• ベストアンサー

「本音と建前」と「裏表」の違いについて教えてください。

「本音と建前」と「裏表」の違いについて教えてください。 例えば、『裏表のある人』と言った場合にはほぼ確実に悪いニュアンスがありますが、『本音と建前を使い分ける人』と言った場合には必ずしも悪い意味とは限らないと思います。本音と建前を使い分けるのは日本の文化であるなど、美徳として語られる場合もあるからです。 事実上、ある人の言動や行動を「裏表」と評価するか、それとも「本音と建前」と評価するかは聞き手の主観に委ねられている気がしますが、どう思いますか? それとも、「本音と建前」と「裏表」という言葉の明確な使い分けは存在するのでしょうか? よろしくお願いします。

noname#139942
noname#139942

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.3

#2です。 >「裏表は」相手の本質的な問題、「本音と建前」はあくまで相手の意見や表現方法などその人の本質とは関係ない部分に関する評価といった感じですね。 : そうですね。 本音と建前を使い分けなければ人間社会で生きていくことは不可能ですから、その意味での必要悪という捉え方です。 >ところで、No.1さんのお礼欄に書いた問題についてどう思われますか。 >社交辞令などを「建前」ととった聞き手は、建前と知りつつ話をあわせる。しかし、そうでなかった人は真に受け、後になってから裏表のある人だと怨むことになる。こう考えたのですが、この考え方は正しいのでしょうか? : 自分が騙された格好になっているために、たしかに怨みつらみは残るかもしれません。 真に受けた内容が実は社交辞令だったのだ、と納得できればいいわけですが、それができる人とできない人はいると思います。 できない人にとっては、相手の主張や考え方、あるいは、おっしゃるところの「>表現方法」などの問題ではなく、相手の人間性自体、つまり性格という本質的な問題だと捉えてしまうでしょう。 「社交辞令」として認識することができなければ、別のものとして認識せざるを得ませんから、「建前」が「裏」に転換するひとつのパターンとして、ありそうです。 その意味で正しいのではないでしょうか。   

noname#139942
質問者

お礼

再度ありがとうございます。 「本音と建前」というのも相互の了解があるから、成り立つものなんですね。もちろんコミュニケーション一般がそうですが、この場合は裏表というネガティブなイメージを持たれる可能性があるので、相手によってはリスクがありそうですね。

その他の回答 (3)

  • bakansky
  • ベストアンサー率48% (3502/7245)
回答No.4

お礼をありがとうございました。 追加のご質問に対しては、その通りだと思います。 また、hakobulu さんが、すぐれた回答をなさっておられます。 > 「裏表」は、主に相手の性格に関する判断で、「本音と建前」は、相手の主張や考え方に関する判断という印象を持ちます。 というご説明には、私もなるほどと頷きました。

noname#139942
質問者

お礼

再度ありがとうございます。 No.1のご回答と併せてとても参考になりました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.2

『裏表のある人』に悪いニュアンスがあるのは、「裏」という語が含まれているせいではないでしょうか。 人の見ていないところでは良い面を見せているが、見てないところでは実は逆の良くない面を持つ人、という意味ですが、「裏」が「良くない面」を意図していることは、すぐにわかります。 そのため、いやおうなく「>悪いニュアンス」が生じるのでしょう。 「表」は常に陽の当たる面で、「裏」は常に暗い陰、という要素も「裏」のマイナスイメージにつながっていそうです。 『本音と建前を使い分ける人』の「建前」の場合は、あくまで「原則論としては」というニュアンス。 「本音だけではうまくいかないこともあるよね」ということに対応する必要悪、というイメージでしょう。 「裏表」は、主に相手の性格に関する判断で、「本音と建前」は、相手の主張や考え方に関する判断という印象を持ちます。   

noname#139942
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >「裏表」は、主に相手の性格に関する判断で、「本音と建前」は、相手の主張や考え方に関する判断という印象を持ちます。 「裏表は」相手の本質的な問題、「本音と建前」はあくまで相手の意見や表現方法などその人の本質とは関係ない部分に関する評価といった感じですね。 ところで、No.1さんのお礼欄に書いた問題についてどう思われますか。いろいろなご意見をいただきたいと思っています。

