• 締切済み

出土した大型建物について知りたいのですが

 卑弥呼の居館かと騒がれている、桜井市纒向の大型建物の事ではありません。 同じ奈良県の御所市秋津から出土している大型建物らしき遺構の事です。  京奈和自動車道建設に伴う事前調査で、この秋津の調査地から大型建物らしき遺構が出土しています。 布留1、2式の土器が出土しているとは聞いておりますが、それ以上詳しいことは何も解りません。 遺構の性格、年代、範囲などについてご存知の方があれば教えてください。現在調査主体である橿原考古学研究所からは何の発表もされておりません。

みんなの回答

  • Lapin243
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.5

11月27日13時30分から桜井市埋文で講演会があります。    黒田先生の意見を聞いてみてはいかがでしょう(^O^)

kusegakuno
質問者

お礼

講演会の情報ありがとうございます。 できれば出かけたいのですが、なにぶんにも遠方なので無理かも。

  • Lapin243
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.4

 本格的に研究されている方なんですね。失礼しました<(_ _)>    私の文面で私がどこのものか察していただけたと思います。     担当した調査員が多忙でまだ資料整理が進んでいないのでなにも進展ないと思います。  研究されている方にとっては早く情報が知りたいと思われるのはごもっともだと思います。    詳しくは分かりませんが来年度も周辺の発掘があると思います。今年度の調査で南側の遺構の    範囲は確定したのではないでしょうか。    夏の秋津の現説行かれなかったんですね。遺構の平面図作ってましたよ。     最近、いろいろあって自分の仕事以外のことに感心もっていませんでした。  ちょっと調べてみますね。   

kusegakuno
質問者

補足

 秋津遺跡の調査はとてつもなく大変と思います。 調査範囲が極めて広大で、時代の異なる地層のそれぞれに遺構があるわけです。しかも調査範囲全体に遺構が存在する。 加えて高速道路建設の橋脚工事が、すぐ背後まで迫る状況の中での調査です。 担当者のプレッシャーは想像に難くありません。 よけいな心配かもしれませんが、調査が間に合わなくなるのではないかと心配しています。 こんな事をお聞きしても、まともに取り合って頂けないでしょうが、本当は次のようなことをお聞きしたいのです。 「この室の地は、六代孝安天皇秋津島宮の伝承地です。秋津島宮は実在したのでしょうか?それとも真っ赤な作り話? 橿考研の中に、この遺構を秋津島宮との関係で考える方はお見えになりませんか?もしあればぜひお話をお伺いしたいのですが」

  • Lapin243
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.3

質問の書き方からすると怒っておられますね。 秋津は誰もあそこに大型建物の遺構があるとは思ってなかったそうです。 遺構があるとわかっていたら高速道路の橋脚の場所があそこではなかったと思います。 たまたま京奈和ができるから発掘調査したのでわかりました。 今年度の調査によりまたいろんなことがわかりました。 発掘調査員は暑い日も寒い日も一生懸命仕事しています。 過労で倒れるのではないかと心配することが多々あります。 報告書ができるまでまだ時間がかかります。すみません <(_ _)> ここ数年京奈和道にともなう発掘により根成柿、萩ノ本、一町、観音寺、玉手、蛇穴、秋津、中西はわかったことがたくさんあります。

