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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ひとに対して 自分の心情を押しつけることしかしないひとは 人間と呼べる)

なぜひとには自分の心情を押し付けるひとがいるのか?

このQ&Aのポイント
  • ひとに対して自分の心情を押しつける行為は、本当に人間と呼べるのか疑問に感じる。
  • 一部の人は自分の心情に反する意見には耳を傾けず、自分の考えを押し付けようとする。
  • このような人は自己中心的であり、他人の感情を無視する傾向がある。

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noname#135843
noname#135843
回答No.18

 こんばんは、お世話になっております。Hidocchiでございます。  また、neutral様のお元気そうな言葉を拝聞し、うれしく思っております。 > ひとりだけは例外をつくって 自分の心情にさからうからという理由で おまえは消えろと言い あとの人びとには 一方で世辞をつくろい あぁいい考えですねと受け答えつつ 他方では自分の心情を是が非でも何としてでも押しつけようとする。こういうことしかしないひとは 人間と呼べるか?  まず、結論から申しますますと、”人間”と解しております。  確かに、”珍種の生物”と考えたこともございますが........  以下に愚見を述べさせていただきます。  おそらく、”特定の例外者を排除し、 他方では自分の心情を是が非でも何としてでも押しつけようとしかしない人”も、普段の生活では、よき同僚であり、よき親・兄弟であり、また、よき友人でもあるかと思っています。  ですが、ある集団関係(組織)の中では、逆に、排除・抹殺者ともなってしまうのではないかと考えております。  その中で、想起しましたのは、ナチスによるユダヤ人の迫害・殺戮をモデルにした”スタンフォード監獄実験”でございます。  つまり、ある空間(例えば、OKWaveコミュニティー等です)では、質問とそれに対する応答を繰り返していますと、「理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう」ことが生じてしまうということでございます。特に、そのひとに人気があったり、かつ、そのひとに、”独自の正義感”のようなものが生まれますと、起こりうる可能性が非常に高いと推察されます。  そして、いったんそれが暴走してしまいますと、止めどなく繰り返してしまうものかと考えております。これは、”監獄実験”で、実験が中止されたにもかかわらず、「話が違う」と続行を希望したひとがいたのと同じ傾向かと思われます。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E7%9B%A3%E7%8D%84%E5%AE%9F%E9%A8%93 からでございます)  お役に立つところがございましたら、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 これについて まづわたしは( a )をかの実験にならって《権限を付与された人間》と設定しました。言いかえると 《話が違う》となりうるところの《話》をその実験なら実験という狭い範囲において設定しているかたちです。  したがって ( a-1 )は その社会情況に違いはむろんあるのですが 全体の社会の中でおこなわれるところのあたかも実験の場合に相当すると考えます。要するにその場合の《話》は あるとするなら 社会全体の側から一人ひとりの個人にその情況として 暗黙のうちに与えられている(か または そんな社会の黙契をへっちゃらだと思っているかである)と思われます。  すなわちわたしがそこからみちびく結果は 事実としての結果は 《たとえ暴走したとしても 理性の歯止めはやがて利くであろう。もしくはまったく利かなかったとしても あとでは(または内心では)どうも間違っていたようだなぁとの思いを抱くであろう》になります。  情況を架空のうちに設定する(ゆえに それとしてほんとうの)《実験》は 《作り話》としての話が大前提にあります。社会(人間関係)として狭く限られた空間で行なわれますし その時間過程も限られています。そのような場合 旅の恥はかき捨てではありませんが いわゆる責任を取らないでよい(または 限られた責任しか取らなくてよい)という思いが強く 何ごとにもはたらくのではないでしょうか。  つまり 情況やそれにまつわる《話》が もっと広く生活に即した実際のことであるならば 割り合いに責任感は持つでしょうし まわりからもかもし出されてくると言えるのではないでしょうか。  問題は この《実験の場と時間》を どういうわけか 《ひとの生涯》に当てはめてみるという場合です。早くいえば 《どうせ五十年か百年のこったぁ。向こう見づの無頼漢で何がわるい。殺したくば さっさと殺せい》という思想を持つ場合です。その場合の《話》は その本人の作るがままになります。《話しが違う》もなければ 大きな広い場としての《話》にわざわざ合わすこともないと成りかねません。  言いかえると 上の分析での次の内容が示す範囲をはみ出す場合です。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~  (5) おそらくナチス下での被験者らは いやいやながらあるいは不本意だがやったと言うでしょう。思いも実際そうなのでしょう。たとえめちゃくちゃに暴走したとしてもです。途中でやめさせられて《話が違う》と言い続行を望んだとしてもです。それとも ユダヤ人憎悪一色に心の底から染まった人物が たのしかったと言うかではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 無頼漢にとっては 何かをおこなって省みるに《いやだった》という場合がありません。