• ベストアンサー

桶狭間の戦いって

狭間という名前のイメージにすっかり踊らされていましたが 桶狭間の戦いは奇襲ではなく 桶狭間山という山の上に布陣していた今川軍を山を登って攻撃した強襲作戦だったんですね しかし従来いわれているように当時大雨が降っていたとしても山の上にいれば下から上ってくる織田軍に気づいて先手を取れたはずですが… 今川義元は公家かぶれのぼんくらなんて言われてますが 仮にも海道一の弓取りと言われたほどの男です あっさりと尾張のおつけもの…じゃなかった うつけものに負けるとは思えませんが… やはり太源雪斎が死んだ時点で今川家の運命は決まったということでしょうか…

  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数3

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kusirosi
  • ベストアンサー率32% (2838/8861)
回答No.1

・狭間という名前のイメージにすっかり踊らされていましたが 桶狭間の戦いは奇襲ではなく 桶狭間山という山の上に布陣していた今川軍を山を登って攻撃した強襲作戦だったんですね 江戸時代 (おそらく時代小説\(^^;)「信長公記」出版直後から) から、そういう誤解は、よくあるのですが、 実際には義元が襲撃を受けたのは、 桶狭間の近くの田楽狭間というところで奇襲されたと 複数の史書に書かれており、定説となっています。 ↓ http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/okehazamayama.html 追記-桶狭間山 「御敵今川義元は、四万五千引率し、桶狭間山に、人馬の息を休めこれあり」 『信長公記』のこの記述が、今川義元が休息していたのは「桶狭間山」である、という誤解の元となりました。 『信長公記』では、「永禄3年」5月17日~19日に至る桶狭間の経緯をすでに「天文21年」と謝って記しています。 桶狭間の戦い以前、 「今川の大軍は国境を越えれば清須には日ならずして到達してしまうに違いない」と思った信長は、前もって梁田鬼九郎、蜂須賀小六、前野将右衛門らに尾州国境の探索を命じています。 5月17日、今川義元軍は沓掛から大高という砦を目指して進軍を始めます。 今川勢が沓掛城を出た後、大高までの15町の道のりを道なりに真っ直ぐ進むとしたら、唯一木立があるのは桶狭間山の辺りです。桶狭間山の狭間道には樹木が多く茂り、暑さをしのぎやすい。その先は小丘が連なって起伏もあるので「休息をとるにはここ以外にはない」と偵察をしていた小六等は確信したのです。 暑い中の長途で疲れ切っていた義元が、休息をとる為にわざわざ山に登るでしょうか? 義元が休息をとったのは間違いなく桶狭間山の狭間「田楽狭間」であり、山頂に見張りの兵は立たせたものの疲れ切っていたため、兵達は「正体もないありさま」だったのです。 18日夕刻、今川軍に丸根山・鷲津山の砦付近から攻撃されるとの情報が入っても信長は援軍を出しませんでした。援軍として出せるのは、たかが一千程度。援軍を出し応戦の構えを見せれば今川勢も総力をあげて攻撃を仕掛けてくるし、それでは半日もしないうちに今川軍にやられてしまうのは目に見えていたからです。 しかもすでに信長は、狭間道にて今川勢を足止めするよう祐福寺村の村長藤左衛門や百姓に化けた蜂須賀党に命じていたのです。その時彼らは、狭間道に 1.酒         10樽 2.こんぶ       50連 3.米餅        一斗分 4.粟餅        一石分 5.唐芋煮付け    十櫃分 6.天干大根煮染め 五櫃分 を用意させ、義元に直接献上させています。すべてその場で口にしたくなる物ばかりです。 つまり、休息をとりたくなる場所に休息をとるための物を用意し今川軍の到着を待っていたのです。 ここで休息をとるかどうかは「賭け」でした。 そして、義元は信長の策に填りました。 「脇は深田の足入れ、一騎打ちの道」 と『信長公記』が記したような狭間で義元は休息をとったのです。 「無勢の体、敵方より定かに見え候」 信長の奇襲は、生駒屋敷に集う者達のみにしか知らされていませんでした。 奇襲をぎりぎりで聞かされた家老達は、信長がそのような狭い場所に突っ込むのは 「無勢の体、敵方より定かに見え候」・・・こちらの少数軍勢がわかってしまうから止めた方がよい、と必死に止めます。 「無勢の体、敵方より定かに見え候」 とあるのは、信長が前もって偵察を出し、義元の状況報告を具に受けていたことを知らない者達が、「敵からこちらの軍勢の少なさが見えてしまう」と危惧し信長の強行を止めようとしたもので、実際の義元軍は、信長軍が押し寄せてくることなど予想もできないほど疲れ切っており「正体のない様」だったのです。 19日未明「義元、狭間にて休息間違いなし」の情報を得た信長は、疾風のごとく善照寺砦から中島砦を経て桶狭間山を越えて、義元の後方の山頂から、田楽狭間で休息をとっている義元本陣になだれ込みました。 つまり「無勢の様体、敵方からさだかに相見えた」というのは、突っ込もうとした信長から「正体ないさまに三々五々に散った今川勢が相見えた」ということになります。 『信長公記』は言います。 「(義元の)運がつきたるしるしにや、おけはざまという所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所ということ根なし。深田へ逃げる者は所をさらず、はいづりまわるを者ども追い付く追い付く。2つ3つずつ手々に頸をとり持ち、御前に参り候。頸は何れも清洲にて御実検と仰せられ、義元の頸を御覧じ、御満足斜めならず。もと御出の道を御帰陣候」 この当時、信長は信長の人物像に疑問を持っている家老達を信頼していませんでした。 信長が信頼していたのは、生駒屋敷に集う蜂須賀党、生駒八右衛門、前野将右衛門らのみだったのです。 奇襲の策は、清洲城の家臣等には全く知らされていませんでした。 池宮彰一郎氏の著書『本能寺』の中でも、「太田牛一の信長の思慮分別への忖度は、並の家士であったものの域を出ない」と書かれているように、私も太田牛一は足軽であり、戦闘そのもののある程度の描写はできても、その裏でどのような画策がなされていたのかまでは、知り得なかったと思っています。

