• 締切済み

桶狭間の戦い、その後について教えてください。

桶狭間の戦い、その後について教えてください。 桶狭間の戦いで信長は今川義元の首を取ったと思いますが、その後今川領がすぐ信長のものになったのではないとおもいます、尾張の隣に三河があり、家康がいるはずです。 家康は義元の首が討ち取られた直後に独立して三河領を平定したと記憶していますが、 信長はあの戦いで何を得たのでしょうか? またその後あのあたりはどうなっていったのか軽くでもいいので教えていただければと思います。 それではよろしくお願いします。

  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数2

みんなの回答

  • tak7171
  • ベストアンサー率40% (77/192)
回答No.3

桶狭間の合戦の時、 信長の領土は尾張半分程度しかなく、 ご存知のように兵力も少なかったので、 今川軍が撤退した三河を確保する余裕はありませんでした。 義元を討ち取ったことで信長が得た最大のものは 尾張全土を平定する時間だったと思います。 あの当時、尾張は経済の先進地域であり人口も多く、 草深い三河よりも遥に価値がありましたし、 実際尾張全土を掌握した信長軍は 軍事的経済的に飛躍的に強化されました。 美濃侵攻において敗戦を重ねながらも その度にすぐに立ち直りえるだけの底力を持てたのは 尾張という豊穣の地あってこそでしょうね。

  • kimari14
  • ベストアンサー率17% (50/288)
回答No.2

<<その後今川領がすぐ信長のものになったのではないとおもいます>> その後、今川が信長のものになったことは1度もありませんよ その前に本能寺で信長は死にましたのでね、 武田と徳川が分割し、以降家康のものにはなりましたけどね。 この桶狭間の戦いは尾張と西三河の国境での紛争で、 巷のように義元が 尾張を併合し、京に覇権を打ち立てるもではなく、 国境紛争にかこつけての三河、熱田、津島、伊勢の港を繋ぐ、 海運(水運)権益の奪取にほかなりません。 これを脅かし、奪う(信長の財政基盤をつぶす) ことが当面の今川の戦略でしたが もともとの兵力の差のないうえに 大部隊の結集のしにくい地理的なこともあっての 敵の大将が戦死するという結果になりましたね。 そのとき家康は大高城に守備交代のために入っておりましたし、 丸根鷲津の砦も落ち、 鳴海城には重臣の岡部が固めておりましたので、 副将がしっかりしておれば、信長の退路を遮断して 討ち取れたでしょうがね。 そこは素早く戦線を離脱して清洲に逃げる ヒットandアウエー戦法の成功。 家康が義元戦死をすぐに信じるはずはないでしょう。 岡部も同じ 確かな筋の確かな情報でさえも簡単に 信じないのが、この時代の常識。 今川先鋒の朝比奈は岡崎城で義元の戦死を聞いています。 今川軍の先鋒が本隊の義元より、うしろになるはずはなく 予定どうり目標を完遂して(信長は来なかったの認識)の先頭撤収とオイラは 考えているけど、 <<信長はあの戦いで何を得たのでしょうか?>> 結果的に当面、東の脅威の除去と国内の実質的な統一 三河伊勢湾海運ラインの防衛と権益保持

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.1

信長は戦のあと、残っている今川軍と戦ったり、三河に攻め 込んだりせず、さっさと引き返しました。 大将が討ち取られれば、残りの兵は駿河へ撤退すると考えた からです。   その通りになり、今川方に侵略されていた 尾張の南部と東部を取り返しました。 尾張を守り切り、東の脅威がなくなればよいとの考えです。 美濃を狙う事になります。 松平元康(のちの家康)は岡崎城に戻りましたが、城にいた 今川氏の城代と軍兵は駿河へ引き上げたあとで、難なく城を 手に入れました。   元康の自立です。 義元の子の氏真に一緒に弔い合戦を、申し入れましたが、氏真 にその気なく、逆に信長と組むことにして、とりあえず、三河 平定に乗り出して、年内に西三河を占領しました。 3年ほどかけて三河を平定し、遠江を狙うことになります。 今川氏真は父のあとを受け、領内を治める努力をしましたが、 永禄11年になると、家康が遠江に、武田信玄が駿河に侵入を 開始し、氏真の力では防げず、今川氏滅亡の道をたどりました。