不本意だったと思っても やったことはやったことだと見るでしょう。《暴走する・しない》は 話の筋に入って来ません。もし物理的な力によってその暴走をとめられたとしたら ただそれだけのことと思うはずです。もし一応《話がちがう》ということになったら もう放っておくだけです。そんな過去はなかったことになります。いま現在の《話》から遠ざかったのなら なかったことになります。《ユダヤ人憎悪だったかどうか》も 過去となった話にはもうかかわりがありません。  すなわち 自分のいま持っている《話》だけが 現実であり 他人もみなすべて――本来は――このおれにとっての現実である《話》に従え。染まれ。という思いのみが 《人間として持つ思想》だと思っている。つまり 端からおしまいまで 《押しつけ人生》になりがちです。  これを《人間》と呼べるか?  ただし おっしゃるように この自分独自の《話》を無条件に頭っから《自由に》降り注ごうとするのは ただひとり 世間にとって例外だと見なされている〔と自分が確信を抱いたところの〕人間にのみ当てはめるというものです。  ★普段の生活では、よき同僚であり、よき親・兄弟であり、また、よき友人でもあるかと思っています。  ☆ というそのとおりの現実があるようなのです。  一事が万事と見ることは為し得ないか。  一匹よりも九十九匹を大事にするべきか。  《まこと》は 中間にありましょうか?  中道と言うべきでしょうか。  《無頼漢》――その気配を わたし( bragelonne )に感じたということでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 そうですか。――ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。――まづもってわたしは 根本的にこの《スタンフォード監獄実験》の結果としての《まとめ》をまちがいだと考えます。  したがいまして ひどっちさんの結論すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  まず、結論から申しますますと、”人間”と解しております。  確かに、”珍種の生物”と考えたこともございますが........  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これにも批判をしてみたいと考えます。強いて申せば 《まこと》は中間にあるというふうにも考えました。  ▼ (スタンフォード監獄実験 Stanford prison experiment)~~~  § 実験の結果  ○ 権力への服従   強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう。  ○ 非個人化   しかも、元々の性格とは関係なく、役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どちらもわたしは ふつうの生活において人間〔関係〕に起こり得る一般的な傾向だとは認めません。  ★ ”監獄実験”で、実験が中止されたにもかかわらず、「話が違う」と続行を希望したひとがいた  ☆ この同じ事実に逆に 認めない理由があります。  (1) すべては取り決め合った《話》を前提としその筋においておこなわれていると見るからです。  (2) 言いかえるなら ユダヤ人虐殺の場合とは 大きく社会の情況がどうであるかが違っているという意味です。  (3) 逆に思考実験をしてみましょう。ナチスドイツという現実の社会情況の中で そのユダヤ人の迫害を《実験》としてやろうとした場合はどうかです。   (4) 被験者は仮りにことごとくスタンフォード監獄実験の結果と同じような行動を取ったとしてみます。つまり実験結果は その現象として起こった事実はおおむね同じ内容を示したという場合です。  (5) おそらくナチス下での被験者らは いやいやながらあるいは不本意だがやったと言うでしょう。思いも実際そうなのでしょう。たとえめちゃくちゃに暴走したとしてもです。途中でやめさせられて《話が違う》と言い続行を望んだとしてもです。それとも ユダヤ人憎悪一色に心の底から染まった人物が たのしかったと言うかではないでしょうか。  一般にわたしは人文科学の主題や社会科学の問題で実験というものを信用しません。逆に言えば 国家のもろもろの政策から個人の生活態度まですべては 試行錯誤をまぬかれない実験の過程だと捉えざるを得ないところがあると考えます。  いわゆる統計は その選択肢に即しての限りで有意な内容を示しているのでしょうけれど 選択肢を立てる思想が違えば かなり違った結果を示し得るとも考えます。言いかえると この統計も実験のようなものだと考えます。  仮りにですが このOKWave でその参加者のあいだに――監獄実験にならえば―― ( a )《権限を付与された人間》と ( b )《( a )に比べて権限を持たざるふつうの状態にある人間》との区別があるとしてみましょう。(《レフリー》の制度もあるようですから 多かれ少なかれ適度に《監視》が行なわれていると言えるかも知れません)。  このとき要するにひどっちさんは ( a )の内容をそれとは違って ( a-1 )《人気がある。あるいはつまり人びとのためにも行動しているのだと自認するようになる。やがてその人の中に或る種の正義感が生まれその信念によっても 自分の行動に持つ自信を深める》というふうに設定されたわけです。  そこで  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり、ある空間(例えば、OKWaveコミュニティー等です)では、質問とそれに対する応答を繰り返していますと、「理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう」ことが生じてしまうということでございます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とみちびかれた。

