• ベストアンサー

キルケゴールの質的弁証法が調べたのですが、「絶望の人間に語りかける人格

キルケゴールの質的弁証法が調べたのですが、「絶望の人間に語りかける人格神と交わす対話」というのがよくわかりません。 簡単でいいので質的弁証法について教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • cowstep
  • ベストアンサー率36% (756/2081)
回答No.1

「キルケゴールはヘーゲル的な弁証法を量的な弁証法と批判、神と人間との質的断絶を強調しつつ、宗教的実存へと高まりゆく人間存在を質の弁証法で説明した」(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%DB%BE%DA%CB%A1)そうです。 平たく言えば、ヘーゲル的な量的弁証法では、正と反の矛盾を、合となって止揚し、それがまた反と矛盾して、新たな合となって止揚することを繰り返して、平面的な回転ではなく、立体的な螺旋状の渦を巻いて歴史が動くと 考えます。 これ対して、キルケゴールは、「たとえば美的・倫理的・宗教的実存の領域は、質的に本質を異にし、そこにはあれもこれもでなく、あれかこれかの決断による選択、あるいは止揚による総合でなく、挫折による飛躍だけがある。実存は、成りつつあるものとして無限への無限な運動、また単なる可能でない現実としてつねに時間的であり、その時間における運動は、決断とその反復において、時間における永遠を満たす。矛盾によって各々の実存に対して迫られた決断における真理の生成が、主体性の真理であり、主体的かつ実存的な思惟者は、いわば実存しつつ問題を解く」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95)。 非常に難解な説明であり、私はキリスト教徒でないので、正確なことは分かりませんが,自分なりに平たく説明すると、次の通りです。 人間は信仰によって神に近づき、最期は神に召されて昇天するという意識が当時の西欧社会では根付いていた(今でも続いているらしい)のですが、キルケゴールは信仰心を捨てきれないけれども、信仰にすがって救済されると思わなかったのでしょう。そこで、完全な層ん罪である神と、不完全な存在である人間とは質的に異なるものであって、神に近づこうとしても近づけないことに絶望感を抱いたのでしょう。それでも、キルケゴールはニーチェのように。「神は死んだ」とは考えずに、「絶望の人間に語りかける人格神」なる概念を編み出し、対話を交わすことに信仰の意義を見出そうとしたのではないかと科考えられます。

関連するQ&A

  • キルケゴール

    こんばんは キルケゴールの実存思想について教えてください 神の前での実存となぜ神が出てくるのかについても教えてください。 よろしくお願いします。

  • 『死に至る病』の絶望と救済について

    キルケゴール『死に至る病』についてです。 絶望には段階があり、最も高度の絶望は、キリストに躓いてキリスト教を虚偽と攻撃することであると第二編の最期に記されていますね。 一方、第二編Bのb「罪の許しについて絶望する罪(躓き)」において、神に最も肉薄するためには、人間は神から最も遠くなければならないとあります。 ということは、キリスト教を攻撃する躓きの段階に達したとき(つまり神から最も遠いとき)、人間は神に最も肉薄しうるのでしょうか? そして、そのとき救済が訪れるのでしょうか? 『死に至る病』には絶望に関する考察が書かれていますが、ではその絶望から救済にどう転じるのかが書かれていないので私には理解できませんでした。

  • キルケゴールの言葉で

    キルケゴールの言葉で 「日常に絶望していないことこそ絶望的なのだ」というのがあるそうですが、これは彼のどの本に書いてあることですか? この言葉がある著作または解説書などをご存知でしたら教えてください。

  • ニーチェとキルケゴールについて

    ニーチェは ルサンチマンとして 怨恨と疾しい良心を告発します。 キルケゴールは 絶望して非本来的自己であろうとする強さの絶望と 絶望して本来的自己から逃れようとする弱さの絶望を 分析しています。 私は怨恨と強さの絶望の対応関係と 疾しい良心と弱さの絶望の対応関係を認めますが 私の意見について皆さんはどう思いますか? 全く同じと言っては少し語弊があるかもしれませんが。

