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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ひとに対して 自分の心情を押しつけることしかしないひとは 人間と呼べる)

なぜひとには自分の心情を押し付けるひとがいるのか?

このQ&Aのポイント
  • ひとに対して自分の心情を押しつける行為は、本当に人間と呼べるのか疑問に感じる。
  • 一部の人は自分の心情に反する意見には耳を傾けず、自分の考えを押し付けようとする。
  • このような人は自己中心的であり、他人の感情を無視する傾向がある。

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noname#135843
noname#135843
回答No.18

 こんばんは、お世話になっております。Hidocchiでございます。  また、neutral様のお元気そうな言葉を拝聞し、うれしく思っております。 > ひとりだけは例外をつくって 自分の心情にさからうからという理由で おまえは消えろと言い あとの人びとには 一方で世辞をつくろい あぁいい考えですねと受け答えつつ 他方では自分の心情を是が非でも何としてでも押しつけようとする。こういうことしかしないひとは 人間と呼べるか?  まず、結論から申しますますと、”人間”と解しております。  確かに、”珍種の生物”と考えたこともございますが........  以下に愚見を述べさせていただきます。  おそらく、”特定の例外者を排除し、 他方では自分の心情を是が非でも何としてでも押しつけようとしかしない人”も、普段の生活では、よき同僚であり、よき親・兄弟であり、また、よき友人でもあるかと思っています。  ですが、ある集団関係(組織)の中では、逆に、排除・抹殺者ともなってしまうのではないかと考えております。  その中で、想起しましたのは、ナチスによるユダヤ人の迫害・殺戮をモデルにした”スタンフォード監獄実験”でございます。  つまり、ある空間(例えば、OKWaveコミュニティー等です)では、質問とそれに対する応答を繰り返していますと、「理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう」ことが生じてしまうということでございます。特に、そのひとに人気があったり、かつ、そのひとに、”独自の正義感”のようなものが生まれますと、起こりうる可能性が非常に高いと推察されます。  そして、いったんそれが暴走してしまいますと、止めどなく繰り返してしまうものかと考えております。これは、”監獄実験”で、実験が中止されたにもかかわらず、「話が違う」と続行を希望したひとがいたのと同じ傾向かと思われます。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E7%9B%A3%E7%8D%84%E5%AE%9F%E9%A8%93 からでございます)  お役に立つところがございましたら、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 これについて まづわたしは( a )をかの実験にならって《権限を付与された人間》と設定しました。言いかえると 《話が違う》となりうるところの《話》をその実験なら実験という狭い範囲において設定しているかたちです。  したがって ( a-1 )は その社会情況に違いはむろんあるのですが 全体の社会の中でおこなわれるところのあたかも実験の場合に相当すると考えます。要するにその場合の《話》は あるとするなら 社会全体の側から一人ひとりの個人にその情況として 暗黙のうちに与えられている(か または そんな社会の黙契をへっちゃらだと思っているかである)と思われます。  すなわちわたしがそこからみちびく結果は 事実としての結果は 《たとえ暴走したとしても 理性の歯止めはやがて利くであろう。もしくはまったく利かなかったとしても あとでは(または内心では)どうも間違っていたようだなぁとの思いを抱くであろう》になります。  情況を架空のうちに設定する(ゆえに それとしてほんとうの)《実験》は 《作り話》としての話が大前提にあります。社会(人間関係)として狭く限られた空間で行なわれますし その時間過程も限られています。そのような場合 旅の恥はかき捨てではありませんが いわゆる責任を取らないでよい(または 限られた責任しか取らなくてよい)という思いが強く 何ごとにもはたらくのではないでしょうか。  つまり 情況やそれにまつわる《話》が もっと広く生活に即した実際のことであるならば 割り合いに責任感は持つでしょうし まわりからもかもし出されてくると言えるのではないでしょうか。  問題は この《実験の場と時間》を どういうわけか 《ひとの生涯》に当てはめてみるという場合です。早くいえば 《どうせ五十年か百年のこったぁ。向こう見づの無頼漢で何がわるい。殺したくば さっさと殺せい》という思想を持つ場合です。その場合の《話》は その本人の作るがままになります。《話しが違う》もなければ 大きな広い場としての《話》にわざわざ合わすこともないと成りかねません。  言いかえると 上の分析での次の内容が示す範囲をはみ出す場合です。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~  (5) おそらくナチス下での被験者らは いやいやながらあるいは不本意だがやったと言うでしょう。思いも実際そうなのでしょう。たとえめちゃくちゃに暴走したとしてもです。途中でやめさせられて《話が違う》と言い続行を望んだとしてもです。それとも ユダヤ人憎悪一色に心の底から染まった人物が たのしかったと言うかではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 無頼漢にとっては 何かをおこなって省みるに《いやだった》という場合がありません。不本意だったと思っても やったことはやったことだと見るでしょう。《暴走する・しない》は 話の筋に入って来ません。もし物理的な力によってその暴走をとめられたとしたら ただそれだけのことと思うはずです。もし一応《話がちがう》ということになったら もう放っておくだけです。そんな過去はなかったことになります。いま現在の《話》から遠ざかったのなら なかったことになります。《ユダヤ人憎悪だったかどうか》も 過去となった話にはもうかかわりがありません。  すなわち 自分のいま持っている《話》だけが 現実であり 他人もみなすべて――本来は――このおれにとっての現実である《話》に従え。染まれ。という思いのみが 《人間として持つ思想》だと思っている。つまり 端からおしまいまで 《押しつけ人生》になりがちです。  これを《人間》と呼べるか?  ただし おっしゃるように この自分独自の《話》を無条件に頭っから《自由に》降り注ごうとするのは ただひとり 世間にとって例外だと見なされている〔と自分が確信を抱いたところの〕人間にのみ当てはめるというものです。  ★普段の生活では、よき同僚であり、よき親・兄弟であり、また、よき友人でもあるかと思っています。  ☆ というそのとおりの現実があるようなのです。  一事が万事と見ることは為し得ないか。  一匹よりも九十九匹を大事にするべきか。  《まこと》は 中間にありましょうか?  中道と言うべきでしょうか。  《無頼漢》――その気配を わたし( bragelonne )に感じたということでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 そうですか。――ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。――まづもってわたしは 根本的にこの《スタンフォード監獄実験》の結果としての《まとめ》をまちがいだと考えます。  したがいまして ひどっちさんの結論すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  まず、結論から申しますますと、”人間”と解しております。  確かに、”珍種の生物”と考えたこともございますが........  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これにも批判をしてみたいと考えます。強いて申せば 《まこと》は中間にあるというふうにも考えました。  ▼ (スタンフォード監獄実験 Stanford prison experiment)~~~  § 実験の結果  ○ 権力への服従   強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう。  ○ 非個人化   しかも、元々の性格とは関係なく、役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どちらもわたしは ふつうの生活において人間〔関係〕に起こり得る一般的な傾向だとは認めません。  ★ ”監獄実験”で、実験が中止されたにもかかわらず、「話が違う」と続行を希望したひとがいた  ☆ この同じ事実に逆に 認めない理由があります。  (1) すべては取り決め合った《話》を前提としその筋においておこなわれていると見るからです。  (2) 言いかえるなら ユダヤ人虐殺の場合とは 大きく社会の情況がどうであるかが違っているという意味です。  (3) 逆に思考実験をしてみましょう。ナチスドイツという現実の社会情況の中で そのユダヤ人の迫害を《実験》としてやろうとした場合はどうかです。   (4) 被験者は仮りにことごとくスタンフォード監獄実験の結果と同じような行動を取ったとしてみます。つまり実験結果は その現象として起こった事実はおおむね同じ内容を示したという場合です。  (5) おそらくナチス下での被験者らは いやいやながらあるいは不本意だがやったと言うでしょう。思いも実際そうなのでしょう。たとえめちゃくちゃに暴走したとしてもです。途中でやめさせられて《話が違う》と言い続行を望んだとしてもです。それとも ユダヤ人憎悪一色に心の底から染まった人物が たのしかったと言うかではないでしょうか。  一般にわたしは人文科学の主題や社会科学の問題で実験というものを信用しません。逆に言えば 国家のもろもろの政策から個人の生活態度まですべては 試行錯誤をまぬかれない実験の過程だと捉えざるを得ないところがあると考えます。  いわゆる統計は その選択肢に即しての限りで有意な内容を示しているのでしょうけれど 選択肢を立てる思想が違えば かなり違った結果を示し得るとも考えます。言いかえると この統計も実験のようなものだと考えます。  仮りにですが このOKWave でその参加者のあいだに――監獄実験にならえば―― ( a )《権限を付与された人間》と ( b )《( a )に比べて権限を持たざるふつうの状態にある人間》との区別があるとしてみましょう。(《レフリー》の制度もあるようですから 多かれ少なかれ適度に《監視》が行なわれていると言えるかも知れません)。  このとき要するにひどっちさんは ( a )の内容をそれとは違って ( a-1 )《人気がある。あるいはつまり人びとのためにも行動しているのだと自認するようになる。やがてその人の中に或る種の正義感が生まれその信念によっても 自分の行動に持つ自信を深める》というふうに設定されたわけです。  そこで  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり、ある空間(例えば、OKWaveコミュニティー等です)では、質問とそれに対する応答を繰り返していますと、「理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう」ことが生じてしまうということでございます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とみちびかれた。

