• ベストアンサー

論理哲学論考は超越論的哲学でしょうか?

論理哲学論考は超越論的哲学でしょうか?

noname#114400
noname#114400

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

カントの使う「超越論的」という言葉には、幅があります。 まず、人間が、理性のうちにある「経験を可能にする条件」にもとづいて、空想や夢から「客観的な実在世界」を抽出する手続きが「超越論的統覚」や「超越論的構想力」として、「超越論的」と呼ばれます。 一方で、別の使い方をされている場合もあります。 カントが『純粋理性批判』でやろうとしたことは、人間の認識の限界を設定することでした。限界を設定することにおいて、可能なことを保証しようとしたのです。 ところがその限界を設定しようと思えば、その外側に位置する「超越的なもの」に対して、認識できなくても、何らかのかたちで関与することが必要になってきます。そうして、人間は、「超越的なもの」の仮象をもつ。この仮象を通じて「超越的なもの」をとらえようとします。 これらもまた「超越論的仮象」として「超越論的弁証論」の中で批判的にとらえられています。 従って、カントのいう「超越論的」には、つねに二重の意味がこめられています。 人間の認識の限界のこちらがわで、客観的な実在世界が構成される、ということ。 認識の限界の向こうがわをとらえようとすると、仮象に陥ってしまうこと。 このことを頭においておけば、『論考』の6.4以下が超越論的哲学に踏み込んでいることがよくわかります。 ここらへんのことは、野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』で展開されていますから、ぜひご一読を(というか、読まれた上で出された質問のような気がしないではないのですが)。 『草稿1914-1916』を読むと、もっとそのことがはっきりと実感されます。この時期のウィトゲンシュタインは一貫して「幸福」ということを考えています。そうして、「幸福」の問題を解決するための論理哲学が模索されている。これを「超越論的」と呼ばずして、いったい何を「超越論的」と呼ぶことができるか、と、個人的には思います。 以上、参考まで。

noname#114400
質問者

お礼

1761年のベルリン・アカデミーの哲学部会の募集論文のテーマは「自然神学や道徳といった形而上学的真理一般の第一原理が、幾何学的真理のように判明に証明されうるか否か・・・」というもので、ご存じのように結果はメンデルスゾーンが入賞でカントは次点でした。現在ではメンデルスゾーンといえば孫の作曲家の方が有名になってしまったんですが(笑)。 こういう哲学史的な部分を知っているだけで純粋理性批判(たとえば純粋理性のの誤謬推理についてなど)もさらに興味が湧いてくるような気がします。 だから哲学史の理解は重要だなというのが私の感想です。 お忙しいところご回答いただき誠にありがとうございました。

その他の回答 (1)

回答No.1

ゲーデルの不完全性定理を学んでみて下さい。 ある公理系(論理体系)は、それ自身の中に超公理的な言明を含む =不完全である場合にのみ、無矛盾であり得るのです。 そうした超公理的言明を含まない公理系は、無矛盾ではあり得ない =Aと非Aを同時に導いてしまうのです。 (「X論」や「超X論」といった上辺の定義に安住せず、「論理」を 普遍化し、そこにおける「矛盾」を定式化するゲーデルの鮮やかな プロセスに触れてみましょう。人類の英知の頂点のように思えます)

関連するQ&A

  • 論理哲学論考ってそんなに難しいですか?

    論理哲学論考ってそんなに難しいですか?

  • ヴィトゲンシュタイン・論理哲学論考

    ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で「語りえぬものについては沈黙せよ」と語ったことは有名(だと思う)のですが、ヴィトゲンシュタインはなぜ「語りえぬもの」について沈黙せよ、と言ったのでしょうか。その理由をご存知の方、おいででしたらどうぞご教示下さい。m(_ _)m

  • ウィトゲンシュタインの論理哲学論考の意味

    後期ウィトゲンシュタインは論理哲学論考を批判的に捉えるようになったんですよね? それならば否定された学問を研究する意味はあまりないのではないですか?

  • 論理哲学論考に於ける事態とは事実の構成要素ですか?

    論理哲学論考に於ける事態とは事実の構成要素ですか?

  • 論理哲学論考における善悪について

    ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の解説書を読みましたが、疑問が 一つあります。「善悪は語ることができない」という箇所です。幸福については、 それを判断するのが主体であり、主体は論理空間そのものであるから 幸福を語ることができないというのはわかります。簡単にいえば主観的で比較対象が ないから。しかし善悪についてはどうでしょうか?定義をすれば、論理空間の中でも 善悪を語ることができるのではないでしょうか?たとえば、「他の人間の 損害を軽減すること、または、他人の利益を損なわずに他人の欲求を 満たすことを善とするならば、行動Aは善である」のように、語ることができるのでは ないでしょうか?確かにこの定義はつっこみどころ満載だし、答えは出せないだろうけど、 幸福のように沈黙しなくてもいいと思うのですが。善悪というのは主観的な問題ではなく 論理的な問題であるから裁判が成り立つのではないかとも思うのですが。 いかがでしょうか?

