日本書紀の『呉国』とは何を指すのか?

このQ&Aのポイント
  • 日本書紀には、呉國(呉国)に関連する記述がいくつか存在しますが、これらはどのような意味を持っているのでしょうか?
  • 日本書紀によれば、仁徳天皇や雄略天皇の時代に呉國から使節がやってきて朝貢したという記述が見られますが、実際の歴史的な呉國は存在しませんでした。
  • したがって、日本書紀での『呉國』は、ある特定の地域や国を指すのではなく、異国との交流や外交関係を表現するために使用された言葉である可能性があります。
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日本書紀の『呉国』とは?

日本書紀の『呉国』とは? 自称歴史家です。 日本書紀の卷第十一大鷦鷯天皇(仁徳天皇)に、 「五十八年・・冬十月呉國高麗國並朝貢」(仁徳58年10月、呉國の使人と高麗國の使人が並立して天皇に朝貢した)とあります。 日本書紀の卷第十四大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)に、 「六年・・夏四月呉國遣使貢獻」(雄略6年4月、呉國が使人を遣わして天皇に貢物を献上した)とあります。 日本書紀の卷第十四大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)に、 「十四年・・三月命臣連迎呉使即安置呉人於桧隈野因名呉原」(雄略14年3月、臣連に命じて呉國からの使人を迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それでその地を呉坂と名付けた。)とあります。 日本書紀卷第廿二豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)に、 「十七年夏四月・・百濟僧十人俗人七十五人・・泊于肥後國葦北津・・曰百濟王命以遣於呉國其國有亂不入更返於本郷忽逢暴風漂蕩海中然有大幸而泊于聖帝之邊境」(推古17年4月、百濟僧十人ら合計85人の舟が肥後國の葦北津に入港して、「私達は百済王の命を受けて呉國へ行ったところ、呉國は戦乱状態で入国することが出来ず、帰国しようとしたが途中、暴風に逢って漂流し天皇の御国に流れ着きました・・)とあります。 中国の正史(宋書など)によれば仁徳天皇と雄略天皇は5世紀の時代の天皇です。また推古天皇は、日本書紀によれば593年から628年の時代に在位した天皇です。しかし、これらの時代、歴史の地図や年表を調べても、中国大陸にも朝鮮半島にも『呉』という名の国は存在しません。 ※三国時代の「呉」は3世紀(280年)に晋(魏の後身)に滅ぼされたので、仁徳天皇、雄略天皇、推古天皇の時代には存在しません。 日本書紀でいう『呉國』(呉国)とは何を指すのでしょうか?ご存じの方、教えて下さい。

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質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

大学で東洋史を研究しているものです。 『日本書紀』は、中国の南北朝対立の時期においては、南朝の方を「呉国」と表現しています。 私の考えですが、中国の地名である「呉」から取ったのでしょう。 また、余談ですが『日本書紀』では推古紀の前後に、十年以上(恐らく十二年)のズレのあると考えられています。

hinode11
質問者

お礼

有難うございました。南朝を総称して「呉」または「呉国」と呼んだのであれば分かります。南宋、齋、梁、陳・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 補足の補足です: 新唐書では、西暦600年に遣隋使を派遣したのは用明天皇、と書いてありますが、私はこれには同意できません。 敏達天皇薨去584年、用明天皇薨去587年、崇峻天皇薨去592年、推古天皇薨去628年、これらは史実であり動かせません。

hinode11
質問者

補足

>『日本書紀』では推古紀の前後に、十年以上(恐らく十二年)のズレのあると考えられています。 この説は初耳です。 でも推古期に疑問を持つ人がいるのですね。実をいうと私は崇峻天皇と推古天皇の間に一人の天皇(男帝)が居たのではないかと考えています。

その他の回答 (2)

  • river1
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回答No.3

もう一つ参考に 古代中国の長江(揚子江)の河口の南側の土地は、周代の春秋時代末期に呉の国があったあたりです。 南宋の都の建業は、この地域に含まれています。 呉の南は、越の国に繋がり、そのまたはるか南には、越南(現在のベトナム)に続いています。 また内陸に行くと、楚の国となり、長江上流は蜀の国となります。 現在万博が開催されている上海は、この時代まだ浅瀬の海です。 ご参考まで

hinode11
質問者

お礼

有難うございました。

  • river1
  • ベストアンサー率46% (1254/2672)
回答No.2

参考に 南宋の都は、建業(現在の南京) ちなみに三国時代の呉国の都も建業でしたね。 領土的にも、中国の南半分ですのでほぼ一致していますよね。 南宋=呉国 北宋は後に金に滅ぼされてしまいます。

hinode11
質問者

お礼

有難うございました。やはり日本書紀の「呉国」は中国の南半分を指すのですね。

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