  • bakansky
  • ベストアンサー率48% (3502/7245)
回答No.1

「裏表」 については 「聞き手の主観に委ねられている」 と書かれている通りだと思います。 対象となる人が、自分で 「これは表で、こちらは裏だ」 ということは考えられないことですから。 ただし、「本音と建前」 の場合には、「これはあくまでも建前の話ですが、・・・」 と切り出すことがないとは言えません。その場合は、話し手が自ら自覚しているということになります。 また、ある人の発言を聞いた人が、「それは建前でしかない」 と評価を下すことも考えられます。 「本音と建前」 に対して 「裏表」 は、ある人物について、表の顔と裏の顔に分けて、表の顔だけで信用してしまうのは危ないと思われる人物だ、と評価する場合に用いられます。 「裏表のある人」 というと、「言葉通りには信用出来ない人」 「おべっか使い」 「腹の中では何を考えているか分らない人物」 などといったニュアンスがつきまとうので、ある人物に関する好ましくない評価であるといえると思います。 ですから、似てはいるが用い方が異なる表現であるといえるのではないでしょうか。

noname#139942
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「本音と建前」と「裏表」の持つ語感の違いがよくわかりました。 この質問で聞きたいことがもう一つあります。本音と建前の場合、「これはあくまでも建前の話ですが」と前置きしなくても、建前と意識して発言する場合があると思います。例えば、社交辞令などです。 社交辞令などを「建前」ととった聞き手は、建前と知りつつ話をあわせる。しかし、そうでなかった人は真に受け、後になってから裏表のある人だと怨むことになる。こう考えたのですが、この考え方は正しいのでしょうか?

関連するQ&A

  • 「本音」と「建前」の使い分け

    日本人はどのように、「本音」と「建前」を使い分けていますか。 外国人にとって、何によって日本人のこういう言動を「本音」と、そういう言動を「」建前」と判断するのでしょうか。 追伸:海外日本語教育現場で頑張っている一新米日本語教師です。日本文化が大好きですが、こういう現象をどう理解したらいいでしょうか。 ここの日本人の皆さんの知恵をお借りして優秀な日本語教師を目指して、日本文化を正しくお伝えいたしたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。私の質問に対する方々なりのご返答は私の日本語授業の読解文に活かさせていただきたいので、よろしければ「ですます体」のご説明をお願いいたします。 ちなみに以上の私の質問文におかしい日本語の使い方がありましたら、ご訂正をお願いいたします。

  • 「本音」と「たてまえ」

    大人になると・・ 素直に思ったまま行動は出来ません 最近・・ 最近でなくても・・ 本音と建て前・・・ 何か使い分けが出来ましたか? 「嘘」と「誠」でも(笑) 私は最近・・職場で・・イライラしてるけどニコニコしながら仕事してるとこです 優等生のフリして・・心の中で・・「ちょームカツク!プンスカプン!」状態です でも・・・何か聞かれると優等生のコメントが口から出ます(あ~疲れる)(^_^;) ギャップが大きすぎるのかしら・・ もう少し心が安らげる職場を探そうかな・・と少し思うこの頃です 回答お待ちしています(^O^)/

  • 本音と建前

    よく、本音と建前を使い分けるのは良いことだと言われますよね?でも私はそれが良いことだと思えません。学校で、先生や生徒の悪口を言っている人が、いざ本人を目の前にすると、すごく良い子になるんです。私はそれを見て、すごく汚い人間のように思うし、相手を信用できなくなります。私は自分の気に入らないところは言って欲しいです。建前なんていらないと思います。でも、周りはそうじゃない。私は先生にもおかしいと思うことがあったら言います。でも陰であんなにその先生のことを悪く言っていた人たちは、みんな知らんぷりです。結局私はわがままで自分勝手だとレッテルを貼られ、何かあるたびに悪者扱いされます。 自分の立場とか、周りからの評価のために外面だけを良くして、そういう人がみんなに好かれるのは何でなんだろうと思います。でもこれから先社会に出て、ずっとこのままだったら、敵ばかり増えて苦しいだけだし、本音と建前を上手に使い分けられた方が生きやすいかなとも思います。 文章おかしくてすみません。周りに誰もわかってくれる人がいなくて… みなさんの意見が聞きたいです。よろしくお願いします。

  • 「本音と建前」を英語に訳すと?

