新古今和歌集の藤原俊成の和歌の意訳について

このQ&Aのポイント
  • 新古今和歌集の藤原俊成の和歌の意訳について、質問者は古語辞典を使用して意訳を進めたが、一部分の「我だに厭ふ」の「だに」の意味が分からないという問題がある。
  • 古語辞典によると、「だに」の意味は「~だけでも、~さえも」であるが、前半の「だに」の意味が理解できない。
  • 直訳すると「私さえも嫌う」(?)という意味になるが、質問者は「だに」が「我」以外の別の所に掛かっているのではないかと疑問を持っている。
回答を見る
  • ベストアンサー

憂き身をば我だに厭ふいとへただそをだに同じ心と思はむ

憂き身をば我だに厭ふいとへただそをだに同じ心と思はむ 新古今和歌集の藤原俊成の和歌です。 この和歌の意訳が“(憂き自分が)私は嫌いだ。あなたも私を嫌ってください。せめて、私を嫌う感情だけでもあなたと同じで有りたいのです”です。 この歌を古語辞典を片手に自分で意訳を進めてみました。 憂き身 をば 我 だに 厭ふ いとへ ただ そを だに 同じ 心と 思はむ と区切りながら単語の意味を古語辞典で調べたのですがどうしても“我だに厭ふ”の“だに”の意味が解せません。 古語辞典では“だに”の意味は“~だけでも、~さえも”とありました。後半の“だに”は意味が通じるのですが前半の“だに”は意味が通じない気がします。 直訳すると“私さえも嫌う”(?)って何でしょう?それとも“だに”は“我”以外の別の所に掛かっているのでしょうか? 

  • nyuco
  • お礼率44% (13/29)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html 上記のページに通釈がありました。 辛い境遇のこの身を、自分自身さえ厭うています。あなたもひたすら厭うて下さい、せめてそれだけはあなたと心が一つだと思いましょう。(上記URLからの引用) 質問者さんの直訳「私さえも嫌う」で合っているようですね。

nyuco
質問者

お礼

成る程!“辛い身の私を私“さえも”嫌っています”!ですか! 前半の“だに”の謎が解けました!前半の“だに”は自らの境遇を自嘲する表現なのですね! ありがとうございました!

関連するQ&A

  • 「立たま憂き」とは? 西行の歌で出てきます。

    夏山の夕下風の涼しさに楢の木蔭の「立たま憂き」かな    西行 普賢品散り敷きし花の匂ひの名残り多み「立たま憂かり」し 法の庭かな   西行 に出てくる「立たま憂き」の意味が推測はつくのですが、検証できません。 現代語ですと、「立ち去りがたい。」・・・こんな感じでしょうか。 古語辞典、広辞苑、web辞典、NET検索などもしてみましたが、解明できず。 西行は平安後期の歌人ですよね。上代の歌人の影響も考えて次のように考えてみました。 た・つ【立つ】「自四」 立・た(未然形) + 《ま》む(ん)の未然形 + 憂き  《ま》は上代。(古語辞典より) で、「立たま憂き」  ううん。(T_T) こんな風に考えてみました。これで良いのでしょうか。正しくはどうなのでしょうか。 作歌に活かしたいので、納得したいのです。 よろしくお願いします。

  • 正岡子規の短歌を古語辞典を片手に意訳してみました。

    正岡子規の短歌を古語辞典を片手に意訳してみました。 水車ひびく野川の夕寒みほろほろとちる款冬の花 ↓(意訳) 肌寒い夕暮れ、水車の水音が響く野川にふきの花がはらはらと散っています。(もう夏も終わって秋になりますね) これで合っているでしょうか? 夕寒みの意味がどこを探してもなかったのですが朝寒みと夜寒みが秋の季語であったのでその流れで“肌寒くなった夕方”の意で訳しました。 ふきの花は夏に咲くらしいのでそれが散るので夏が終わって秋が訪れる様を表現しているのかなと思いました。 添削をお願いします。また、みなさんの訳もお聞かせください。

  • 「てふ」について、至急回答お願いします!

    至急回答お願いします! 日本語史についての質問です。 壬生忠見の和歌に、 「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか」 という和歌がありますが、冒頭の“恋すてふ”は、“恋をするという”の意味だと思います。 そこで、「といふ」が「てふ」になる変化、「てふ」が「ちょう」と読まれる変化はどうして起こったのか、教えてください。 また、昔は蝶々のことを「てふてふ」と書いていたそうですが、純粋に「てふてふ」と読ませたい場合にはなんと書いていたんでしょうか。

  • 昔の和歌について詳しい方、ぜひ教えてください!

    こんにちわ。高校生です。 早速ですが、実は↓の和歌についての説明をいただきたいのです!! 『世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし』 これは在原業平が作った歌で古今和歌集にも収録されています。 それで、この歌の品詞分解(助動詞ならばその意味も)と使われている修辞法の解説をしていただきたいのです! できたら鑑賞などもいただけるとありがたいです(*^_^*) ホントにあつかましいですが協力していただけるとありがたいです!! よろしくお願いいたします!