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その他の回答 (28)

  • masa2211
  • ベストアンサー率43% (178/411)
回答No.19

ひとと人間(と、人)の使い分けをどのようにしているのか教えてください。 同義語であれば、どんな性格であれ、人間と呼ぶしかないので。 具体的に怪しいのは、アンドロイド(たとえばキューティーハニーやアトム)、サイボーグ(たとえば仮面ライダー、島村ジョー、総入歯の人)、会社や団体、異星人は、ひと・人間・人の定義に当てはまるの?当てはまらないの? ※総入歯は、サイボーグの定義(人工物を身体に埋め込んだ人間。ただし、脳は自然物)に当てはまるもんなあ。 ちなみに、法律用語をデフォとすると、、 人とは、生物でないが人格を持つもの(たとえば会社)も含まれます。 一方、人間の場合、異星人とサイボーグは含むのだろうけどアンドロイドと会社は含まない(たぶん。)会社は人間に含まない。 よって、自分の心情を押しつけることしかしないひと の中に、 会社が該当するので、これって普通の考えでは人間ではないよね? ※会社の存在意義は、会社の存続でつきつめれば利益追求。利益追求は、問答無用で従業員に押し付けることになる。 一方、生物学で言う人間(サイボーグ含む?)を殺した場合は殺人、人間以外を殺した(=壊した)場合、器物破損。 ということは..... 自分の心情を押しつけることしかしないひとは人間ではない、というのが正しいとします。 私が、知り合いの誰かを殺したとします。その人が「自分の心情を押しつけることしかしないひと」であれば、器物破損、そうでなければ殺人。それを決めるのは私の認識次第?そんなのあり? 何?多数決で決める? 今現在、多数決をとって、 ・「bragelonneは自分の心情を押しつけることしかしないひと」が多数だったらどうするの? 論理的必然により、「bragelonneは人間ではない」となります。 ふ~ん、bragelonneを殺しても、器物破損なのか。それでいいんだ?

bragelonne
質問者

お礼

 ひとこと。  ・ ミラーニューロン現象。  ・ 意識の排泄役とアース役との関係(まなざしをそそぐ・そそがれの関係)  ・ アース役はつらいよなる寅さん現象のごとき非暴力抵抗作戦。  ・ あたかも相手と同じようになって その人を得る。  ・ 安寧のミサイルを相手の胸板をめがけて打ちこむ。という専守防衛作戦。  * 認識と行為(たとえ 消極的な非行動であっても)とのあいだのへだたりに注意されたし。  見直します。あとで。よろしく。