    「本音と建前」を英語に訳すとなんて訳せばいいのでしょうか? 日本人特有の文化なので、「Honnne and Tatemae means ・・・」という具合に訳すことになるでしょうが、訳がわかりません。日本語で言えば、「言ってることと思っていることが違って、言いたいけど微妙にいいづらいことまたは、本当は思っていないけどそうあって欲しいと思うことを話す文化」という具合になると思うのですが、英語を話す人の文化に併せるとなんと言えばいいのでしょうか?

  • 本音と建て前

    日本には本音と建て前を使い分けるという風習がありますが、 これを日本独自の文化でいいところがたくさんあるという人がいますが、 現在の腐った日本を作り上げたシステムの元凶だと思います。 例えば嘆かわしい事の一つに大人が子供に教育する際この、本音と建て前を使います。 親が自分の子供に「信号はきちんと守りなさい」 と、教育します、 が、 その親は、平気で赤信号でも車が来なければ信号無視をします。 さらに子供と親が一緒の時などは子供と一緒に信号無視をします。 子供が「信号は守らなきゃいけないんだよ」 というと、 親は「大人が一緒の時はいいんだよ」 といい、 ごまかします。 本当にこのような本音と建て前を使い分ける腐った国民性を直さないと これからの日本はどうにもなりません。 僕の大好きな日本をこんな腐った国にした日本人の一人として僕も本当に苦しいです。

  • 本音と建前

    自分は関西出身で現在東京に住むものなんです。東京のひとも本音と建前ってかなりつかいわけますよね?そこはいいんですが、なんか建前が関西と結構ちがっててて戸惑います。関西の建前はなんかこう、わざとうそっぽく、聞いてて建前だって分かるように言ってるとこがあるとおもうんですけど、関東の場合、なんか豪快かつストレートに言ってくるから、もしかして本気なのか?って思ってしまいます。わたしだけでしょうか?関西生まれで関東在住のかたの意見が聞きたいです。

  • 学生時代の友人から、本音と建前を使うものだと…

    先日ある親友から、友人が相手でも、本音と建前で付き合うべきだと言われました。 そういう事になった原因は、共通の友人が友達関係になってから余りにも人の事を考えない言動をしてきたから、とうとう我慢出来なくて、はっきり言ったんです。 僕の場合は、何かあると利用ばかりされてきた事に気付きました。 するとある親友に、本音と建前を使わなければいけないと言われたのですが、自分にとって不愉快に思う事は正直に言わないとなあなあになると思うのですが…。 僕も最低限の本音と建前は使い分けるべきだと思うのですが、ある程度を超えると相手の言いたい放題、やりたい放題になると思うんです。 皆さんは、どう思われますか? 真剣な悩みなので、きつい言い方や誹謗中傷になる回答はお控えお願いします。 宜しくお願いします。

  • 個人主義的な本音

    建て前が重視され難い文化圏では、 本音の【個性】が高く評価されやすくなるのでしょうか?

