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文学について
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- spring135
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文学とは心を綴るものと考えれば、「社会制度と文学の関係」は「社会制度と個人の関係」と置き換えて考えることができます。 江戸時代の封建制度化においては「家」を守ることだ大事でした。したがって、不義はご法度、しかしながら子孫を絶やさぬことは最も重要で側室を置くことは公認されてきました。こういう制度下において、近松門左衛門は沢山の心中ものといわれる文学を書きました。道ならぬ恋に落ちいった男女の物語であります。 共産主義社会においては個人の考えは反政府的なものがないかを徹底的にチェックされました。そしてその網に引っ掛かったものは容赦なく強制収容所に送り込まれました。その苛酷さを描いたソルジェニーツィンはノーベル文学賞を与えられました。 あらゆる古典的なタガが外れた現代において、人々はよりどころをなくして夢遊病者のごとくさ迷っています。それを描く文学自体も適切な手法を見いだせぬまま、幻想の中に逃避しようとしています。 「社会制度と文学の関係」は文学の研究課題として最も重要なもののひとつです。質問者が自身で沢山の文学を読んでその点を実感してくれることを望みます。
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