関連するQ&A

  • 桶狭間の戦い後について。

    桶狭間の戦いでは、豪雨で移動の音がしない時に織田信長が正面から突撃を仕掛けて、それが偶然にも今川義元の本隊であり、今川義元の警護の兵はあまり先頭慣れしていない兵が5000人ほどに対して、信長の精鋭2000人がぶつかって信長が勝利した、と言われていますが(いろいろ説がありますが今回はこれでお願いします)。 これについて、桶狭間の戦いの後に信長自身が、「実力も器も今川義元の方が上だった、自分が勝利したのは、ただ運が良かっただけ。」というような趣旨のことを言ったって本当ですか? 参考になるサイトや本があったら教えて下さい。

  • 武田信玄が今川より先に三河、尾張に侵攻したら

    武田信玄は今川義元が桶狭間で敗死したあと、弱体した今川領に攻め込みました。そのとき反対した長男義信を廃嫡し自殺させます。歴史上のifですが、このとき義信の意見を取り入れ、今川勢と共に義元の仇を討つという名目で三河、尾張に侵攻したとします。 家康は三河の統一、信長は美濃との対立で動きが取れないので、今川(1万8千)、武田の軍勢(1万3千)で攻め込めみ、各個撃破すれば意外と簡単に両国を攻め滅ぼすことができたと思います。このとき、家康は臣下することで命は助かりますが、信長は氏真に八つ裂きにされるでしょう。 信長、家康が歴史の舞台から退場し、歴史が大いに変わると思います。 皆さんどう思いますか。   

  • 義元を桶狭間で倒したことで、どのように信長は力をつけたんでしょうか??

    織田信長が天下をとることができた理由はなんなのでしょうか??今川義元を桶狭間で倒したことで、どのように信長は力をつけたんでしょうか??(具体的に) あと、国力=兵力?=徴兵?となるとどの国にも天下をとるチャンスはあったとおもうんですが・・・なぜ浅井や斉藤家などは簡単に倒されたんでしょうか? 信長の野望なんかをしていると、今川家を倒したことで領土を得られますが、実際は家康が独立しただけで領土は得ていないように思うんですが・・・・。 あまり詳しくなく、色々質問してしまいましたが気になったので詳しい方教えてください。。

  • 桶狭間の戦いのあと

    織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いは有名です。 しかしそのあとどうなったのでしょうか? 織田軍の軍勢に対して今川軍の方が多勢であったと思われます。 領地に戻って、体勢をとりなおすことはできなかったのでしょうか? 織田軍が今川領にやってきたとき、今川軍は簡単に降参して軍門に下ったのでしょうか? それとも武士の身分を取り上げられたり、追放されたりしてしまったのでしょうか? 戦国時代の戦には暗黙の了解があって、大将の首をとったら勝敗が決まることになっていたのは本当でしょうか? そんなことを聞いたことがあります。

  • 桶狭間の戦いって

    狭間という名前のイメージにすっかり踊らされていましたが 桶狭間の戦いは奇襲ではなく 桶狭間山という山の上に布陣していた今川軍を山を登って攻撃した強襲作戦だったんですね しかし従来いわれているように当時大雨が降っていたとしても山の上にいれば下から上ってくる織田軍に気づいて先手を取れたはずですが… 今川義元は公家かぶれのぼんくらなんて言われてますが 仮にも海道一の弓取りと言われたほどの男です あっさりと尾張のおつけもの…じゃなかった うつけものに負けるとは思えませんが… やはり太源雪斎が死んだ時点で今川家の運命は決まったということでしょうか…

  • 桶狭間?田楽狭間?