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その他の回答 (28)

回答No.8

こんにちわ。書き逃げさんです。 ご返信ありがとうございます。 はい・・・ 受け取るとか受け取らないとか、 反応の問題ではないということですね、 はい・・・ 人間が、自分の心情を、言語化する、 こと自体は、人間は、受け入れる、 そうして、発言の中身に対して、 必要であれば「無視」という対話方法を選び、 しかしそれは人間自体に対する無視ではない、 ということですか。 >☆ この文章の意味は 詳しくはどうなりましょうか。 :ん~。 「受け取る人」というのは、 「>押し付け」を スルっと納得してしまうことができる人、 あるいは納得したことにすることができる人、 「ワカリマシタ、オワリ」までがスムーズな人、 「>押し付け」であると感じないでいられる人、 とでも言いましょうか。 (1)から(4)は、すべてわたしには無理です。 そのように発想することもできませんでした。 結局、ぶらじゅろんぬさんは、 「>人間でなくなっている場合」は、ありえない、 とおっしゃっているように思うのですが。 「>相手の発言」が、 「>心情」ではなくなっている、 ということですか。わかりませんが。

bragelonne
質問者

お礼

 ありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~  結局、ぶらじゅろんぬさんは、   「>人間でなくなっている場合」は、ありえない、  とおっしゃっているように思うのですが。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ 分かっていないのです。密林を手さぐりで歩いています。  ★ ~~~~~~~~~~~~  「受け取る人」というのは、  「>押し付け」を  スルっと納得してしまうことができる人、  あるいは納得したことにすることができる人、  「ワカリマシタ、オワリ」までがスムーズな人、  「>押し付け」であると感じないでいられる人、  とでも言いましょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはですね。会社の中でにしろ公務員や NPO の仲間の間においてにしろ そのとき協同でおこなっている仕事がある場合 起こり得るとは思いました。  その言い方によりは 仕事の進捗のほうに重点が置かれているという場合です。それなら その《押しつけ》の表現が 人間性じたいの問題であると直接に全面的に受け取る必要がないと考える余地があると思われるからです。  でもいまは――わたしのかかえる課題としては―― そうではなく その表現がもろにその人の自己表現であり 人格ないし人間性じたいの問題を表わしていると受け取らざるを得ない情況にあると思っています。  ですから 前回の(1)から(4)までの解釈が出て来ます。    人格の共存共生というよりは 一方が他方の人格を否定する内容を発言しているという場合です。  考えすぎだよという反応も予定していますが わたし自身はそうは思わないというところです。  ★ ~~~~~~~~~~  「>相手の発言」が、  「>心情」ではなくなっている、  ということですか。わかりませんが。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この命題に何となく反応するとしますと  ○ 人間のことばによる発言は ひょっとすると《おまえは人間ではないぢゃないか》という表現を使ってでも 互いに相手の人間であることを守ろうとしているということなんですかね?  花の色合いが暗いなぁ。勝手ながら。

