思いますか?