bragelonne
質問者

補足

 おぎないます。  ★ ひとと人間(と、人)の使い分けをどのようにしているのか教えてください。  ☆ 同義です。意味あいの違いがあって人によって取り方に違いが出たとしても構わないという姿勢です。  ひと・人間は 生物の中の人類を言います。  異星人は 《人》ならば 同じです。そのほかは いま問うていません。  ★ 自分の心情を押しつけることしかしないひとは人間ではない  ☆ 次の部分を見落とさないでください。  ☆☆ (趣旨説明) ひとりだけは例外をつくって 自分の心情にさからうからという理由で おまえは消えろと言い  ☆ 脅しが入っています。またこの点をめぐっての吟味にかんしては 直前のひどっちさんとのやり取りを参照してください。  ★ ・・・それを決めるのは私の認識次第? そんなのあり? / 何? 多数決で決める?  ☆ お礼欄にも書きましたが 《認識》と《行為》とのあいだには へだたりがあります。知解と意志行為とは 別となっています。立法と行政の違いのごとく。  《多数決》の問題ではありません。認識だけとしても それは論外です。あくまでひとりの人間の主観にかかわる問題です。なぜかと言えばやはり  ☆☆ (趣旨説明) ひとりだけは例外をつくって 自分の心情にさからうからという理由で おまえは消えろと言い  ★ にかかわっています。《脅し》も当事者の問題であるということもあるでしょうし いづれにしてもこの場合は――どうでしょうか 特殊でしょうか――《ひとりだけは例外をつくって》という部分も 重要な要因です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  今現在、多数決をとって、 ・「bragelonneは自分の心情を押しつけることしかしないひと」が多数だったらどうするの?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 趣旨説明からは 予定していません。《多数決》および《例外としてひとりの人間を特定すること  および 脅し》が 《自分の心情を押しつけることしかしない》にともなわれていなければ成立しません。  しかもわたしは《心情》をおしつけたことはありません。《理論》や《見解》をおしつけたというのは あくまで《哲学》の問い求めとしてであり ここでは情報交換としてです。多くの参加者がまだ哲学において寝んねだという事実があるのみです。批判のおこなわれない哲学があるでしょうか。

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回答No.17

ぶらじゅろんぬさん。こんばんわ。 とりあえず、閉まっていないので、 しゃべってもよろしい、と解釈し、 勝手にいろいろしゃべりますですが、 >わたくしは《逃げない》。 :これは、わたしにはできませんから、 つい、うらやましいと思っちまったんですが、 で、 ちょっと話がズレるんですが、 先月、8歳の子どもが自殺したんですが、 で、わたしとしては、 その子が生きているうちに、 逃げる、ことが、で・き・る!のだよ、と 大声で伝えたかったのですが、 それは、やっぱり変わらないのですが、 そのへんは、ぶらじゅろんぬさんに 同意しかねるのですが、 同意しかねるのですが、何か問題ですか。 別のところで、 選択うんぬんという質問が立っていますが、 選択できること、なんか、 こおりやまのひとかど、だと思ってるんですが、 (生まれる場所とか時代とか、誰を親にするかとか、 ほとんどのことが選択できないと思うのですが) で、そのことに、ときどき絶望するんですが、 で、してはいけないこと、なんか、 ほとんどない、のですが、しかし、 わたしに、できることも、ほとんどないのですが、 で、そのことに、ときどき絶望するんですが、 ああそれから「絶対」とか、 まだ分からないままでいるのですが、 選択肢を、もっともっともっともっと、 増やす方向でしゃべりませんですか。 というのは、わがままな要求なんですが。 あんまり関係ないんですが、 ルツ記は全部読んだのですが、 ぶらじゅろんぬさんが、何言ってるのか よく分からんです。 もう少し説明してもらえませんですか。 というのも、わがままな要求なんですが。 関連項目はこのへんですか。 詩編 37:25 詩編 104:14 詩編 132:15 マタイ 6:11 よく分からんです。 とりあえず、しゃべる場所があったので、 とりあえず、しゃべりました。 よく分からんのですが、とりあえず送信。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  決して軽くない主題をひとつ考えたと思ったら なお重い。  ☆☆ 逃げない。  ☆ というのは 例の《千歩行けと言うのなら 一緒にニ千歩行ってやれ》(マタイ5:38-42)だと考えます。前回の《過剰適応》ではありませんが おかしな要求(押しつけ?)には要求の倍のことを 《その相手とともに》 おこなってやれです。      じさつって にげたんぢゃない?  ★ 選択できること、なんか・・・  ☆ これはですね。わたしも最近気づいたことなんですが そしてまさにこの質問への反措定なのですが 自分のまわりの人たちが自分よりも選択の可能性が多くあると思われる場合に その或る意味でうらやましさにどれだけ耐えられるかが問われているという見方があるようです。  言いかえると ひと(他者)が《押しつけ》をおこなって来ていると見るとき その押しつけの《自由》にどれだけ耐えることが出来るかの問題であると。  わたしは 三年で挫折しました。或いは その質と言いますかその押しつけや自由の度合いと言いますか それを考えると むしろここで耐えるべきではないと判断したものです。  そういう選択をしました。  ★ ああそれから「絶対」とか、 / まだ分からないままでいるのですが、  ☆ あぁ そうですか。おそらく他者が伝えることのできるのは 理屈としての説明なのでしょうね。自分で会得した〔という言葉を遣いますが〕というのは 感覚を交えているはずですが。ひらめきとしてもです。  【Q:《宇宙は自分の補完です》・・・】は そんなことを考えていなかったのですが 回答者の方たちは けっこうこの《絶対》という主題にからませて捉えているようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  選択肢を、もっともっともっともっと、  増やす方向でしゃべりませんですか。  というのは、わがままな要求なんですが。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かりました。と言いますか 主題を広げるということでいいのでしょうか。ということは 質問の扱う主題を広く取ったほうがよいのかなぁ。取り敢えずは いま三つ質問を挙げていますので 少しその主題にかすっているというかたちを取れば いろんな主題へと広げて行けると思いますが。  ★ ルツ記  ☆ 夫と二人の息子を次々に亡くしたナオミが 《・・・主の手がわたしに臨み、わたしを責められたことで、あなたがたのために、わたしは非常に心を痛めているのです》(1:13)と言っているところに注意が行きました。それは かのじょが無理なくその不幸を――むろん つらいのでしょうけれど――受け容れているその姿に心動かされました。  澄みません。そこのところだけです。  ★ 関連項目はこのへんですか。 / 詩編 37:25・・・  ☆ たしかにルツやその義母のナオミにとって生活じたいで精いっぱいのところがあります。逆に言うと 日常生活だけが かのじょら一人ひとりの文体の場です。その場で《わたし》にとって《絶対》が たぶんそれぞれの主観の内で かかわっているのでしょうね。  よかったらどうぞ。  ○ 《ルツの物語》http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20061218    子どもに向けるいい言葉をみつけられなくて。

bragelonne
質問者

補足

 この欄をお借りします。  今朝(19日) 次のように書きこみましたが その文章の判断は そのあとに引用する文句には先行しませんということを 不明をわびつつ 確認します。  ☆☆ (No.20補足欄) ~~~~~~~~~~~  どうもわたしの感覚では ここで行き詰るかその壁を突破できるかのときに当たっているのではないかと思います。  特に何かをするということでもありませんので そういう見方をつぶやくのみなのですが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ (マタイによる福音書 3:9) ~~~~~~~~~  自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。  おまえたちに言っておく、  神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことができるのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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回答No.16

