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なぜひとには自分の心情を押し付けるひとがいるのか?
- ひとに対して自分の心情を押しつける行為は、本当に人間と呼べるのか疑問に感じる。
- 一部の人は自分の心情に反する意見には耳を傾けず、自分の考えを押し付けようとする。
- このような人は自己中心的であり、他人の感情を無視する傾向がある。
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お礼
これについて まづわたしは( a )をかの実験にならって《権限を付与された人間》と設定しました。言いかえると 《話が違う》となりうるところの《話》をその実験なら実験という狭い範囲において設定しているかたちです。 したがって ( a-1 )は その社会情況に違いはむろんあるのですが 全体の社会の中でおこなわれるところのあたかも実験の場合に相当すると考えます。要するにその場合の《話》は あるとするなら 社会全体の側から一人ひとりの個人にその情況として 暗黙のうちに与えられている(か または そんな社会の黙契をへっちゃらだと思っているかである)と思われます。 すなわちわたしがそこからみちびく結果は 事実としての結果は 《たとえ暴走したとしても 理性の歯止めはやがて利くであろう。もしくはまったく利かなかったとしても あとでは(または内心では)どうも間違っていたようだなぁとの思いを抱くであろう》になります。 情況を架空のうちに設定する(ゆえに それとしてほんとうの)《実験》は 《作り話》としての話が大前提にあります。社会(人間関係)として狭く限られた空間で行なわれますし その時間過程も限られています。そのような場合 旅の恥はかき捨てではありませんが いわゆる責任を取らないでよい(または 限られた責任しか取らなくてよい)という思いが強く 何ごとにもはたらくのではないでしょうか。 つまり 情況やそれにまつわる《話》が もっと広く生活に即した実際のことであるならば 割り合いに責任感は持つでしょうし まわりからもかもし出されてくると言えるのではないでしょうか。 問題は この《実験の場と時間》を どういうわけか 《ひとの生涯》に当てはめてみるという場合です。早くいえば 《どうせ五十年か百年のこったぁ。向こう見づの無頼漢で何がわるい。殺したくば さっさと殺せい》という思想を持つ場合です。その場合の《話》は その本人の作るがままになります。《話しが違う》もなければ 大きな広い場としての《話》にわざわざ合わすこともないと成りかねません。 言いかえると 上の分析での次の内容が示す範囲をはみ出す場合です。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~ (5) おそらくナチス下での被験者らは いやいやながらあるいは不本意だがやったと言うでしょう。思いも実際そうなのでしょう。たとえめちゃくちゃに暴走したとしてもです。途中でやめさせられて《話が違う》と言い続行を望んだとしてもです。それとも ユダヤ人憎悪一色に心の底から染まった人物が たのしかったと言うかではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 無頼漢にとっては 何かをおこなって省みるに《いやだった》という場合がありません。不本意だったと思っても やったことはやったことだと見るでしょう。《暴走する・しない》は 話の筋に入って来ません。もし物理的な力によってその暴走をとめられたとしたら ただそれだけのことと思うはずです。もし一応《話がちがう》ということになったら もう放っておくだけです。そんな過去はなかったことになります。いま現在の《話》から遠ざかったのなら なかったことになります。《ユダヤ人憎悪だったかどうか》も 過去となった話にはもうかかわりがありません。 すなわち 自分のいま持っている《話》だけが 現実であり 他人もみなすべて――本来は――このおれにとっての現実である《話》に従え。染まれ。という思いのみが 《人間として持つ思想》だと思っている。つまり 端からおしまいまで 《押しつけ人生》になりがちです。 これを《人間》と呼べるか? ただし おっしゃるように この自分独自の《話》を無条件に頭っから《自由に》降り注ごうとするのは ただひとり 世間にとって例外だと見なされている〔と自分が確信を抱いたところの〕人間にのみ当てはめるというものです。 ★普段の生活では、よき同僚であり、よき親・兄弟であり、また、よき友人でもあるかと思っています。 ☆ というそのとおりの現実があるようなのです。 一事が万事と見ることは為し得ないか。 一匹よりも九十九匹を大事にするべきか。 《まこと》は 中間にありましょうか? 中道と言うべきでしょうか。 《無頼漢》――その気配を わたし( bragelonne )に感じたということでしょうか。
補足
そうですか。――ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。――まづもってわたしは 根本的にこの《スタンフォード監獄実験》の結果としての《まとめ》をまちがいだと考えます。 したがいまして ひどっちさんの結論すなわち ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ まず、結論から申しますますと、”人間”と解しております。 確かに、”珍種の生物”と考えたこともございますが........ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これにも批判をしてみたいと考えます。強いて申せば 《まこと》は中間にあるというふうにも考えました。 ▼ (スタンフォード監獄実験 Stanford prison experiment)~~~ § 実験の結果 ○ 権力への服従 強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう。 ○ 非個人化 しかも、元々の性格とは関係なく、役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どちらもわたしは ふつうの生活において人間〔関係〕に起こり得る一般的な傾向だとは認めません。 ★ ”監獄実験”で、実験が中止されたにもかかわらず、「話が違う」と続行を希望したひとがいた ☆ この同じ事実に逆に 認めない理由があります。 (1) すべては取り決め合った《話》を前提としその筋においておこなわれていると見るからです。 (2) 言いかえるなら ユダヤ人虐殺の場合とは 大きく社会の情況がどうであるかが違っているという意味です。 (3) 逆に思考実験をしてみましょう。ナチスドイツという現実の社会情況の中で そのユダヤ人の迫害を《実験》としてやろうとした場合はどうかです。 (4) 被験者は仮りにことごとくスタンフォード監獄実験の結果と同じような行動を取ったとしてみます。つまり実験結果は その現象として起こった事実はおおむね同じ内容を示したという場合です。 (5) おそらくナチス下での被験者らは いやいやながらあるいは不本意だがやったと言うでしょう。思いも実際そうなのでしょう。たとえめちゃくちゃに暴走したとしてもです。途中でやめさせられて《話が違う》と言い続行を望んだとしてもです。それとも ユダヤ人憎悪一色に心の底から染まった人物が たのしかったと言うかではないでしょうか。 一般にわたしは人文科学の主題や社会科学の問題で実験というものを信用しません。逆に言えば 国家のもろもろの政策から個人の生活態度まですべては 試行錯誤をまぬかれない実験の過程だと捉えざるを得ないところがあると考えます。 いわゆる統計は その選択肢に即しての限りで有意な内容を示しているのでしょうけれど 選択肢を立てる思想が違えば かなり違った結果を示し得るとも考えます。言いかえると この統計も実験のようなものだと考えます。 仮りにですが このOKWave でその参加者のあいだに――監獄実験にならえば―― ( a )《権限を付与された人間》と ( b )《( a )に比べて権限を持たざるふつうの状態にある人間》との区別があるとしてみましょう。(《レフリー》の制度もあるようですから 多かれ少なかれ適度に《監視》が行なわれていると言えるかも知れません)。 このとき要するにひどっちさんは ( a )の内容をそれとは違って ( a-1 )《人気がある。あるいはつまり人びとのためにも行動しているのだと自認するようになる。やがてその人の中に或る種の正義感が生まれその信念によっても 自分の行動に持つ自信を深める》というふうに設定されたわけです。 そこで ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり、ある空間(例えば、OKWaveコミュニティー等です)では、質問とそれに対する応答を繰り返していますと、「理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう」ことが生じてしまうということでございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とみちびかれた。