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江戸時代の 「寺の駕篭」について

江戸川柳に「ゆはひずハおっこちそうな寺の駕」 という句がありますが、 「結んでおかないと落ちそうな寺の駕篭」、という意味でしょうが 未使用時には軒下・天井に引っ掛けてあるために結ばないと落ちるよ 山寺の駕篭はシートベルトのように体を結んでおかないと落ちるよ はっきりしない。 江戸時代の「寺の駕篭」の、保管、乗り方についてご教示下さい。

みんなの回答

noname#103214
noname#103214
回答No.1

私の産まれた所のお寺は10万石の格式があるとか・・でした。 山奥のお寺ですが、将軍の御座所と言うのでしょうか・・一段高く作られた部屋がありました。 その脇の廊下の天井に駕籠が吊されていました。 もう、誰も駕籠など下ろそうとはしない・・ですね。 山寺でした、江戸は遠くなりにけりで、乗り方を知っている人はいないようでした。 もちろん担ぐ人も居ませんし・・ ああ、10万石の格式の駕籠とはこの様なものか・・他の格式の駕籠など見たことがありませんが・・と子供心に思っただけです。

senryu100
質問者

お礼

akifukasi様 早速のご回答ありがとうございました。

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