ぶらじゅろんぬさん。こんばんわ。 ご返信ありがとうございます。 わたしは「一般論」でしか話せないですし、 つまり「汲めない」ですし、 またそのことをぶらじゅろんぬさんも、 汲まなくていいんぢゃなかったっけ・・・。 ____________ 「日本は《マインドコントロール社会》でしょうか」 についてですが、 すみません、全ての回答とか補足とかお礼とか、 読んでいないのですが、ざっくりと。 ん~。たぶん、否。 他人の心を【調節】【統制】【操縦】? (どの言葉を「コントロール」と言っていますか?) 他人の心が、ある状態になるように【仕向ける】? ん~。 誰かが、他人の心をコントロールしている、 というよりは、 「(非言語的)誤教育」と、 「(非言語的)誤学習」が、 延々と続いている、のが、問題、 のような気がしています。 誤教育・誤学習、というのは、こんな感じです。 わたしが思うに、日本では、 「適応し過ぎている状態」が、「普通」で、 (よって個人の感受性は薄まるのが普通で) (で、このことに、わたしはムカつくんですが) その「普通」を、 子どもは親の背中を見て、 つまり普通の生活の中で普通に学び、 その子どもがまた学ぶ、という。 「ばかでない庶民」の例外であるわたしは、 「過剰適応することが生きる目的だ」と、 子どものころ、勘違いしたくらいでした。 昔のことについてはちっともわからないのですが、 たぶん、昔々の一瞬(?)、 たしかに「上層」から、言語による【指示】は、行われ、 その指示と、庶民の欲求が、 たまたま一致した、ことが、あった、 庶民が積極的に指示に従った、ことが、あった、 だけどそれは、たまたま一致したから、というだけ。 で、今も、 「軍隊作るぞ時代(?)」の残骸とか、 「アメリカに負けるもんか時代(?)」の残骸とか、 ある、一定の方向に、 庶民が、積極的に向かうことができたころの、 風潮が、わずかに残っているように思うのですが、 今は(もともと?)、 (一部の例外を除いてですが)、 誰も、上層も、庶民も、 他人の心をコントロールしていないと思います。 ずいぶん自己中心的になってきていると思います。 結果、ひきこもりさんや、ニートさんが増え、 それは、良い傾向ではないかと思います。 ざくっと、のまま、 しかもズレているかもしれませんが、 とりあえず、送信。

bragelonne
質問者

お礼

 ニュウトラルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  《押しつけ》から 「日本は《マインドコントロール社会》でしょうか」との問いになりました。  まづ  ★ 他人の心が、ある状態になるように【仕向ける】  ☆ があると捉えた結果の問いだったと思います。  《他人の心を【操縦】》までは行かず 【統制】は《国体(=天皇制。たとえば 国民は天皇の赤子であるという考え方)》へと仕向けた昭和前期にあったでしょうか。【調節】は 仲介・斡旋・調停といったかたちで マインドコントロールの《仕向ける》とかかわりなく 行なわれる社会行為であるように思います。  ★ ん~。たぶん、否。  ☆ わたしの考えも――趣旨説明でわざとのようにその方向に持って行こうとさえしたように―― 現象としては《仕向ける》はたらきかけは行なわれると思うけれども 《統御》されるマインドコントロールはないのではないかというものです。言いかえると 仮りに《統制》のもとでも それに従っていたとしても 《統御される振りをしていた》のだと見るものです。  これは ちょっとずるい見方で 事後的な・後づけとしての見方ではあります。  ★ 「過剰適応することが生きる目的だ」と、 / 子どものころ、勘違いしたくらいでした。  ☆ といった状態つまりその一時期の状態は おそらく誰もが通過するのではないかと見る部分を含んでいます。あるいはまた 《過剰に適応》しようとする反応を引き起こすようなかたちの《仕向け》が おこなわれるのではないか。  そこには ひとつにこの過剰適応というのは いわばマインドコントロールに免疫が出来ていない段階に起こるのだと思われることがありますし。ですから 何かのきっかけで免疫が出来たあとは 一般に《振りをする》状態に移行するのではないか。  あるいはひとつに 《仕向け》の仕方が 一般に理論や理詰めの説得によるのではなく  ★ 非言語的  ☆ な雰囲気を醸し出すこと・つまり空気の伝達によっている。それゆえ 素直な人間は素直ななりに・ひねくれたところのある人間はいやいやながらも まづは免疫のない段階でならなおさらのこと なびき寄せられる。  しかも人の意志行為が ただなびき寄せられることに見出されるかと言えば それはむつかしいとき 熱心に十二分になびこうとする過剰適応という反応は 《わたしがわたしである》ことの持続のためのしかるべき自己表現である。と考えられる。互いに 意志はどこにあるかと 暗黙のうちに問うている。   これは基本的に 《わたしがわたしする》行為ですよね。  もし免疫がつかずに過ごしているとすれば  ★ ~~~~~~~~~~~~~  日本では、  「適応し過ぎている状態」〔としての〕「普通」・・・を、  子どもは親の背中を見て、  つまり普通の生活の中で普通に学び、  その子どもがまた学ぶ、という。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まだ《振りをする状態》〔など〕に移行しないことになるかも知れません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  誰かが、他人の心をコントロールしている、  というよりは、  「(非言語的)誤教育」と、  「(非言語的)誤学習」が、  延々と続いている、のが、問題、  のような気がしています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり《マインドコントロール》のはたらきかけが――それを誰が誰に仕掛けるのかも分からないようなかたちで――現象として多分あると思われると同時に その《非言語的な誤教育かつ誤学習》が世代を超えて続いている現実をかかえているのではないか。  以心伝心というより 以空気伝空気そしてその輻射・対流という現実でしょうか。  そうしてこの長い長い一般的な現実の中に あたらしい動きが現われました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  今は(もともと?)、  (一部の例外を除いてですが)、  誰も、上層も、庶民も、  他人の心をコントロールしていないと思います。  ずいぶん自己中心的になってきていると思います。  結果、ひきこもりさんや、ニートさんが増え、  それは、良い傾向ではないかと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから このように考えてくると この新しい《息吹き》も 免疫のない(?)段階では いまはまだ過剰に適応している姿を呈しているのかも知れません。《わたしがわたしする》という自己の文体の確立のためではあるのですが いまはまだその負の姿(陰画のようなかたち)で現われているのでしょうか。やがて現像がおこなわれて来るでしょうか。  ★ たぶん、昔々の一瞬(?)・・・  ☆ は保留となりました。お二階さんとの関係ですね。

