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デリダに関して質問です。

デリダに関して質問です。 デリダは書かれたもの(エクスチュール)が音声言語(パロール)の補助手段としてだけその地位を認められてきたという伝統的な哲学の問題点を指摘し、一切の記号作用だけでなく意識作用も可能にする「原-エクリチュール」を提唱した。 デリダに関しての説明ですが、エクスチュールとパロール、記号作用と意識作用がいまいち分かりません。 申し訳ないですが、簡単でいいのでどなたか説明してもらえないでしょうか。 よろしくお願いします。

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回答No.2

(承前) 「愛とは何か」「自我とは何か」「神とは何か」、わたしたちはどこかにこうした言葉の「ほんとうの意味」があるのではないか、と問いかけます。けれども、「愛」という何ものかがどこかにあるのではなく、わたしたちがこれまでにさまざまな経験を通じて、「愛」という言葉を学習し、「これは愛ではない」「愛とは呼べない」という差異によってその言葉を理解していく。だから、愛とは何かと問われても、それは言葉である、としか言いようがないのです。 「どこかにある、ただひとつのほんとうの意味」という考え方を「超越論的シニフィエ」としてデリダが批判するのはこういう理由なのです(かなり簡略化しているのですが)。 どこまで書いたらいいかわからないので、これに関してはこのくらいで。 さて、「原エクリチュール」について。 これもごくごくおおざっぱに。 マンガの吹き出しは考えて見れば不思議なもので、吹き出しの中に書かれたもの(エクリチュール)が、いま話されている(パロール)ことになっているのですが、それはこの登場人物が話しているところ、として、わたしたちはそれを不思議とも何とも思わずに受けとめています。マンガの吹き出しは、パロールなんでしょうか。それともエクリチュール? プラトンの時代には考えられなかったことですが、いまは「話されている言葉」もそのままのかたちで保存することができるし、「ここだけの話」のはずが流出することもある。「話されている言葉」も「書かれたもの」と同じ、物質的存在であることは、はっきりしています。これを考えると、書くことが話すことの二次的形式であるならば、話すことも書くことの一形態であるともいえる。 わたしたちは大切なことを「胸に刻み込む」といいます。「刻み込む」のは、昔、版木に文字を刻み込んでいたことの名残りでしょう。あるいは「(頭の中に)メモっておこう」とも言います。頭の中にかきつけておくイメージを持っているのです。 このように、わたしたちが話している言葉のなかには、書くということがまぎれこんでいる。このパロールのなかにあるエクリチュールの痕跡を、デリダは「原-エクリチュール」と呼ぶのです。

nn12n16
質問者

お礼

返答が遅くなってすいません。 分かりやすくて助かりました。 どうもありがとうございます。

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回答No.1

書かれたもの、というのは「エクリチュール」と言われます。 たとえば質問者さんはこんなことを考えたことはありませんか。 メールで気持ちを伝えようにも、どうにも自分の気持ちがうまく言葉に言い表せない。それでも何とか言葉にして送信すると、今度は相手が自分の真意を汲みとってくれるかどうか不安になってくるし、さらにそれがコピーされたり引用されたりして相手以外の人の目に触れるかもしれない。やはり大切なことは直接会って話さなくては。 どうしてこのような感覚を持ってしまうかというと、その根底にはわたしたちが「書かれたもの」に対して、ある漠然とした不安を持っているからです。 ひとつには、文章(書かれたもの)には気持ちが十分こめられない、という気持ち。 もうひとつは、書かれたものは、自分から離れて勝手に一人歩きしてしまう、という不安。 これはメールのみならず、「書かれたもの」全般に対する不信の念にほかなりません。哲学にあってもプラトンの時代から、「書かれたもの」は「話されている言葉」の二義的なもの、と考えていました。 デリダは「書かれたもの」(エクリチュール)を「話されている言葉」(パロール)より劣るものとする、ギリシャ時代より連綿と続く西洋の考え方を「ロゴス中心主義」として批判します。 なぜ、書かれたものは「人間が直接話している」言葉より二義的なもの、と考えることがロゴス中心主義になるのでしょうか。 書かれたものだと気持ちが伝わらない、という考え方の裏には、「書く」とは 最初に「観念」がある  ↓ 言葉の中からそれに当てはまるものを選び出す  ↓ それを「書く」(転記する) ものだ、という見方があります。 ちょうど、プロセスごとに形を変えるベルトコンベアに載っているように、言葉→それを書きつける、というプロセスを経た「観念」は、入り口と出口では変質しているのではないか、という発想です。 けれども、ほんとうに最初に「観念」があるのでしょうか。 最初に観念があって、言葉はそれを入れるカプセルならば、たとえば翻訳は、ずいぶん簡単なものになるはずです。たとえアメリカと日本でカプセル(言葉)はちがっていても、もともとの「観念」は同じのはずなのだから、単にちがうカプセルに「観念」を移し替えればいい作業にすぎず、そんなものは機械に任せておけばいい。 ところが実際には、日本にあってアメリカにない言葉、英語にあって日本にない言葉はたくさんあります。言葉がないと、その概念そのものがないために、ほかの言葉で言い換えようにもニュアンスが伝わらないことは誰もが経験していることでしょう。あるいはまた「肩こり」という言葉を知ったアメリカ人が「肩こり」を感じるようになった、というエピソードもあります。 これらの事例が指し示すのは、「最初に言語があって、わたしたちはその意味の仕方を学ぶ」ということではないのでしょうか。 そもそもこうした考え方によって西洋思想を大きく動かしたのはソシュールでした。ところがそのソシュールが、エクリチュールに対してパロールを優位に置くことによって、西洋伝統の「ロゴス中心主義」にからめとられている、とデリダは批判したのです。 たとえば漱石を考えてみましょう。漱石の講演は筆記され、今日でも読むことができます。 漱石の考えを理解しようと思えば 「漱石の講演を実際に聴く」>「漱石の講演の記録を読む」>「漱石の小説を読む」 ということになるはずです。 けれども、わたしたちは今日でも漱石の作品を十分に楽しむことができるし、漱石が講演の中で一端を明らかにしている近代日本に対する批判は、小説の中でさらに深く豊かに展開されています。その小説を読みながら、現代のわたしたちは、当時と今とを比べながら、さらに近代の個人主義全般に対する批判として、現代思想を援用しつつ読むこともできます。 書かれた言葉は、書いた人がそこにいなくても、意味し続けます。そのおかげで、わたしたちはその作品を作者が死んでしまったのちでも読むことができるし、作者の意図を超えてさまざまに解釈することができる。 言葉は「生き物」とも言われます。言葉の意味が時代を経て少しずつ変わっていくのも、言葉は、ある特定の内容物がこめられているカプセルではない証拠です。 こうしたことから言えるのは、どこかにほんとうの、唯一無二の「意味」があるわけではなく、意味というのはつねにわたしたちによって作られている、ということです。 (回答2につづく)

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