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回答No.7

ぶらじゅろんぬさん。こんにちわ。 わたしの住んでいる国では、 「>押しつけ」を、 「受け取らない」側のほうが、 「人間ではない」と、 みなされる傾向にあるようです。 空気を押し付けられているのに、 窒息しそうになる宙ぶらりんでした。 と、弱音吐きました。 それでは書き逃げます。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ と、弱音吐きました。  ☆ という発言の意味あいにわたしの理解の行き届かない感じがありますが 質問者として次のように趣旨説明をさらに明らかにしてまいります。  まづ  ★ 「>押しつけ」を、「受け取〔る・受け取〕らない  ☆ というのは 精確ではないというのが わたしの考えです。表現だけの問題かも知れませんが 次のようです。  ○ 《押しつけ》である場合もない場合も その対話の相手の発言があったこと自体は まづ受け取る。言いかえると 言論の自由を享受する人間という存在であること自体は 互いに 受けとめ受け容れるということ。  ○ その上で 発言に関しては その中身に応じて臨機応変に対応します。応答の必要がないと判断した場合や無視するのが――最善の策がなく最善でないときにも――次善の策としてより少なく悪いと見た場合には そうします。  ○ これら全体の行為をもって わたしの考えでは 対話を心より継続しており 互いにその存在をとうとんでおり したがって当然その場の互いの交通じたいを受けとめ受け容れている。という格好です。  さて  ★ ~~~~~~~~~~~~  「>押しつけ」を、  「受け取らない」側のほうが、  「人間ではない」と、  みなされる傾向にあるようです。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この文章の意味は 詳しくはどうなりましょうか。  (1) 何が何でも声をかけられ問われたなら 返事をしなさい。という意味なのか?  (2) たとえ返す言葉に苦しんで何も言えないとしても その対話の場にいつづけなさい。という意味なのか?  (3) 相手の言葉は 誰が見てもひどいものであるとしても ともかく《思いやり》をもって 相手の心の落ち着くのを待ちなさい。それまでその場を離れてはいけません。という意味なのか?  (4) 相手の応対のひどさにいくらおどろきその人間性を根本までうたがうという気持ちや考えを持つに到っても 相手が人間ではないという判断だけは控えなさい。そういう心が起きたなら その心のほうをころしなさい。つまり 自死のほうをえらびなさい。という意味なのか?  (5) ほかにありますか?   あぁ 書き逃げさんだったか。

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回答No.6

 お互いに心したいお話ですね。  

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回答No.5

本性だね。品性かな。反射だな。

bragelonne
質問者

お礼

 浮世とんぼさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 本性  ☆ 記憶・知解・意志という三つの行為能力を持った自然本性という意味もあるでしょうし あるいは正体を表わすというときの本性(ほんしょう)という意味もあると思います。  ★ 品性  ☆ わたしの考えでは――この質問を挙げたときのですが―― 人間としての自然本性がなくなっていると思ったものです。ですから とうぜん《品性》も何もかも人間としてのしるしは消えているとやはり思ったものです。  ★ 反射  ☆ たしかに相手が人間でなくなっているという認識は わたしの状態がその相手という鏡面に映ったすがたについての認識に過ぎなかったかも知れず あるいは たとえそうでなくても 相手の人間ならざる状態を認識したことに応じて――条件反射のごとく――わたしはその同じ状態になることを複写のようにして行動しているのかも知れません。    もしそうだとしたら それも必要ではないかと――そのときには 意識していませんでしたが――判断していたのかも知れません。わたし自身が 相手を映す鏡になること・そのことを表現に出して公開すること これが必要だと思ったのかも知れません。  結論を出しませんが 応答としてはこんなところです。ありがとうございました。

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  • cxe28284
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回答No.4

おっしゃっている意味を正確に把握しているかどうかは分かりませんが、例えば見解の相違、 価値観や好みの違い、など、それぞれが違って当たり前のことを主張しても、 押し付けになるのでしょうか。独りだけ例外を作って以下の文は、 故意に的を絞ってある特定の人物を阻害し、悪意を持って遇している。 いわばいじめの様な被害を受けておられるのでしょうか。 状況が今一つよく分かりません。 人間とは罪深い者と云う人間観に立てば、善意以上に悪の誘惑に弱いのが人間だと思います。 人間の本性を認識するところからでなくては、救いはないと思います。 「われらを試みにあわせず悪より救いだしたまえ」イエスがこう祈りなさいと教えられた 主の祈りの一節です。 ご質問に沿った回答が出来なくて、すみません。

bragelonne
質問者

お礼

 スィーエックスイ―さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ☆☆ (趣旨説明) 自分の心情にさからうからという理由で おまえは消えろと言い  ☆ この部分が重要だと思います。  あとは 回答No.1への応答(お礼欄)をごらんください。ここで 自分ながらあんがい冷静に分析出来たかと考えます。  だったらもう閉めてもよいではないかという考えも浮かびますし あるいはそれほど具体的に事実を示すのもどうかという思いがありますし(つまり 上の分析を得たあと そういう気持ちが現われました) 思案のしどころです。  ★ 「われらを試みにあわせず悪より救いだしたまえ」イエスがこう祈りなさいと教えられた / 主の祈りの一節です。  ☆ われらにへその曲がったことをする人びとについてその行為をわれらが キリストとその父なる神にゆだねるにかんがみて われら自身のへそ曲がりを覆い包みたまえ。とも祈りますね。  この質問を挙げたときの考えでは その《へそ曲がり》も《試み》も 相手が人間であるという前提があっての話だと思ったということなのです。もし人間でなくなっていたとしたら いったいどういう考えでどう扱ったらよいのか。こういう疑いと戸惑いでした。  ★ 人間の本性を認識するところからでなくては  ☆ その《自然本性》がなくなっているのではないかという疑いです。  そういう独り善がりの決めつけをしなければならないのではないか。というところまで行き着きました。  たぶんいまの考えでは これからもう一度その相手に直接に話をすることになるのではないか。こう思っています。  きょう半日のあいだの心の中の動きです。  この質問はもう少し開いています。質問をしたことがそのまま消えていくように白紙に戻ったなら あらたな行動を始めたい。こういまは思います。(確定ではありませんが)。  ありがとうございました。