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回答No.15

追記。とりあえず、14番で、打ち止めです。 読んでくださりありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 花は まぁ ひまわりですね。

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回答No.14

ぶらじゅろんぬさん。おはようございます。 いや~ムカつくとしか言わなくてすみません。 なんとなくムカついたのは、 1.仕事の進捗のほうに重点が置かれているという場合 2.人間のことばによる発言は ひょっとすると《おまえは人間ではないぢゃないか》という表現を使ってでも 互いに相手の人間であることを守ろうとしているということなんですかね? このへんなんですが、 1.は、ぶらじゅろんぬさんにムカついたわけではないと、 さっき気付きました。 2.は、「>互いに相手の人間であることを守ろうと」するためなら 何を言ってもよいと、(neutralは)言っていますか? と言われたのかなあと思って、ムカついたのでした。 >本当に、それ、だけ、だと思うのですか。(10番) :これは、わたしの言葉がずいぶん足りませんでしたね。 たとえば、小学校の「明るく元気に病(?)」とか、 「みんな一緒病(?)」とか 「魔女裁判みんなで楽しみ病(?)」とか 「日本人のメダルやノーベル賞みんなで誇る病(?)」とか 「普通・人並み病(?)」とか 他にもいろいろあると思うんですが、 そしてわたしはこのようないろいろを つい「押し付け」と感じてしまうのですが、 そして「押し付け」と感じない、 ほとんどの善良な市民の存在を、 (スルっと納得してしまうことができる人:8番) ときどき暴力的だなあと思ってしまうのですが、 仕事問題ぢゃなくて社会問題だと思っちまうんですが、 そうして「人間をする」というのがどういうことなのか、 ますます分からなくなっちまうんですが、 で、これも「>《人間性》」の問題だと思っちまうんですが、 ビョーキでしょうか。ぷは。 ということで、 ぶらじゅろんぬさんにムカついたわけではないのですが、 ここは、ムカつくとか言ってすみません。 ところで何を「押し付け」と呼んでいるのか、 私の方もちっとも分からんのですよ。 >人間性を守る行動は そういう発言を聞いたときには 《逃げる》ことのほうにあるのだ。こう言っていますか? >「よそで人間してください」 :いや、わたしも力尽きるまではミサイル飛ばしますって。 究極の場合には(血縁者や配偶者でなければ) 逃げる、ことが、で・き・る、と思うことを、大切にしている、 というそれだけです。 A×1Sさんなんかは、よそで人間やってるみたいです。 (人格を消されたくないので、つまり殺されたくないので 最終手段として追い出したのですが。) >他者(ひと)の質問にそれはおかしい それは要らない :ん~。 要らないものを「ありがとう」と言って受け取って、 3秒後にゴミ箱に捨てるのと、 「要りません」と表明するのとどっちがいいですか。 そういう問題でもないのかなあ・・・。 >つまり《人間扱い》しようとしている。のではあるのです。 :わかりました。 >《人間違反》は 人間であるひとが ちょっとか大幅にかそのへそを曲げることです。 :なるほど。わかりました。 >《人間と呼べるか》は みづからの意志という意志をそのへそ曲げに費やしてしまって :なるほど。わかりました。 いやしかし状況は、わかりませんから、 わたしは何も言っちゃいけなかったのかもしれませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ :いや、わたしも力尽きるまではミサイル飛ばしますって。  ☆ あははっ。ええ そうでしょう。そうでしょうとも。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  究極の場合には(血縁者や配偶者でなければ)  逃げる、ことが、で・き・る、と思うことを、大切にしている、  というそれだけです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたくしは《逃げない》。この点が違うでしょうか。  お早うございます。ご回答をありがとうございます。  冒頭の一点をのぞいて めでたしめでたしでいいでしょうか。  いえ ただし 《押しつけ》とは何ぞや問題がありますね。  ★ ~~~~~~~~~~~~  小学校の「明るく元気に病(?)」とか、  「みんな一緒病(?)」とか  「魔女裁判みんなで楽しみ病(?)」とか  「日本人のメダルやノーベル賞みんなで誇る病(?)」とか  「普通・人並み病(?)」とか  他にもいろいろあると思うんですが、  そしてわたしはこのようないろいろを  つい「押し付け」と感じてしまうのですが  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  これにかんしてわたしの立ち場は はっきりしています。噂であるとかわたしの直接にかかわらないところで空中戦のごとく飛び交う《前へならえ!病・右向け右!病》については 放っておきます。ただし 誰かがわたしに直接にその話をしてきたら それ相応にわたしの意見を述べて対処します。  日本人論はいくつか質問に挙げました。ひとつだけその趣旨説明をご紹介します。  ◆ 【Q:日本は《マインドコントロール社会》でしょうか】~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4254724.html  然りでしょうか 否でしょうか。  いづれでも その理由は なんでしょう。  その結果 どうすべきでしょう。どうも しないでしょうか。  わたしの関心の焦点は こうです。  一つには 広い意味での《以心伝心》 これがどのように はたらいているか。さらに広げて 《言霊》思想も そこに かかわるのか。  もう一つには 農耕民と遊牧民との比較対照での捉え方です。後者が 現代では 広く欧米が代表し 中東砂漠地帯にもかかわると言われます。そこでこそ ものごとを明確に表わす傾向にあると言うものですが これに対して 農耕民の社会では そうではない・つまり 言外に言わんとすることを忍ばせ 果ては マインドコントロールにまで行きつくと見られるのかも知れない。    というとき じつは いわゆる上層・支配層は そうであるかも知れないとしても 基層を成す市民のあいだでは 農耕生活をいとなむ共同体の昔から なるほど たとえものごとをあからさまには言わないとしても 人びとの間では 世の中の真相をじゅうぶん早い段階で 知ってしまっている。知り切っているからこそ 特別に何も言わないのだと考えられてくる場合が多いのではないでしょうか。庶民は ばかではありません。  上層のもっぱらの公民と そして基層の市民らとのあいだに きわめて滑稽な茶番劇が演じられていて 後者の人びとも あほらしいから 積極的に新しい一歩を踏み出さない。こういう情況が 戦後半世紀以上にわたって 続いているのではないでしょうか。  マインドコントロールという情況は あるか / あるとすれば どのようであるか / どうしたものか。ご賢察をおしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは《空気つまり KY あるいは 自己中》の主題でもあるようですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~  いやしかし状況は、わかりませんから、  わたしは何も言っちゃいけなかったのかもしれませんね。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ この段階この局面になってさらに繊細な考え方が要求され微妙な対応の仕方の使い分けが大事になって来たかも知れません。この事件は密林とは言わずとも この事件も手探りです。  ここに来て ひょっとするとむしろ仲間からその失態をとがめられ始めているかも知れません。もしそうだとしたら 局面が変わって来ています。(主語を書かずにすみません)。

