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「人は死ねば消滅し無になる」という概念を信仰する人が

yuix_99の回答

  • yuix_99
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回答No.13

ご返信いただきありがとうございます。 >死んだら終わりだからと「やり逃げ思考」に陥る人たちを説得 >することは不可能であろうと感じています 他者との関わりを一切無視したとしても、殺そうにもその道具(移動手段や武器)を使うだけでも他者が必要ですよね。そういった意味でも、完全に他者との関係を無視した状態でこの思想を実行できるものでしょうか?まだ、説得の余地はあるように思います。 >皆、「生きる意味がある」「生きることに価値はある」と >無根拠に信じている場合が多いと思いますので、思索の参考になれば幸いです。 以前、その根拠について何人かに質問したことがあるのですが、大切な人がいたり、そのつながりで仕方が無く生きていたり、意味もなく生物的な(死にたくない)惰性で生きている人が多いような気がします。 故にその目標が失われた時もろく自殺する人が後を絶たない。何かこの世に強く引き留める何かがあれば自殺は少ない様に思っています。 >生きる意味とは? 生きる事に意味があるかどうかは分からないと思っています。リンク先でもあるとまでは断言されていないと思います。ただ、今日(7/24)現在生きている以上、生きている意味というか、理由はあると思います。言い換えれば、なぜ、今日、自殺せず生き続けているのか?ということです。 また、長く生きる事で何か見つかるかもとは思っているのでこの考えにとても共感できます。 実際、ここ数千年、多くの哲人や科学者が頑張ったが、結果として、誰もが納得できるような答えは見つかっていない。教科書を見ても書いてありませんし、考える人の多くは疑問を持っているように思います。 そのため、恐らく私が80年くらい考えたり研究しただけで答えが見つかる性質のものではないでしょう。 ただ、様々な事が分かる未来(実際ヒトが得らた知識や情報は、人類の歴史ともに指数級数的に増えています)には、何か見つかっているかもしれない。このように考えています。レイカーツワイル氏の未来展望などに希望を持っています。 また、書籍等の紹介ありがとうございます。 一応当方仏教系の学校をトータルで4年ほどいた(専門ではなく、ただ、学習に宗教の時間があった程度です)、正直どれも表面的な話に聞こえてしまい、もう少し、誰もが納得するような答えを求めています。 倫理などで習う感覚や自分を感じるという事についても、その感覚ななぜ起こるのか、そのなぜを何度も繰り返した果てに検証可能な形で何が示されるのか?このように考えています。 例えば、脳を手術をすれば考え方が変わる事もあるようで、感覚よりも、脳の構造や仕組みの方に本当の答えがある可能性があるかもと思っています。 もしくは、脳を形作る物質そのものやその組み合わせにヒントがあるかもと・・・・

magga
質問者

お礼

yuix_99さん回答ありがとうございます^^ <<『死んだら終わりだからと「やり逃げ思考」に陥る人たちを説得することは不可能であろうと感じています』・・他者との関わりを一切無視したとしても、殺そうにもその道具(移動手段や武器)を使うだけでも他者が必要ですよね。そういった意味でも、完全に他者との関係を無視した状態でこの思想を実行できるものでしょうか?まだ、説得の余地はあるように思います。>> 前の「善意のつもりの殺戮者」と「やり逃げ思考の殺戮者」は切り離して後者の方で考えてみてください。 他者の苦しみ・自己の苦しみはいずれなくなるという信仰を元のして、今生で自他が悩み苦しむということよりも、自分の貪りの怒りの心の欲求を具現化することを選び、自分が生きることが嫌になったら死ねばいいという者に対し、元の信仰の穴を指摘し壊す以外にその余地を見つけることが出来ません^^; もしあるなら教えていただきたいです。 <<今日(7/24)現在生きている以上、生きている意味というか、理由はあると思います。言い換えれば、なぜ、今日、自殺せず生き続けているのか?ということです。>> まずいろいろな概念を考える上で根本的に必要と思われる『「生きる」とは何か?』を分析研究する必要があるように感じます。初期仏教のテーマかつ最終結論はそこにあると思います。パーリ語の仏典は、その研修検証方法検証結果ののった参考書のような感じです。 <<実際、ここ数千年、多くの哲人や科学者が頑張ったが、結果として、誰もが納得できるような答えは見つかっていない。正直どれも表面的な話に聞こえてしまい、もう少し、誰もが納得するような答えを求めています。>> 初期仏教で説かれる御釈迦様はハンパナイですよ^^; 論理的に実証的に理性的に大胆に語りますからね。今まで抱いていた御釈迦様象とは違い、かなり大胆に力強く語られていることに驚くかもしれません。もう頭では納得しか出来ない・・・が心が受け入れようとしない、踏ん張る。その理由と対処法まで説かれる。 「無常の見方」などを読めば、我々の「認識」の甘さに気付くことがあると思いますよ。 世間の概念と真逆かつシンプルに見えるので、表面的にさらっと観て、拒否反応・つまらない・当たり前のこと・と検証する前に通り過ぎていく人が多いでしょう;; <<倫理などで習う感覚や自分を感じるという事についても、その感覚ななぜ起こるのか、そのなぜを何度も繰り返した果てに検証可能な形で何が示されるのか?このように考えています。>> パーリ語の仏法がドンピッシャだと思います。 興味が湧いたら仏典側も「知ったからこそ説くのだ、知らないのに説くのではない」「来たれ見よといえる教えだ」と世間を挑発していますからw 検証者として本当にそのようなものか研究することは有意義なことだと思いますよ^^ ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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