  • 「日本人のホンネとタテマエ」という言葉を聞いて思い浮かべるもの

    「日本人はホンネとタテマエを使い分ける」と巷で耳にします。 一部の人が面白おかしく取り上げているだけかも知れませんが、 (外国人の発言として取り上げられていたりする。) 皆さんは上のような発言を聞いたことがありますでしょうか? ある方は、 【質問】 この言葉を聞いてどのようなものを思い浮かべますか? ちなみに小生の意見を言うと、、、 外国人が本当にそんなことを言うかは疑問ですが、 巷で私が耳にしたのは、酒の席などを例に出すもの。 日本人は本当の考えをあまり言わない、などとという解釈です。 「おいおい、冗談ではないぞ!」と思いました。 これは決して日本人特異なものではないはず。 (程度の差はあっても) 当事者である一部の日本人が、 勝手に意味を『矮小化』しているような気がしてなりません。 日本人に「ホンネとタテマエの使い分け」があるというならば、 私は『社会的な二重基準』の存在を思い浮かべます。 法律上無罪でも、 実社会的には罪人扱いされたり差別されるというのが好例。 犯罪者を取り押さえた際に犯人が死亡したという事件が 最近相次ぎましたが、法的に問題なしとされても、 民間会社への就職が困難になる等、 実社会的には抹殺されるといっても過言ではありません。 この二重基準・曖昧さの強さこそが、 日本人の「悪しき特徴」であると私は考えます。 日本人の「曖昧さ」も本来は、 周囲との和を保つための先人の知恵なんでしょうが、 現在では社会の支配層の人間が被支配層を支配するための 「都合の良い手段」に成り下がってしまった気がします。 私は文化学者ではないので正確なことはわかりません。 ただ、実際に上のような勘違いな矮小化が実在するとすれば、 二重の意味で滑稽(こっけい)で、 一愛国者として嘆かわしいです。 皆さんはどう思いますか?