kusegakuno
質問者

補足

早速の回答ありがとうございます。 二年前の質問で状況が変わっています。少し質問の内容を変更させていただきます。最初にこの質問をしてから数度の現地説明会も行われ、私もその間の状況を大体把握しております。 秋津遺跡と名づけられたこの遺跡は、長い間にまたがる複合遺跡であり、最近も一番下層から弥生中期の、我が国最大規模の水田跡地が出土したことで話題を呼んでいます。 私が最も知りたいのは、方形区画と称される塀で囲まれた建物遺構の年代です。橿原考古学研究所は、この年代を四世紀前半とします。 しかしこの場所から多孔銅鏃が一個出土しています。多孔銅鏃の研究に詳しい愛知県埋蔵文化センターの赤塚次郎さんによると、多孔銅鏃の年代は二世紀前半から三世紀半ばとします。 もちろんこの一点だけで遺構の年代を決定できませんが、そこから出土した土器片の写真を赤塚さんに示した所、多孔銅鏃と同時代の土器片も存在するとのことです。また橿考研が東海系とする土器の年代も、三世紀代と考えるとのことです。 赤塚氏の年代観が絶対正しいとは言い切れませんが、仮に50年の狂いがあるとしても、多孔銅鏃の年代が四世紀前半になることはないと思われます。 秋津遺跡の南西は、室と呼ばれる地域です。室は六代孝安天皇秋津島宮の伝承地でもあります。 『魏志倭人伝』は卑弥呼の政治を補佐する男弟があったとします。私はこの男弟こそ孝安と考えています。 従って秋津島宮こそ卑弥呼の王宮で、秋津島宮の実在した年代は三世紀前半と考えるわけです。 詳しくはこちらの私のブログに記します。 http://yamatai.sblo.jp/article/47687462.html もちろん現在出土している、方形区画と称する塀で囲まれた建物遺構が、秋津島宮そのものではないとしても、必ずこの近辺に三世紀前半の遺構が存在し、その時代の遺物が出土するはずと考えています。 多孔銅鏃とこの遺構の年代との関係について教えて頂ければ幸いです。

回答No.2

それでは本当に関係者以外知らない話なのでしょう。 ここで聞いても無理かと思います。

回答No.1

道路建設に先立つ発掘調査だと工事進行にあわせて調査を行うので質問文に書かれた情報だけでは関係者以外は調査場所さえ特定できないかと思います。 橿原考古学研究所に直接問い合わせるか、桜井市教育委員会にたずねたほうが正確な答えが得られると思います。

kusegakuno
質問者

補足

御所市教育委員会からは話せる範囲でという条件で、大型建物の遺構が出土していること。布留1、2式の土器が出土していると聞いております。 橿原考古学研究所からは、現地説明会の予定が決まりましたら連絡しますとのこと。それ以上詳しいことは解りません。

関連するQ&A

  • 麹室(こうじむろ)・土室(つちむろの歴史や研究動向について

    麹室(こうじむろ)とか土室(つちむろ)といった地中に巨大な部屋を掘って、そこを利用する室(ムロ)。これについては考古学的にも江戸時代の建物の後から方形の(地下室・ちかむろ)と呼んでいる遺構が多数東京都内の遺跡の調査でも見つかっていますね。 この各種「ムロ」の研究はどこまで進んでいるのでしょうか。今でも埼玉や千葉の旧家や農家の跡地にものすごい深い穴が出たなんていう話をよく聞きます。 そこでお尋ねしたいのは以下の事です。民俗学・考古学的的に、農家などが利用していた土室、麹室に関する調査・研究動向を教えてください。 また麹室や土室と、江戸の遺跡などで出てくる土室との系譜関係などはあるのでしょうか。 考古学者の古泉弘さんの著作『江戸の穴』は読了済み。むしろ、民俗学的な「室(むろ)」の調査報告などのような事例研究と、「むろ」利用ないし地下利用に関する包括的な論考があったらご教示ください。お願いします。

  • 西名阪 郡山インターから上北山村へのルートについて

    乗用車での移動において、西名阪郡山インターから 吉野郡上北山村(ホテルかみきた辺り)までのルートですが、 どちらのほうが、走行時間が短いでしょうか? 距離ではなく、時間優先で考えております。 A.名阪国道ルート 1.西名阪郡山インターから、名阪国道(針または福住まで) 2.国道369号線を宇陀に向かって南下。 3.宇陀から国道370号線で、吉野川まで南下(169号線 宮滝辺り) 4.以後、国道169号線にて、川上村通りぬけ、上北山村へ。 B.京奈和無料区間利用 1.京奈和道路 郡山南から、橿原まで南下。 2.橿原バイパスを経て、京奈和 橿原~御所(玉出あたり)まで南下。 3.玉出おりてから、高取バイパスへ、国道169号線へ。 4.国道169号線を南下、芦原トンネルくぐり、吉野川まで南下。 5.あとは、そのまま国道169号線にて上北山村まで。 先日、行った際は、Bのルートで、だいたい走りっぱなしで、2時間弱だったかと 記憶しております。 よく、上北山村へ行かれる方、または、上北山村からよく郡山や奈良市へ来られる方、 どちらのルートのほうが早いですが? 想定は、土日の朝方、8時~10時頃を想定しております。 法定速度については、理解はしておりますが、 道の空き具合、および他の車の巡航速度に応じ、それなりの速度で 走った場合での時間感をご教示いただきたく。 よろしくお願いいたします。

