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卑弥呼について
noname#163492の回答
直接の回答にはなりませんが、参考に。 三角縁神獣鏡は主に近畿圏を中心として、全国各地の古墳から出土していますね。 「魏志倭人伝」には魏の皇帝が倭の女王卑弥呼に「銅鏡百枚」を与えたことが記されています。 それがこの三角縁神獣鏡ではないか、という説もあります。 しかし卑弥呼がもらった鏡ではない、とする説もあります。 (1)三角縁神獣鏡は中国からは出土していない。 (2)倭人伝には100枚もらったとあるが、500枚近く出土している。 (3)出土が全て4世紀の古墳からで、3世紀の邪馬台国・卑弥呼の時代と100年もズレている (4)「景初(魏の年号)四年」と記した鏡が出土しているが、景初は三年までしかない。従って日本で作られた偽者である。 (3)については近年年輪年代法が確立したことによって 古墳の築造時期が遡るという調査結果が出ています。 卑弥呼の墓とされる奈良県の箸墓もほぼ卑弥呼の時代と重なるとする研究者もいます。 (1)について、興味深いサイトを発見しました。 http://inoues.net/mystery/3kakubuchi.html これによれば、 2004年、中国の「上海博物館展」が開催された。 そこで展示されていた「張氏車騎神獣画像鏡」が「三角縁神獣鏡」に大変似ていた。 博物館の学芸員によれば、この鏡は「三角縁神獣鏡」ではないという。 その理由は ●後漢の鏡で時代が違う。 魏の時代のものでなければ三角縁神獣鏡とは言えない。 ●縁は三角のように見えるが、少し丸みを帯びているようにも見える。この鏡の断面図は無いので、三角縁と言えるかどうかはわからない。 そして、学芸員さんは 「中国で魏時代の墳墓はまだ1基しか発掘されていないので、今後出る可能性はある。」と言ったということです。 魏時代の墳墓はまだ1基しか発掘されていないのであれば中国から出土しないのは当然でしょうね。 後漢の時代に「三角縁神獣鏡」と似た鏡が出土されている ということは、魏時代の墳墓を掘れば出土する可能性はあると思います。 従って、(1)は断言できない、ということになります。 ただ、卑弥呼の鏡かどうかは(2)(4)の疑問が解明されていないので 断定はできないと思います。
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