  • アスペな私に教えて~本音と建前の解釈について~

    以前、時事カテゴリで「アスペな私に教えて~」という共通タイトルで、差別、本音と建前について質問させていただいた者です。 今回は、解決編というか、私が回答のやり取りをする中で、まとまった考えが、定常発達の一般の方から見て、どう映るのかを、教えていただきたいと思い質問いたします。 私はアスペルガー症候群と、医師より診断を得ており、障害者手帳の3級も受けています。今回の質問文は長い上に、少し読みづらいものと思います。私なりに、これまでの質問を踏まえ分析した結果と、対策などです。 読まれた上で、あなたの目には、どう映ったか教えていただきたく思います。 ー本音と建前に関する理解ー 本音と建前とは、本来個人にとって「真実」と「嘘」あるい「闇」と「光」のように、相容れないものである。本音とは、その人がありのままに思うぶぶんであり、その中には、社会通念として受け入れられない部分も含まれる。極点としては雑人衝動や差別意識なども含まれる。一方の建前は、社会通念・常識といわれるもので、社会はこれによって維持されている。 ただ、建前は理想という側面を持っており、これが前面に出る場合、建前は混沌とする場合がある。例えば、「非武装平和主義」や「格差完全撤廃」「差別の根絶・人類皆兄弟」など、確かに理想として語るには良いが、実践困難なものも含まれる。つまり、建前は、多くの人が現実的共通認識として持てる「小学校的道徳」と理想の極点として憧れはするが、実践困難な「大人の事情的理想」に大別することが出来ると考えられる。 本音のみでは、社会秩序が維持できず、建前だけでは人間性が維持できない。よって通常、本音と建前は部分的に混交する。これは本音よりの例では「死刑」や「個人の利益の優先」といった、もっともな理論を纏い、個人の権利を制限したり、逆に個人の権利を拡大する方向で現れる。 一方の建前よりについては「公益の優先」や「所属集団の最大益のために、個人の権利を無視する」などの、個人の権利を押さえ込む・集団の利益を拡大する方向で現れる。 これを、カクテルや水割りなどの、酒の飲み方で例えてみる。 原酒のままでは、アルコールがきつく、味に癖がありすぎて、普通の人は飲めない。これが飲める人は、普通の人から見ると、泥酔し理性の箍の外れた人に見えると思われる。建前なら「独裁者」本音なら「(今風に言えば)サイコパス」ということになるだろう。 なので、普通は原酒を掛け合わせ、そこにアルコールを薄めるための副材料が投入される。つまり大勢の人に膾炙できるまで混ぜ合わせ、薄めたものがたものが、普段一般に言われる建前と本音と言えるものである。 つまり、建前と本音とは、それが認識された時点で、すでに双方が混ざり合い、どちらの味がより強いかという程度の混交した状態なのである。 ー定常とアスペルガーの違いー 定常発達の人は、この酒を混ぜ合わせる行為を、意識上に載せる機会が少ない。経験則もあるが、無数のレシピの中から、それに近い状況で有用であった割合で、本音と建前、副材料を混ぜ合わせ、その場に「それなりに」通用するカクテルを提出できる「融通性」がある。これは、柔軟さというよりも、記憶配列の連結が、芋ずる式に広がっているからだと、私は考えるが、とにかく、普通の人は「混ざり合う」という状況を、無数の記憶と経験のつなぎ合わせにより、違和感無く理解することが出来る。この点で重要なのは、カクテルのレシピが「目分量」つまりは自分でも言語化して理解できていなくても「なんとなく」出来てしまうということである。 一方で、いわゆるアスペルガー症候群などの人は、経験則にのみよってカクテルを提供しようとする。レシピには分量がきっちりと書いてあり、「ピッタリ」の物を出そうとしてしまうのだと、私は考える。「ピッタリ」を出そうとするので、ハズレがでやすく、「空気が読めない」といわれるようになる。 これは、記憶の連結が「一本釣り」に近いからではないかと、私は考えている。芋づる式であれば、本当に欲しい部分の周辺も着いてくるので、回答に「幅」がある。一本釣りではドンピシャかハズレの二択しかない。散弾と狙撃の命中率の違いのようなものだ。 では何故、「それなり」と「ピッタリ」との違いがでるのか。これも芋づると一本釣りから、考えることが出来るように思う。芋づるとは結局曖昧さであり、引き出される記憶が曖昧な「面」として引き出されているのだと推察できる。具体的に言うと、一つの記憶に付随して、類似するパターンが複数でてくるということだ。いくつものレシピを参照にして作れるので、味の失敗が少なくなる。 それに対して一本釣りは引き出される記憶が「点」であることが、最大の違いである。一つのレシピから出来上がるものは、一つのカクテルで、その汎用性は低い。 さらに言うなら、アスペの思考は一本釣りを基点にしているため、曖昧さに関する理解が薄い。面に見える部分も、よく見ると無数の点の集合体である。 この「面」か「点」かの違いが、アスペルガーが本音と建前を理解する際に、苦労する原因であろうと思われる。 ー対策ー まず、前提として本音と建前は、カクテルのように混ざり合い、部分を端的に抜き出すことが出来ないという前提に立つ。 その上で考えるのは、点の拡大化だ。 一つには、一点を大きくする考え方がある。カクテルの味の汎用化だ。味の幅を大きくすることで、点でも対処できる範囲を大きく出来る。ただ、それも限界はアリ、大味にしすぎると、逆にハズレとなってしまう。 そこで二つ目の考え方だが、点の連結である。一本釣りではなく、釣り針を増やしてやる。あるいは一本釣りをする回数を増やすことである。面に近づけるわけだ。参照に出来るレシピが増えれば、それだけハズレが出る確率を減らすことができる。 このためには、経験則を溜め込むこともだが、使い込むことが必要となる。出す回数が多くなれば、熟練し、同時に複数の「点」を引き出すことも、苦ではなくなり、表面上は「面」と「点」の差は無くなる。 ー対策の問題点ー 習熟・経験値を積み重ねるためには、練習をする必要があり、そのためには周囲の理解が必要である。孤立しがちなアスペルガー傾向のものには、理解を得るための努力が必要であり、理解を得るための習熟先をどこで得るかという「たまごが先かにわとりか」ということに陥りかねない。 また、点を面に拡大化するための努力は並大抵ではない。曖昧さではなくはっきりした論を積み重ねて、同じ範囲を抑えるわけだから、苦労の比は比べ物にならないだろう。また、定常の人と同じだけの範囲を抑えることは、そうとう時間と労力を必要とすると思われ、現実的かといわれると、返答に困る。 ーまとめとしてー 普通であれば、本音と建前は曖昧さの中で、自然に理解されるものである。カクテルを飲む際、味は「カクテル」であり、原料の味ではない。だが、アスペルガーなどは、そこに原料を見てしまう。曖昧さを明らかに細分化してしまう。また、曖昧さを求められる場面でも、細部から全体を作ろうとするため、出来上がりにが求めていたものと違う結果が多い。それが、アスペルガーの特性といえば、それまでだが、そこを理解して、ことの臨む必要があるのではないかと考える。 以上 読了お疲れ様でした。 気付かれたこと、思ったことなどあれば、教えていただけると幸いです。それを元に、考え方の補強や修正などを行い、自分の今後に役立てたいと思います。 よろしくお願いします。