  • 「論理哲学論考」を電子媒体で読みたい

    ウィトゲンシュタインが生前に著した唯一の哲学書 「論理哲学論考」 を電子媒体で読みたいと思っています。 たとえばテキストファイルや、PDFファイルなどでもよいですし、Web上で読むことができるサイトなどがあればそれでもよいです。 日本語訳のものでも、英語訳のものでも、もちろん原著のドイツ語のものでもかまいません。 また、無料である必要もありません。電子書籍のような形で購入するものでもかまいません。 ご存知の方、教えてください。

  • 『論理哲学論考』の対象と実体について

    ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫、野矢茂樹訳)についてです。 (1)命題2.027では、対象とは「不変なもの、存在し続けるもの」とあります。 変化するのは対象ではなく対象の配列なのだ、という議論は理解できるのですが、対象が「存在し続ける」というのはどういうことなのでしょうか。 例えば、パソコンという対象は古代ギリシアの時代にはなかったはずですから、古代ギリシアでは「パソコン」という言葉はなかったはずです。 そして、現代のギリシアではパソコンという対象がありますから、「パソコン」という言葉が存在するでしょう。 これを見ても、パソコンという言葉が「存在し続ける」とはいえないように思います。 あるいは、言葉とはプラトンのいうイデアのような存在の仕方をしているのでしょうか。 パソコンという言葉自体は、イデアのようにずっと存在し続けているのだが、古代ギリシアではパソコンという対象が存在しなかったので、パソコンという言葉を使うことがなかっただけなのだ、ということでしょうか。 (2)命題2.021で「対象が世界の実体を形づくる」とありますが、この「実体」とは何のことでしょうか。 アリストテレスらの哲学者たちが議論し続けた、あの「実体」のことでしょうか。 命題2.024などで「何が事実として成立しているかとは独立に存在する」とありますが、一体何のことを指しているのか分かりません。 また、『論理哲学論考』についての論文で、「実体(対象)」と書いている論文があったのですが、実体=対象と捉えてよいのでしょうか。

  • ヴィトゲンシュタインの論考のカンカータについて教えてください。

    哲学者ヴィトゲンシュタインの「論考」(論理哲学論考)を歌詞にしたカンカータがあるそうなんですが、誰かこの曲を知りませんか? CDの情報、作曲家の情報、この曲に関する情報を求めます。 この曲があるという情報は確かです。何しろ、現代思想の冒険者たちの筆者がその本に書いていたのですから。専門書に書いていたのですから。

  • 野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』(ちくま学芸文庫)

    野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』(ちくま学芸文庫) を読んでいるのですが、どうにも理解できない部分があります。 (ちなみにいわゆる哲学は素人です。のため、『論考』を読んでも討ち死にです。) 『論考』における要素命題の独立性と野矢氏が?言うところの解説なのですが、  『論考』ではある要素命題から他の要素命題が導かれること、  あるいはある要素命題が他の要素命題と矛盾しあうということが説明できない。  むしろ積極的に、要素命題はお互いにそのような論理的な関係に立たないことを主張する。  『論考』のこの主張を「要素命題の独立性」と呼ぼう。(p.145) とあります。そしてその「要素命題の独立性」の解説として、  一般に、命題Aから命題Bが帰結するとき、  命題Aの真理領域は命題Bの真理領域に含まれている。  また、命題Aと命題Bが両立不可能なとき、  命題Aの真理領域と命題Bの真理領域は共通部分を持たない。(p.150) とあります。ここまでは理解できるのですが、直後の、  それゆえ、二つの命題AとBが相互独立であることは、両者の真理領域が  共通に重なる部分と重ならない部分とをともにもつこととして捉えられる。(p.150) とあるのですが、 なぜこれが要素命題の独立性と言われるのかが理解できません。 ここでの解説は「一般に」とあるので、これは『論考』そのものからではなく、 p.150の引用の最初のふたつをそれぞれ「包含関係にあること」「両立不可能」とすると、 みっつめの引用はそれ以外の可能性として「重なる部分もある」しかないため、 これを「独立性」と考えているのでしょうか? 重なる部分があるのになぜ独立と捉えることができるのでしょうか?    

  • お好きな哲学書は?

    お好きな哲学書を教えてください。 入門書でも結構です。 因みに私はこんな本が好きです。 ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」 スピノザ「エチカ」 竹田青嗣「現象学入門」