  • 万葉集の文法解釈で悩んでいます。:ひさかたの月夜を清み梅の花こころ開けてわが思える君

    万葉集にある、私の好きなこの歌の文法解釈にこだわっています。 『月夜を清み』の『清み』は、他動詞上二段活用『清む』の連用形と考えていいのでしょうか?(み、み、む、むる、むれ、みよ) 旺文社古語辞典では、『清む』は他動詞下二段活用としかありません。(め、め、む、むる、むれ、めよ) そして、『ひさかたの月夜』は、他動詞『清む』の目的語となるわけですが、主語は何と考えたらいいのでしょうか? 岩波書店の『万葉集』全5巻では、『月の光が、とても美しいので梅の花が咲いたように、高貴な貴方様ゆえに、私の心もひらいで、あなたをお慕いしていますよ』との意訳があります。

  • 英語に堪能な方、教えてください。

    Arriere-pensees, qui sait Ulterior motives, that know 心の底の考え方など、誰にわかる? フランス語 それについた 英訳 それの日本語意訳ですが、、(いい訳だとおもったのですが。。。) 直訳と 文法がわかりません。 that know は、 背後の動機を 誰かがしっている。という直訳でしょうか? こういうときの that は、人なのか それとなく なにを指すのか どういう使われ方、意味として 捕まえるといいのか。 まだ、知りません。 よろしく お願いします。m(__)m

  • 古今和歌集 仮名序

    中3です。 「古今和歌集 仮名序 やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける 世の中にある人 事 業しげきものなれば 心に思ふことを見るもの聞くものにつけて 言ひいだせるなり 花に鳴くうぐひす 水に住むかはづの声を聞けば 生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり 仮名序で述べられている、4つの和歌の力と私たちの生活における「歌の力」を比べ、違いや共通点を考え、具体的な例や体験を挙げながら200字でまとめなさい。 」 という問題です。 宿題ではなくテストの予習です。構成がわからないので、どなたかアドバイスよろしくお願いします。構成のアドバイス、具体的な作文の例など、なんでも大丈夫です。 中3の癖に偉そうなことを言ってしまいますが、お説はできればご遠慮いただけると嬉しいです。宿題なら採点してもらえるのでこのような質問はしませんが、今回はテスト勉強ですのでご勘弁ください。 よろしくお願いします。

  • 古文の現代語訳がよくわかりません(つд∩) ウエーン

    左衛門の内侍といふ人はべり。あやしうすずろによからず思ひけれども、え知りはべらぬ、心憂きしりうごとのおほう聞こえはべりし。 内裏の上の源氏物語、人に読ませたまひつつ聞こしめけるに、「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」とのたまはせるkるを、ふと推しはかりに「いみじうなむ才がある」と、殿上人などに言ひ散らして、日本紀の局とぞつけたりける、いとをかしくはべる。このふる里の女の前にてだに、つつみはべるものを、さるところにて才さかし出ではべらむよ。 とあるんですが、全体の意味がよくわかりません。 誰か解説してくださると助かります(つд∩) ウエーン

  • ジーニアス英和辞典によると、suicide seatというのは助手席と

    ジーニアス英和辞典によると、suicide seatというのは助手席という意味だそうです。しかしながら、suicideというのは、自殺という意味です。直訳したら、自殺者席という意味になるような気がするのですが、どういう語源なのかが気になり質問させていただきました。よろしくお願いします。

  • そのこころは?

    こんにちは。 社会に不満の声を上げている人にもいくつかの種類があると思いますが、以下のような状態である上で不満の声を上げている人たちのこころについてお伺いします。 以下、参考URLです。 http://okwave.jp/qa/q8969688.html 余裕がありましたらご覧くださいませ。 自分自身が自己中、わがまま、etc。 自己中やわがままなどが善しとされない場合が多いのは、社会という人間の共同体にとって害ばかりで益が無い/少ないからでしょうか。 ※他にもありますが、説明の余地はないと思いますのであえて触れません。 少しだけ聖書の話になりますが、キリストは当時の権力者(当時の権力者とは宗教的な指導者であり、即ち道徳的なリーダーという意味合いが強い)に対してこう言っています。 「あなたたちはブヨ一匹さえも濾して飲むが、らくだは飲み込んでいる」 ブヨもらくだも当時「汚れたもの」の象徴のような意味で使われていたそうです。 つまり、意訳するとこうなります。 「小さな小さな不正はむきになって取り除こうと注力するが、巨大な悪はそのまま受け入れている。巨大な悪を取り除けば、小さな不正はむしろとるに足らないとさえ言える。」 正直、自分の小さな利己心を通すのに便利に使える巨大な悪を軽く見、積極的にその巨悪を除くために取り組むでもなく、時に利用しなどしている人が小さな不正についてあーだこーだ言っている姿を見る時、それを見ている人が失笑していても当然と思います。 巨大な悪を丸呑みしている人が小さな小さな不正について声を上げたり、社会が歪む根源の様な巨大な悪を丸呑みにしている人が犯罪者に対して「信じられない」などと言う姿を見ていると、意味が理解できません。 みなさん、どういう了見なのでしょう? ※感情的な理性の伴わない否定にはうんざりしています。  そういうのは無視させて頂きます。  「意味が分かり、且つ誠実と知性によって答えられる方のみ」ご回答をお願いします。