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回答No.13

ぶらじゅろんぬさん。こんばんわ。 別に何がどうなったのでもないのですが、 ただ、ムカついたので ムカついた、と言っただけなのですが、 それから、 >ニュウトラルさんに当てはめて言ったのではないですから。 :とか、そんなのは、いちいち説明されなくても 分かってるんですが(たぶん)、 それから、 花の色合いうんぬんとか、どうでもよいのですが、 それから、 別に大きな問題にもなっていないと思うのですが、 それから、 たしかに、わたしは、何か、批判しているのですが、 うまく批判するボキャブラと時間が、 今の所ないのですが、それだけなのですが、 ですから、わたしの幼稚な批判を、 受け入れてもらうつもりはないのですが、 それから、わるふざけ、とは思っていないのですが、 それから、いぢわる、は面白いと思うのですが、 それから「人間違反」とか言われるのも 別に大した問題ではないと思うのですが、 いろいろ思うのですが、 今ちょっと反応できません、眠いので。 とても「中身の無い」ことしゃべってるんですが、 という自覚は一応あるのですが、 もう少しマシなしゃべり方をする気になったら、 そのうちまた現れる、かもしれません、のですが、 何も言えなくなるかもしれません、のですが、 そんなに、いろいろ、問題、なのですか。

bragelonne
質問者

お礼

 お気を遣っていただきまことにありがとうございます。それも分からずにとんちんかんな応えをしていました。  《人間違反》は 人間であるひとが ちょっとか大幅にかそのへそを曲げることです。  《人間と呼べるか》は みづからの意志という意志をそのへそ曲げに費やしてしまって もう人間としての意志が――我れに還るための最後のこころとしても――なくなってしまったのではないかと疑われる状態です。  わたしは――それはあくまで受け身としてですが 必要と判断したときには―― 安寧のミサイルを相手の胸板を目がけて打ちこみます。ビョーキでしょうか。  これからも ムカつきをどしどしおしえてください。

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  • heyboy
  • ベストアンサー率21% (1852/8729)
回答No.12

こんばんわ屁BOYです まあ、大昔は切り捨て御免や戦争などありましたので 自己中心的な人も普通に人間ですけどね、、、、。 ただ、中身は在るのか?と言われれば 無いに等しいと考えるのは案外普通ではないのでしょうか? 犯罪者の中にはこれは人間とは呼べないな って人もいるし だいたい聖書では「私はその罪人のかしらです」 (テモテへの手紙第一第 1 章 15 節)と言っている ぐらいなので知らず知らずのうちに 人間は人ですらなくなるようになっていく 定めなのかもしれません、、、、。 (結局の所、人間は罪や罰を自分の いい様に解釈する生き物ですからね) ここで議論している人達も含め 人間であり人間でない部分を 常に持っていると思います。 この考えはまことに近いと思いますか?

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 「私はその罪人のかしらです」  ☆ この文句についても  ★ まあ、大昔は切り捨て御免や戦争などありましたので  ☆ という時代の違いを考慮に入れなければならないと考えますが 問題はひとつに そのように後からふり返って説明するときの人間性についてではなく そうではなく ほんとうに《罪人のかしら》と呼ぶべきおこないをおこなっていたときのことでしょうね。  つまり  ★ ~~~~~~~~~~  ここで議論している人達も含め  人間であり人間でない部分を  常に持っていると思います。  この考えはまことに近いと思いますか?  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ という問いに答えるとき その判断をどの時点でのそれぞれ《わたし》に当てようとしているのか これが問題になると思います。  言いかえると ふだんは その考えがまことであると思います。究極の場合があるのではないか。こういう戸惑いだと思います。  いやいや 普段の考えがどんな場合であってもつらぬかれるのでなければ それは考えや思想(生活態度)とは呼べない。それこそ 人間と呼べなくなるぞ。という考えもあるかも知れませんね。  ううーん。どうでしょう。  ★ 人間は人ですらなくなるようになっていく / 人間でない部分  ☆ こういう見方によるよりは こうかも知れません。  ○ とにかく相手は こちらに対して その存在について否定しようとして来ている。  ☆ これは 《人間ではない》と言えるのではないか。《人間ではない》と言わなければならないのではないか。こういう疑問と迷いです。  ★ ただ、中身は在るのか?と言われれば / 無いに等しいと考えるのは案外普通ではないのでしょうか?  ☆ どうでしょう? 同じでしょうか? 《中身は無いに等しい》と《人間ではない》とは 同じでしょうか? 前者はあんがい普通のことでしょうか。後者は 特別であり特殊でしょうね。あり得ましょうか?

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回答No.11

何度もすみません。 書き逃げ人ですが、 少しの追記です。 わたしは、 わたしを、人間扱いしない人を、 ただ「嫌い」だと思うだけです。 ただ「嫌い」だと思うだけです。 しかし、わたしも ちゃんとした、まともな、 「人間扱い」、をすることが、 できないでいますから、 そんな、わたしに、どんどん、 「嫌いだ」と言ってちょうだい、 と思うだけです。

bragelonne
質問者

お礼

 やっぱり 書いているときに気づかなかった違った意味合いが出てしまったのだと思います。  直前のやり取りで 事情を説明しましたとおりです。  いえ ちょっと待ってください。  ☆☆ 《おまえは人間ではないぢゃないか》とさえ言いながらでも 互いに人間性を守ろうとしているのかも知れない。  ☆ と書きました。つまり 《人間扱い》は ふだん しているのですし 究極のこの事例の場合にも人間扱いできないと思ってしまうような判断に傾くのだけれど 言葉ではその傾いた判断のままを口走るけれどその心は互いに人間性を守ろうとしている。つまり《人間扱い》しようとしている。のではあるのです。