azuki-7
質問者

お礼

田楽狭間で 串にさしたこんにゃくや揚げを食べて休んでいた それがおでんの始まりといわれてますよね 田楽のでん をとって おでん しかもみそをつけて食べていたのでみそ田楽 だから愛知の人はおでんに味噌をつけるのですね

その他の回答 (2)

回答No.3

>桶狭間の戦いって 狭間という名前のイメージにすっかり踊らされていましたが 桶狭間の戦いは奇襲ではなく 桶狭間山という山の上に布陣していた今川軍を山を登って攻撃した強襲作戦だったんですね いや、丘の上に陣取った義元を奇襲したんだよ。 強襲だと今川軍が防御陣を引いて待ち構えている所に攻撃となりますね。 あくまで、虚を突いてるので奇襲です。 >しかし従来いわれているように当時大雨が降っていたとしても山の上にいれば下から上ってくる織田軍に気づいて先手を取れたはずですが… 頂上に5000人もこもれる山とかないでしょ? 頂上から麓にかけて布陣していて、麓の部分が壊走してその配送に巻き込まれたんじゃ? >やはり太源雪斎が死んだ時点で今川家の運命は決まったということでしょうか… 無関係では

azuki-7
質問者

お礼

もう少し歴史を学びましょう ありがとうございました

noname#177763
noname#177763
回答No.2

#1さんが詳しくコメントされていらっしゃるので、ざっくりと…。 ウィキペディアで『田楽狭間』と検索してみて下さい。 『桶狭間の戦い』の事を紹介しています。 最近では『桶狭間』より『田楽狭間』で織田信長の軍勢が 奇襲をかけたというのが定説になりつつあります。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

関連するQ&A

  • 桶狭間の戦いのあと

    織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いは有名です。 しかしそのあとどうなったのでしょうか? 織田軍の軍勢に対して今川軍の方が多勢であったと思われます。 領地に戻って、体勢をとりなおすことはできなかったのでしょうか? 織田軍が今川領にやってきたとき、今川軍は簡単に降参して軍門に下ったのでしょうか? それとも武士の身分を取り上げられたり、追放されたりしてしまったのでしょうか? 戦国時代の戦には暗黙の了解があって、大将の首をとったら勝敗が決まることになっていたのは本当でしょうか? そんなことを聞いたことがあります。

  • 大至急!桶狭間の戦いについて!

    今、チャレンジの社会でマンガを見ていたんですが、疑問に思ったことがあります。 桶狭間の戦いで、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が、今川軍の頭、今川義元に酒を送って油断させ、その時織田軍が攻め込んだというのは本当なんでしょうか? 一応調べてみたんですが、分かりません。大至急お願いします!

  • 今川義元は桶狭間の戦いのときどのような格好をしていたのでしょう?

    今川義元は、時代劇などで桶狭間の合戦のとき鎧を着ていなかったり、公家風の格好をしていたりしています。 自分は、やっぱり陣羽織ぐらいはきてたのではないかと思います。 本当はどのような格好をしていたのでしょうか? 教えてください。

  • 『桶狭間の戦い』の謎???

