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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:死刑は許されるべきか)

死刑は許されるべきか

cyototuの回答

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.35

>原理(げんり、羅: principium、英: principle、独: Prinzip、仏: Principe)は、哲学や数学において、学問的議論を展開する時に予め置かれるべき言明。 そこから他のものが導き出され規定される始原。他を必要とせず、なおかつ、、、 あんたには辞書や受験用の知識はお在りのようだが、原理を自分でトコトン考えたことは無さそうだな。学問の世界では人のことを鸚鵡返しに言えるようになったことで評価される訳じゃないんだ。その言葉や概念を使って何かを創造出来るようにならなきゃならん。理屈は捏ねられても、その創造の営みの経験をまだなさってはいないと見た。 >それと、私の知る限り、どの学問も原理によって作られています。 そんなこと言っとるから、あんたは半人前と言われてしまうんだ。原理に拘らない学問は幾らでもある。例えばあんた理学と工学の違いを考えたことあるかね。例えば物理学でも電子工学でも量子力学を徹底的に教わる。電子工学では電子の振る舞いを知らなきゃ何も出来ないからだ。ところで質問だが何で同じことを教わっているのに物理学科と電子工学科が別々にあるんだかあんた知ってるか。多分あんたは考えたこと無いだろうから教えてやる。 工学の本質は人に役に立つことをやることだ。そのために物を作れなくてはならん。ところが、物を作るためには原理と言う物は、二の次三の次じゃ。ある現象が実験的に否定することができないくらい確認されていれば、それがどんな原理に基づいて成り立っているかなんてどうでも良いことだ。そして、そのような確立された現象は幾らでもある。例えば電流のに関するオームの法則が良い例だ。この法則の原理的正当化は未完じゃ。しかし,その正当性を疑る奴は居ない。だから、その事実から出発し、その後の数学的整合性を問題にすれば良い。その法則がどんな原理から導き出されたかなんて言っていたら何の機械も出来やしない。そういる立場の現象の把握の仕方を専門家は現象論と呼んで居る。現象論は、繰り返しの実験に基づいた否定出来ない事実を基に精密な数学を使って色々な現象を説明するので、工学者の至上目的、即ち役に立つと言うことに関して十分なんじゃ。だから、電子工学屋は量子力学を教わっても、その裏にある原理には二義的にしか興味を持っていない。自分がこれから作ろうとする物に関する個々の現象を緻密に正確に予測出来さえすれば十分であって、だから現象論的把握で十分なんじゃ。その立場から言うと、世界の認識は現象論で十分であり、したがって、物理屋の言っている統一原理の存在の仮定などの未だに検証出来ていない余分な仮定をしなくちゃならない世界観を理解することが出来んのじゃ。 一方、物理学屋は個々の現象に興味なんか持っていない。この連中はその個々の現象の裏に、何かそれを統一する原理があると信じて居る物理教信者だ。そして、その統一体としての原理が分るようになれば、個々の現象の緻密な分析なんかには全然興味を持っていない。だから今まで物理屋にやらしても役に立つ機械など出来た試しがないんじゃ。 同じ量子力学をやっていても、この工学屋の現象論的な把握法に拘る文化と物理屋の原理に拘る文化とでは、量子力学の理解の仕方も全然違ったものになる。だから、物理学科と電子工学科を一緒にしてしまうと支離滅裂になってしまうんじゃ。 私は、かつて「物理学とは原理に拘る個性を持った学問だが、化学にはそれ固有な文化や世界観として何があるか」と著名な化学屋さんに聞いたことがある。そしたら、「化学にも勿論固有の文化がある。それは化学式じゃ。化学屋は原理でも現象論でもなく、化学式と言う独特な言語で世界を見て居る」って言ってたぞ。確かに化学式てのは途轍もない世界の見方だ。例えば化学方程式は量子力学が発見される100年以上も前から使われていたが、そこで使われている概念の多くは量子効果を先取りしていた。物理屋は原理という言語を通して世界を見、化学屋は化学方程式という言語で世界を見、工学屋は現象論と言う言語で世界を見て居る。それらは、皆複雑に絡み合いつつも決して同じ物の見方ではない。それが人類の知的な営みを多様で豊かにしているんじゃ。 こんなのはほんの一例じゃ。どんな学問でもその学問に関して一度でも創造的な寄与したことのある連中にはこの文化の違いの存在は自明なんじゃ。 そこで質問だが、哲学が哲学たる所以の本質的な個性、即ち他の学問と区別される固有な文化とは何なんじゃね。あんたが哲学でかつて一度でも創造的な寄与をしたことがある一人前の哲学屋なら、そんなこと直ぐ答えることができる筈じゃ。それを是非聞かせてくれ。 それが同定出来ないようだったら自分は半人前だと認識して、人の言うことにまだ黙って従っておきなされ。

Tetsugakusya
質問者

お礼

追記 ちなみにお礼には、あなたの質問の上にある、長文に対しての間違いの指摘もあります。 本当は無視してもいいんですが、哲学を深く掘り下げたと豪語されているので、ぜひともその方の意見を聞いてみたく、誘いに乗ってみました! 回答お待ちしてます!

Tetsugakusya
質問者

補足

なぜ回答をしないにもかかわらず、回答ではない長文を堂々と書き込むんでしょうか、あなたがそうまでする理由を自問自答してください。もし質問があるなら自分で質問のトピックを立ち上げてください。 ここでこれ以上あなたが書くような不健康な自己証明のための長文に回答すると、あなたに似た精神不安定な人が、「俺も私も」となる可能性があるので、ここでは質問に答えません。そもそも私が求めているのは回答で、あなたがここで許されていることも回答なんですから。 あなたの質問に答えて欲しかったら、まず「回答」に私の質問に対する回答を書いてください。そして、その回答の最後にあなたのメールアドレス、または議論する場所(URL)を載せてください。 あなたの質問に対する回答はそこに書きましょう。 しかし、私があなたの質問に回答するメリットは、実のところ何もありません。 あなたの私に対する勝手な思い込みで、「私」ではない「あなたの中の願望である私」がどんな評価をされようが一向に構わないからです。 しかしひとつ言っておきますが、そういう虚構の勝利を得ても、あなたの自信がさらに崩れやすくなるだけですよ。 さて、もし私が回答する理由があるとしたら、それは「お礼」です。 つまり、あなたは私にお礼をもらえるような回答をする必要があります。 あなたの深く掘り下げた哲学で、ぜひとも私をうならせるような回答をしてください。 それと、ぜひあなたが今までまともな回答をすることから逃げてきた理由も書いてください。 健闘を期待してます。

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