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回答No.10

こんばんわ。書き逃げさんです。 ご返信ありがとうございます。 しかし、8番のご返信と、 7番の、(4)に、 少しムカついたので、 つい、しゃべりに来ました。 きわめてカッコ悪いのですが、 まづ、言い訳とか弁解から入ります。 わたしは、 人間扱いされないことに、 慣れすぎてしまったため、 人間を人間として扱うというのが、 どういうことなのか、 実は分かっていないかもしれず、 わたしは人間を 人間として認識できているのか、 まるで分かっておらず、 人間をする、というのが、 どういうことなのか、 ちっとも分かっていないのですが、 ということに対する悲鳴が、 7番の発言だったのですが、 ______________ >仕事の進捗のほうに重点が置かれているという場合 :それ、だけ、だと言っていますか。  本当に、それ、だけ、だと思うのですか。 いや~しかし、いぢわるですねえ。 わたしは感受性だけでしか話せませんが、 人間の感受性(+ぶらじゅろんぬさんの場合は知識) による《円月殺法》もどきの舌鋒によって、 親子関係やツイ関係などを始めとする 社会、が、揺らいだり壊れたりするのであれば、 おおいに揺らいでよいのであり、 おおいに壊れてよいのではないではないですか。 人間、そんなにヤワぢゃないはづですから。 ______________ で、 > ☆ この命題に何となく反応するとしますと :という、いぢわるに対してなのですが、 少し書き換えてみます。 ★ 「>相手の発言」が、 「>心情」ではなくなっている、 ↓(訂正) ★ 「>相手の発言」が、 「>(本当の)心情」ではなくなっている、 ことに、発言者が気付いていない、だけ、の場合、 たとえば、意識の排泄をしている、と、 自覚、することが、できない、だけ、の場合、 人間はどのような対応をするのか、 ということになるのですが、 わたし(書き逃げさん)は、 >《おまえは人間ではないぢゃないか》 :と言われたときは、 (赤ん坊に対するような保護が不要である以上、) 「いつでも」「逃げる」ことが「できる」、 ということを、とても大切にしているのですが、 あるいは「よそで人間してください」と 言うことしか、できない、と思っているのですが、 もしかして、 それはいけない、 あるいは、できない、と言っていますか。 >花の色合いが暗いなぁ。 :ああ、この花はですね、 息子たちが種を撒いて育てたのですが、 そして8月に全部枯れちまったんですが、 3日か4日ぐらい前にようやく一輪開き、 今日、ようやく5輪ぐらい開いた花です。 咲いたことに、 わたしがとても感激している、から、 感激している、と言っている、 という、それだけ、なのですよ。 「昆虫か ?! (タカ&トシ風)」と言われても、 (「気にならない」にはなれませんが) 気にしません、ということにします、 めんどうくさいですから、 死にたくないですから、 わたしは、殺されません、から。 それでもわたしは人間ですが何か? と、大声で、つぶやき続けるだけです。 が、それはいけないと言っていますか。 いやしかし、人間扱いしてくださり、 ありがとうございます。 今、ツクツクホウシと鈴虫の、奇妙な合唱を、 奇妙だなあと思いながら、 ボケ~っと、聴いています。 なかなか愉快です。

bragelonne
質問者

お礼

 最初に事情を明らかにしたように あくまで特定の人に当てて言ったものでした。間違いやすい文章の運びになってしまったことをおわびします。ごめんなさい。  でもその一般性として捉えた場合にも けっきょく当てはまると言っていますか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  わたし(書き逃げさん)は、  >《おまえは人間ではないぢゃないか》  :と言われたときは、  (赤ん坊に対するような保護が不要である以上、)  「いつでも」「逃げる」ことが「できる」、  ということを、とても大切にしているのですが、  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 人間性を守る行動は そういう発言を聞いたときには 《逃げる》ことのほうにあるのだ。こう言っていますか?  まづこの事例というのは ふだんは《どんなにひどい言い草をしていても 互いに人間であるという前提は守っている》ところへ どうしてもその前提が守れないという判断に傾いてしまったという究極の場合だと思います。わたしのいまの情況も――自分で言うのも変ですが―― かなり煮詰まった局面にあります。そしてまだはっきりとそうは言っていませんが そういう方向をえらぶほうに傾いています。  その《おまえは人間ではないぢゃないか》を言うかどうかの問題と 言われた側がどう対応するかの問題とがあるでしょうか。  言われた場合には  ★ ~~~~~~~~~~~~~  あるいは「よそで人間してください」と  言うことしか、できない、と思っているのですが、  もしかして、  それはいけない、  あるいは、できない、と言っていますか。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。まづ この言われた側の反応は予測していませんでした。つまりなぜなら 《互いに人間性を守るために そういう独り善がりのののしりを 例外的に言うこともあるかも知れない》という考えを持ったというところで止まってしまっていましたから。  けれども 言われた側については それこそ表現の自由ですから 別に《いけない あるいは 出来ない》といった規定は何もないと考えられます。  花の色合いを気にしてしまって気安くわがままなことを要求してしまいました。花の名前をおしえてもらうくらいの気軽さでいたからだと思います。でも 大きな問題を起こしてしまったことにお詫びします。うっかりしていました。  けれども そこから何故つぎのような問題にさらに発展するのか それがよく分かりません。  ★ ~~~~~~~~~~~  (「気にならない」にはなれませんが)  気にしません、ということにします、  めんどうくさいですから、  死にたくないですから、  わたしは、殺されません、から。  それでもわたしは人間ですが何か?  と、大声で、つぶやき続けるだけです。  が、それはいけないと言っていますか。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かりません。お手上げです。  要領を得ないままですが こんなお応えになりました。