    織田信長が今川義元を破ったのは、桶狭間なんでしょうか?それとも田楽狭間なんでしょうか? この二つは同じところですか? 調べてみるといろんな説があるので、ホントのところを教えてください。 (できたら出典も教えてもらえると嬉しいです)

  • 織田信長のことで教えてください!大至急お願いします!

    今、ある歴史漫画を読んでいるんですが、そのことで聞きたいことがあります。 パソコンで調べたんですが、どうも調べ方が悪いのか分かりません。 そこで皆さんに質問があります! 1、桶狭間の戦いで、今川軍とたたかったとき、徳川家康は人質になっていたんですか? 2、桶狭間の戦いで、今川軍に豊臣秀吉が、今川義元に酒を出して油断させたのは本当ですか? 3、徳川家康は桶狭間の戦いの後、「家来」になったんですか?

  • 『桶狭間の戦い』の謎???

    『桶狭間の戦い』に関する記述で「信長公記」に書かれているものは 1.信長は「おけはざま山」近辺の地理(潮の干満、山の勾配など)を完璧に把握していた。 2.義元はおけはざま山に陣をはっている最中に襲われた。 3.義元が襲われた時、雨が止んだいた。 4.地元の人間が酒などを奉納したという事は書かれていない。 5.木下藤吉朗の事はまったく書かれていない。 などが書いてあります。 特に不思議な事は最終場面では信長勢の2000名が、今川の本陣300名に攻撃を仕掛けています。 つまり兵力の逆転現象が起きています。 ということは、やはり奇襲攻撃だったのでしょうか? 司馬遼太郎は信長が桶狭間の戦いで勝利した理由としては 「騎兵の集団活用により、思いもよらぬ速度で今川の陣に突撃したため」といった理由を挙げています。 また、日本史上、騎兵のみで編成された部隊を用いたのは源義経と信長だけと書いていました。 武田の騎馬隊は歩兵との混合部隊なので純粋な騎馬隊とはいえないそうです。 モンゴルやハンニバルのように騎馬隊を用いたのは源義経と信長だけと書いていました。 司馬遼太郎が挙げる桶狭間の戦いで勝利した理由は正しいのでしょうか? あなたが知っている『桶狭間の戦い』の真実を教えて下さい。

  • 桶狭間の戦い 本当にあんな差があったのか?

    今川義元4万五千(2万五千説もあり) 織田信長3千 なんて言われて、あらまぁ10倍の勢力と戦って、よく勝ったわね。なんて言われていますが、ちょっと待ってね、後年になりますが、太閤検地によれば http://daiiti-web.hp.infoseek.co.jp/zatu001.htm 今川:駿河、遠江、三河で、約70万石 織田:尾張、57万石 だいたい、100万石で3万程度の動員力ですから、今川の2万五千は、いっぱいいっぱい、甲駿相三国同盟 万々歳の動員力です。 この時点で、信長の尾張統一戦は半ば(確か)上四郡の統一は終わっていたので30万石で一万くらいの動員力はあったはずです。 10,000ー3,000 七千はどこに行ったんだろう? あるいは、後世にいかに信長がすごいかと、語るために少々少なめに伝えたのだろうか?

  • 桶狭間合戦でなぜ今川義元は信長に敗れたのですか?

    僕は歴史が苦手(というか全くのど素人)です。ところで、桶狭間合戦は今川勢2万5千、織田勢2千5百の兵力で、なぜ今川義元が敗れたのか理由が分かりません。 そもそも、 (1)織田方は迂回奇襲をしたのですか?それとも正面攻撃をしたのですか? (2)大将たる今川義元は、鳴海・大高両城付近から敵が掃討された後、沓掛城を出ればよかったのに、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか? (3)織田信長は、義元の首を取った毛利新助よりも、簗田政綱を功第一としたそうですが、これでは毛利新助は怒り出してしまわなかったのですか?