    『桶狭間の戦い』に関する記述で「信長公記」に書かれているものは 1.信長は「おけはざま山」近辺の地理(潮の干満、山の勾配など)を完璧に把握していた。 2.義元はおけはざま山に陣をはっている最中に襲われた。 3.義元が襲われた時、雨が止んだいた。 4.地元の人間が酒などを奉納したという事は書かれていない。 5.木下藤吉朗の事はまったく書かれていない。 などが書いてあります。 特に不思議な事は最終場面では信長勢の2000名が、今川の本陣300名に攻撃を仕掛けています。 つまり兵力の逆転現象が起きています。 ということは、やはり奇襲攻撃だったのでしょうか? 司馬遼太郎は信長が桶狭間の戦いで勝利した理由としては 「騎兵の集団活用により、思いもよらぬ速度で今川の陣に突撃したため」といった理由を挙げています。 また、日本史上、騎兵のみで編成された部隊を用いたのは源義経と信長だけと書いていました。 武田の騎馬隊は歩兵との混合部隊なので純粋な騎馬隊とはいえないそうです。 モンゴルやハンニバルのように騎馬隊を用いたのは源義経と信長だけと書いていました。 司馬遼太郎が挙げる桶狭間の戦いで勝利した理由は正しいのでしょうか? あなたが知っている『桶狭間の戦い』の真実を教えて下さい。

  • 桶狭間の戦い、その後について教えてください。

    桶狭間の戦い、その後について教えてください。 桶狭間の戦いで信長は今川義元の首を取ったと思いますが、その後今川領がすぐ信長のものになったのではないとおもいます、尾張の隣に三河があり、家康がいるはずです。 家康は義元の首が討ち取られた直後に独立して三河領を平定したと記憶していますが、 信長はあの戦いで何を得たのでしょうか? またその後あのあたりはどうなっていったのか軽くでもいいので教えていただければと思います。 それではよろしくお願いします。

  • 桶狭間?田楽狭間?

    織田信長が今川義元を破ったのは、桶狭間なんでしょうか?それとも田楽狭間なんでしょうか? この二つは同じところですか? 調べてみるといろんな説があるので、ホントのところを教えてください。 (できたら出典も教えてもらえると嬉しいです)

  • 異説 桶狭間

    現在通説となっている"桶狭間の合戦"には、ここ何年かの間に大きな変遷がありました。 私が子供の頃は、信長率いる少数精鋭部隊による迂回奇襲が常識でした。 ですが、このところの十数年間に"迂回奇襲説"は真っ向から否定され(TVドラマや関連本での表記も皆目無くなった)、信長軍が低地の中嶋砦より攻め上り快勝を収める"正面強襲説"が有力となり、私自身"桶狭間"のイメージが様変わりして仕舞いました。 しかし、ここ最近"迂回奇襲説"が復活してきています。 主力の正面強襲部隊以外に、今川本隊(桶狭間山)の背後に廻り込んでいたと思われる別働隊の存在が取り沙汰されています。 もしこの別働隊の存在が本当だとすると、織田軍はただでさえ劣勢の兵力を膳照寺や鳴海城方面に割き、それ以外に別部隊を抽出していたことになり、戦の常道としてこの様な作戦が成り立つのか不思議でなりません。 やはり信長の天才たる所以なのでしょうか? 皆さんのご意見をお聞かせください。

  • 桶狭間???

    桶狭間について3つの疑問があります。 1・今川義元の上洛軍は「2万5千人」とありますが、これは実質戦闘員の人数なのでしょうか?例えば非戦闘員の「荷駄隊」も含むのでしょうか。それとも荷駄隊もいざとなったら戦ったので準戦闘員扱いだったのでしょうか。 2・これは仮定質問になってしまいますが、もし桶狭間奇襲が失敗したとして、上洛は可能だったのでしょうか?畿内には三好、六角勢力など健在なのでは?長期戦になった場合、地の利や領国の遠さを考えると長期滞在は無理なのではないでしょうか。 3・そもそも義元自身「上洛」と言う表現はしたのでしょうか?将軍からの上洛要請があったとか、○○将軍を担いでの入京ではないので「上洛」とは呼べないのでは。 と言うより単なる侵略侵攻ではなかったかと思いますが(あわよくば上洛も視野にいれようか程度の)どうなのでしょう。

  • もしも桶狭間で信長が死んでいたら

    まず「歴史にifは無い」と思う人はご遠慮ください。 では質問なのですが、もしも桶狭間の奇襲に失敗して信長が死んでいたら、その後どの勢力が天下をおさめようと台頭してきたのでしょうか? 普通に考えて今川義元の様なきがするのですが、ネットで色々見ているとどうも義元は上洛や天下への野望は無かったようでした。 そうなると武田が今川との同盟を後ろ盾に上杉を倒し、地盤を固めてから今川と決別し上洛を果たすか。 それとも京を抑えていた三好がそのまま勢力を拡大して天下人の様になっていたのか。 皆さんはどのように思いますか? お遊び程度の軽い気持ちで自由に回答してください。面白い回答を期待しています。

  • 桶狭間合戦のIF

    もしも、、、 (1)今川本隊が織田軍の接近にいち早く気付き、織田軍を撤退させた場合 (2)今川本隊が襲撃され壊滅したものの、義元が単騎逃げることが出来た場合 この二つそれぞれで その後の駿・遠・三および尾張の情勢はどのように変化していたと推察しますか?