bragelonne
質問者

補足

 何がどうなったのか分からないまま書き始めますが まづはご回答をありがとうございます。  たぶんこの質問は 一般性を持たせて述べていますが わたしにとって特定の関係を言っていると ニュウトラルさんは ご存じかと思います。すべてそこから出発しています。そして あなたのご回答に応答するにも 述べたことはその視点を離れてはいなかったと いま気づきました。  まづこういう事情を明らかにします。  ★ ~~~~~~~~~  しかし、8番のご返信と、  7番の、(4)に、  少しムカついたので、  つい、しゃべりに来ました。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 先に《 7番の (4)》ですが その(1)から(3)までをも含めてそれらは そういう解釈をわたしが推測で得たまま書いたものです。そしてわたし自身はそういう考えも行動もえらばないというものです。なぜかと言えば その特定の相手について《人間と呼べないのではないか》という疑いを消すに到っていず この疑いの方向で行動するほうをえらんでいるからです。  そしてこのことがよいかどうかを みなさんからの回答を受けて考えようというもう一方の考えもあります。  ★ ~~~~~~~~~~~~  まづ、言い訳とか弁解から入ります。  わたしは、  人間扱いされないことに、  慣れすぎてしまったため、  人間を人間として扱うというのが、  どういうことなのか、  実は分かっていないかもしれず、  わたしは人間を  人間として認識できているのか、  まるで分かっておらず、  人間をする、というのが、  どういうことなのか、  ちっとも分かっていないのですが、  ということに対する悲鳴が、  7番の発言だったのですが、  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうでしたか。たしかにご回答No.7は それだけでは理解し得たとは言ってはいけない短文ではありました。でも こう説明されて まだ分かりません。そういうふうには思っていなかったのですが もしそういうふうに思って読んでも それほどはっきり分かる性質の主題内容ではないですよね。つまりひょっとすると この質問と並んでいまひとつ別の種類の《人間と呼べるか》問題であるかも知れません。いやぁ これだけからは何とも発言しがたいと思います。  ★ ~~~~~~~~~   >仕事の進捗のほうに重点が置かれているという場合  :それ、だけ、だと言っていますか。  本当に、それ、だけ、だと思うのですか。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 《「>押し付け」であると感じないでいられる人》などの事例ですよね。そうだとしたら 《人間性を直接に全面的に問う見方によりは 仕事の進捗のほうに重点を置く場合》にそうなると考えますが そのことのどこに批判が当たっているのか。ううーん。  あぁ それともそういう場合にも《人間性》の側面にしかるべき注意を払うべきだということでしょうか? 不問に付すのはよくないということでしょうか?  たぶんそのためには 仕事を中断するかあるいは休みのときに その種の話はすることになると思うのですが そういう問題なのですか? 次の文意としては そのように読めるように思いますが。  ★ ~~~~~~~~~~  社会、が、揺らいだり壊れたりするのであれば、  おおいに揺らいでよいのであり、  おおいに壊れてよいのではないではないですか。  ~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~~~~~~~   > ☆ この命題に何となく反応するとしますと  :という、いぢわるに対してなのですが、  ~~~~~~~~~~~~  ☆ この《何となく》というのは 適切に対応しているか分かりませんがという意味です。いぢわる もしくはわるふざけに見えたのでしょうか。  《ともかく考えがまとまりませんが 反応するところはあるので それでもよろしかったら これこれです》という意味でしたが 軽率だったでしょうか。  考えてみれば いまさらですが  ★★ ~~~~~~~~~~  「>相手の発言」が、  「>心情」ではなくなっている、  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というのは 意味が取りにくいものですね。  ★ ~~~~~~~~~~~  たとえば、意識の排泄をしている、と、  自覚、することが、できない、だけ、の場合、  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これならきちんと特定できます。ただし  ★ ~~~~~~~~~~  わたし(書き逃げさん)は、  >《おまえは人間ではないぢゃないか》  :と言われたときは、  ~~~~~~~~~~~~  ☆ というのは ちょっと場合が違うと思います。ニュウトラルさんに当てはめて言ったのではないですから。

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回答No.9

 ANo.6  【ひとに対して 自分の心情を押しつけることしかしないひと】って私のことだったの?  私としてはご恩があり、偉大なbragelonneさんに何も心情の吐露はしてきませんで、私の考えるところを拙く投稿してきました。  そしてまた、決して押しつけなどはできるものでもないし、押し付けもしてきません。  ここ数回はbragelonneさんの貴重なお教えに応え体と思って、一生懸命自分の思うことを書いてきただけです。  押し付けはしてませんから、同意をしてもらう必要は全くないのですが。  私もbragelonneさんの視点と意見・ご見解に全面的に同意はしてないんですよ。  それだけなんですが。  どうか投稿時間を参照しながら、ご判読ください。  もし、お気持ちを傷つけたとしたら、それは私の本意とすることではありませんので、どうかご理解ください。  私は、この質問のタイトルが私を指しているのではなく、別の人についてのbragelonneさんのお気持ちかとおもっていましたので先の投稿をしたのですよ。  とても私には分りません。

bragelonne
質問者

お礼

 他者(ひと)の質問にそれはおかしい それは要らないとわざわざ投稿してきたのは だれでしょう。  ★ どうか投稿時間を参照しながら、ご判読ください。  ☆ 意味不明。字面はむろん分かるが。  ★ もし、お気持ちを傷つけたとしたら、  ☆ 自分で自分のへそを曲げるのでなければ 自分の思惟やおこないが自分の心を傷つけることなどはあり得ません。外から人間の心を傷つけることができるというのは 明らかなまちがいでしょう。

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    22歳学生です。 自分の生き方や信念に関して色々考えることが好きでよく考えるのですが、その中で一つ、思ったことがあります。 一般的に言われる「正しさ」(あるいは「間違い」)は、結局人間の好き嫌いに基づいて出来ているものなのではないかということです。 数学などの正しさは「こうであればこうである」と正しさが絶対的なルールによって決められているのでそれは別物とします。そういうものではなく、例えば法などで、なぜ犯罪が裁かれるべきものであるかというのは、結局大勢の人がその犯罪を何らかの形で「不快に思う」からではないかと思うのです。法は大勢の人が不快に思うものを禁じ、罰するものだとしたら、それは「正しさ」に基づくものではなく人間の「感情」に基づくものであると考えました。 そうなると、「正しさ」とは人間の感情を正当化し覆い隠すものになります。本当は、人間の行動は「正しい・間違っている」という次元で考えるのはおかしいのではないでしょうか。つまり人間のする全ての行動は「正しい」...と言ったら語弊を生みますが、つまりは「あってもいい」という結論になるのではないかと思いました。相反する行動であってもです。人それぞれ自分の信念、感情、経験に従って自分が「正しい」「正しくない」と思った行動をする、しかし、それはつまりは自分の感じ方、感性に左右されるものであるということです。 人生に答えはない、とよく言いますが、それと同じことだと思います。 もしも人が己の正しさを信じそれに基づいて行動すれば、当然正しさ同士がぶつかるはずです。自分の正しさを信じ行動することが大切なのかもしれませんが、それはあくまで自分の好き嫌いから起こるものだと理解していないと、正しさの押し付け合いが始まるのだと思います。 そこで、私はこれから自分の行動は全て「あってもいい(間違ってはいない)」と認識することにし、自分の行動がたとえ自分で納得いかないものだったとしても、それは間違っておらず一つのあり方であると考えることにしようと思いました。また、人と考え方が違っても、相手の考え方は間違ってはおらず、ただ自分が嫌いなだけなんだと認識することにしました。 あまり日常的にこのような考えを喋る機会がなく、このような考え方に対して何か批判があればと思い、投稿致しました。