  • 弁証法について

    --最近、弁証法に関心を持って勉強しようとしているところです。若き頃は、自称マルキスト達から弁証法について聞かされ、煙に巻かれていました。ところが、最近、弁証法について考えるに、これはただの問題解決のための方法にすぎないのではないかと思うようになりました。 問題解決の方法としては古来より試行錯誤法があります。どちらも、有力な方法として意識的に使用されてゆくうちに、試行錯誤法なり弁証法なりの名がつけられたものと推測されます。  試行錯誤法の場合、考えをたくさん思いついて、それらを全部試せば、より有効かつ精度の高いものになるはずです。ところが、それには時間がかかります。それに、直感的に、また経験的にこのやり方はダメだとわかるものまで試してしまうことになります。  弁証法であれば、全部試さなくとも、最初の時点で有効な考えが大体絞り込めるのであまり時間をかけなくてもよいと言えます。ただし、思いこみや偏見が混入する余地があるように思います。  結局、どちらのやり方にもそれぞれにふさわしい局面があるのではないかと思います。弁証法で説明すると結果的にうまくいくような場面においてのみ、弁証法がうまく働くというふうに感じています。逆に結果的にうまくいかないような場面において使うと、粗雑で強引なものになったり、場合によっては詭弁に堕するのではないかと思います。この理解で正しいでしょうか。  もう一つ、問題解決が現実になされるためには、現実の日常生活のレベルや社会生活のレベルの問題でなければ解決はあり得ないと思います。よって、神とかかわることや、人間の持つ不変の理性(ヘーゲル的な意味での)といったものを問題解決の方法とで、つまり弁証法で扱うことに意味がないのではないかと思うのですがいかがでしょうか。  以上の2点についてご教授願えればありがたいです。また、それ以外の論点でおかしな点があればご指摘をお願いします。  それと、問題解決の方法でもっと有力なものがあるようなら、簡単に紹介して頂けるとありがたいです。

  • 哲学の弁証法についておたずねします

     哲学の弁証法についておたずねします。哲学に詳しい方、回答をお願いします。 ある考えAと、それに相反する考えBがあるとき、両者を統合して新たな考えCが生まれる、という発想が代表的な弁証法だと思います。  ところが、どう考えても、こうした考え方は意味のないものに思われます。というのは、最初の考えAが正しく成りたつものでなければ、そもそもこうした発想は成立しないはずです。 考えAが成りたつためには、Aが客観的に正しいとされなけれななりません。ところが、客観的な正しさをうんぬんする時、主体の判断と関わりなく、Aが成りたつものでなければなりません。でも、判断主体がいなければAの正しさを言うことはできないので、Aが客観的に正しいとされることはないはずです。経験的に判断できたとしても、その命題が恒久的な正しさを持つものであることを示せないはずです。  また、考えAが成りたつためには、Aが主観的に正しいとされるのであっても構わないはずですが、この場合、判断主体の判断の正しさを根拠づけるものが必要になります。そうしたものは存在しませんから、この考え方も成りたちません。  正しい認識の仕方は、現象学の方法やヴィトゲンシュタインの言語ゲームによって取り出されたように、共同存在という考え方を背景として考えるしかないと思います。この考え方だと、考えAが成りたつ根拠が存在します。  弁証法をキルケゴールの考えたように人間の実存という問題として考える時、主体と世界は彼の想定とは違って、常に他者との共同存在であるわけだから、断絶はあり得ません。よって、この意味でも弁証法は成りたたないと思います。  また、ヘーゲルの唱えるような抽象的な弁証法ももちろん成立しないと思います。抽象的な弁証法は、弁証法の枠組みの全体が客対物なので、どこまで行っても正しい命題として措定されることはあり得ないはずです。  弁証法の内部に立ち至ってその構造や内容を考えることに意味がないと思うのですがいかがでしょうか。 正しいとする判断はどのようにしてなされるのでしょうかか?---どこまでいっても判断は不可能です。なぜなら、判断は判断主体(縄田さん)がいてこそ可能だからです。自分は傍観しているのであって、判断しているのではありません。客観的正しさが存在するという言い方は背理なのです。

  • 「弁証法」の使い方

    「今日の東京の混乱は歴史と自然との弁証法的関係がもたらしている」 という件を読んだことがあるのですが、これは予備校の現代文担当講師(東大卒)がはっきりと誤用と言ってました。 自分では、対立する概念を高次元でまとめる思考法という弁証法の意味を考えると、「歴史」と「自然」が対立概念でないところが誤用だと思うのですが、皆さんはどこが間違っているとお考えでしょうか? 語弊がないように詳しく言いますと、「歴史」というのは記録、経過であって自然と対立するのは例えば人間そのもの、又は人類の発展、ではないか、と言うのが私の考えです。 また、「人類の発展は歴史と自然との弁証法的関係を包含していることに異論はない・・」という使い方についても同様におかしいと思うのですが、それも併せて回答お願いします。

  • 人間の醜さに絶望したことありますか?

    人間の醜さに絶望したことありますか?!

  • 人間の醜さに絶望したことありますか?

    人間の醜さに絶望したことありますか

  • 人間の醜さに絶望したことありますか?

    人間の醜さに絶望したことありますか?