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回答No.3

>ひとに対して 自分の心情を押しつけることしかしないひとは  上記における「心情」は、個人的感情でしょうか、環境認識の結果 としての知識も含むものでしょうか? もし後者を含むならば、教育や学習を否定する話になります。 おそらくご自身の考えが、否定的に扱われた結果としての思いが 込められているのではないかとお察ししますが、「自分の考えが 誰からも批判されない=変わらない=進歩がない」という事で、 異なる意見を提起される事は、チャンスだと考えるべきです。 「押しつける」といっても、どのように「押し付け」られているの でしょう? ここでは言葉の批判以外、誰も強制力はありません。 それともご自身のお考えが、世界最高で誰からも批判され得ない ものだと思われているのでしょうか? 私も批判されがちな方ですが、批判に中身があれば参考にし、 なければ『バカか』と思って放置するだけです。ここには賞罰も ない以上、他人の評価を得たがる必要もないはずです。 (子供に「バ~カ!」と言われて、腹が立つ人には難しいけど)

bragelonne
質問者

お礼

 あなたは  ★ (子供に「バ~カ!」と言われて、腹が立つ人には難しいけど)  ☆ というときの《子ども》ですか?  これでぜんぶにこたえたはずです。  ☆☆ 自分の心情にさからうからという理由で おまえは消えろと言い   ☆ という現実を見落としています。  そのように言う場合の《心情》はそれが たとえ  ★ 環境認識の結果 / としての知識も含むもの  ☆ であったとしても 取るに足りないでしょう。初めっからその《心情》のほうが  ★ 教育や学習を否定する話にな  ☆ っているのですから。  あーあ ひとりごとほどばからしいこともない。

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回答No.2

宇宙は自分の補完です。 この意味が、あなたのおかげで、確かなものとなりました。 あなたは、己の補完として周囲環境をみている。 よって、ご自身こそ、変容されることをお勧めいたします。

bragelonne
質問者

お礼

 なんちゃって。    これもへのかっぱのたぐいだと思います。  おもいやりとしてのおまけ:  ほんとうにそう思ったのなら 自分および相手のわたしにその中身をしっかりと納得の行くように 言葉をつくして心をつくして思いをつくしてたましいを尽くして 文章にして表わそうと 少なくとも こころみることでしょう。  ただの早合点でしょう。そうでないと言うなら こころみてごらん。出来っこないだろうよ。  つまりそう言うのも これまでのあなたの――実質的に人となりが分かるくらいには 密度の出得るやり取りがあったところの――わたしに対する態度が 変わっていないのに 何をちょこざいな という意味です。

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回答No.1

人間と呼べます。 嫌な人間ですね。 まことを一つ。 怒りを発散するのに質問形式を使うべからず。

bragelonne
質問者

お礼

 木造百年さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 嫌な人間  ☆ でも  ★ 人間と呼べます。  ☆ というご見解ですね。  ただ ずっとわたしもそうだったわけで・・・。生じたうたがいについて どう扱うかは そこからは分かりません。  ★ ~~~~~~~~~~  まことを一つ。  怒りを発散するのに質問形式を使うべからず。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶんそう見なしたということは あなたのまことなのでしょう。  ★ 怒りの発散  ☆ これは これまでわたしが 広く言って《意識の排泄》と呼んできた行為です。  だとすると ひとつには このわたしも とうとうこの意識の排泄を――それまでアース役になっていたけれど―― やり始めたという解釈が出ます。  ひとつには 推測によれば アース役のやりがいがない相手だと見下したことを意味するでしょう。あるいは言いかえると この《アース役》を相手があたかもそのアース役のわたしに 人間ではなくなって 〔あたかも〕神のようなアース役になれと言っている。こういう情況として いまのわたしは受けとめたのかも知れません。だとすると この《脱人間》は屁の河童だとわたしは思っているというところでしょう。あり得ません。わたしは キリストではありません。  ま このように分析するかぎりでは 上の《まこと》は 当たってないなぁ。

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    自分を嫌う人と接していくには? 職場で自分の事が嫌いだという人がいます。私は男性、相手は女性です。 面と向かって言われてしまいました。そのとき、ここに書くことがためらわれるくらい、救いようがない人格否定を言葉で受けました。 私はそのとき、相手の非には目をつぶり、自分に非がある部分はきちんとお詫びしましたが、あからさまに嫌いという態度を今もとり続けられています。 仕事は最低限しか手伝わないとも言われました。 原因としては、たぶん、私が相手のプライドを傷つけてしまったことにあるんだと思います。 後日、「つらい胸の内を話してくれてありがとう」と伝え、仲直りしたい旨を伝えました。 しかし、まだ、嫌いという態度やあからさまな差別的態度をとり続けられています。 私はその人以外とはうまく人間関係を作れていて、職場でも慕ってくれる同僚が何人かいます。 しかし、自分にも非があることで嫌われてしまっていることが、気になってしかたありません。 なんだか、生きる力がわいてこないときもあります。休日も考え続けていることがあります。 友人は「そんなやつ、切ってしまえばいいじゃん。どうでもいいって。」と言います。 でも私は正直、その人のことは、嫌いにはなれません。なぜなら、けんかする前にとってもいいところがあったことをいろいろ知っているし、自分にも非があるところがあるとわかっているからです。自分が関わったことで、その人のいやなところを表に引き出し、その人の人生にいやな時期を作ってしまったことが悔やまれます。 時間が解決してくれることを願っていますが、正直、難しいかもしれない、とも感じています。 でも、あからさまな差別的態度がきえるくらいまで、普通に仕事をするくらいには、戻れたらと願ってしまいます。 自分を嫌いだと自分にわかるようにアピールしてくる人に、私はこれからにどう接していけばいいのでしょうか? また、同じ職場で、自分は他の人と明るく過ごしていていいのでしょうか? どなたかアドバイスをしていただけませんか? よろしくお願いいたします。

  • 人間の正しさについて

    22歳学生です。 自分の生き方や信念に関して色々考えることが好きでよく考えるのですが、その中で一つ、思ったことがあります。 一般的に言われる「正しさ」(あるいは「間違い」)は、結局人間の好き嫌いに基づいて出来ているものなのではないかということです。 数学などの正しさは「こうであればこうである」と正しさが絶対的なルールによって決められているのでそれは別物とします。そういうものではなく、例えば法などで、なぜ犯罪が裁かれるべきものであるかというのは、結局大勢の人がその犯罪を何らかの形で「不快に思う」からではないかと思うのです。法は大勢の人が不快に思うものを禁じ、罰するものだとしたら、それは「正しさ」に基づくものではなく人間の「感情」に基づくものであると考えました。 そうなると、「正しさ」とは人間の感情を正当化し覆い隠すものになります。本当は、人間の行動は「正しい・間違っている」という次元で考えるのはおかしいのではないでしょうか。つまり人間のする全ての行動は「正しい」...と言ったら語弊を生みますが、つまりは「あってもいい」という結論になるのではないかと思いました。相反する行動であってもです。人それぞれ自分の信念、感情、経験に従って自分が「正しい」「正しくない」と思った行動をする、しかし、それはつまりは自分の感じ方、感性に左右されるものであるということです。 人生に答えはない、とよく言いますが、それと同じことだと思います。 もしも人が己の正しさを信じそれに基づいて行動すれば、当然正しさ同士がぶつかるはずです。自分の正しさを信じ行動することが大切なのかもしれませんが、それはあくまで自分の好き嫌いから起こるものだと理解していないと、正しさの押し付け合いが始まるのだと思います。 そこで、私はこれから自分の行動は全て「あってもいい(間違ってはいない)」と認識することにし、自分の行動がたとえ自分で納得いかないものだったとしても、それは間違っておらず一つのあり方であると考えることにしようと思いました。また、人と考え方が違っても、相手の考え方は間違ってはおらず、ただ自分が嫌いなだけなんだと認識することにしました。 あまり日常的にこのような考えを喋る機会がなく、このような考え方に対して何か批判があればと思い、投稿致しました。