  • やはり邪馬台国=日本ということらしい

    そもそもの日本は前原市(伊都国)から。 平原遺跡 1号墓(平原弥生古墳)から出土した、副葬品の日本最大、直径46.5センチメートルの大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)は、どうも神器の八咫鏡と同じデザインが使われているそうです。 長年・・・邪馬台国はどこ?という議論がされていますが、最新の研究で、伊都国から奈良に遷都されたのが、2世紀~3世紀ということは、倭の大乱の時期に、ヤマトタケルの東征があったってことでしょうか? 伊都国、邪馬台国、狗奴国にそれぞれ王(天孫)がいて、特に争った狗奴国が出雲王国という解釈でよさ気な気がしてきました。 卑弥呼というのは、天孫族の女王で、誰でもなったわけではない気がします。 そもそも日本では、女性の名は伏せることになっているので、名前は伝わっていないのでしょう。 本当の名前を知りたいところですね。 考えてみたら、天皇だといわれた神功皇后(息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと))が卑弥呼ってことでいいですか?

  • オリエント出土品?

     本日http://www.asahi.com/national/update/0928/TKY200809280050.htmlにて、桂宮様のご病気の報道があり、不謹慎ですが存じ上げなかったので、検索したら崇仁親王様のお子様のようでした。 そして、崇仁親王様について確認しているときに、女性神に関心を持っております私の中をひく画像に遭遇しました。  www.1mcc.com/mac/mikasanomiya-iwakuni/PC150029.JPGなのです。  これは多分、崇仁親王様のご研究のオリエントの出土品だと存じます。  どこの出土で、なんという名称が賦与されている出土品かご存じでありましたら、どうかお教えくださるよう、お願い申しあげます。  なお、開いているページのURLを貼り付けます。 http://bsearch.goo.ne.jp/imgdt.php?TNUM=96&FR=1&MT=%BF%F2%BF%CE%BF%C6%B2%A6&DOC_ID=www.1mcc.com%252Fmac%252Fmikasanomiya-iwakuni%252FPC150029.JPG&SNUM=1&PURL=http%3A%2F%2Fwww.1mcc.com%2Fmac%2Fmikasanomiya-iwakuni.htm&THNURL=http%3A%2F%2Fthumb1.goo.ne.jp%2Fimg%2Frelay.php%3FSV%3D0004%26THN_URL%3D%2FTN%2F001a%2Fd25366ac303d4137b59f0cb8f14f7036

  • セックスを模した出土品

    男性器を模した埴輪や女性器を象った人形がいくつか出土していますが、ずばりセックスしている状態を模した人形や埴輪が出土したことはあるのでしょうか? http://okwave.jp/qa/q7421306.html こちらのNo.4の方の回答で > 世界各地で男女の性行為を描いた土偶なんかが出土しているのですが とありますので、具体的にどんなものが出土しているのか気になりました。 日本でも海外でも構いません。

  • ビーナス像の出土

     本日、アサヒコムhttp://www.asahi.com/international/update/0624/TKY200906240406.html にて、ヴィーナス像の出土の記事がありました。  http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/je/30110/m0u/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9/ によれば、ビーナスって、ローマ神話の愛と美の女神だそうです。  出土した像は、ローマ神話の愛と美の女神の像なのでしょうか?  単なる修辞表現なのでしょうか?  出土した像は、女性象ということなのでしょうか?  どうぞよろしくお願い申しあげます。

  • 出土品の修復保存

    遺跡出土品の修復作業(出土品の接合、復元など)に興味があります。東北芸術工科大学、京都造形芸術大学以外で修復保存を学べる大学または大学院をご存知の方がいらしたら教えてください。また、卒業後はどのような進路就職があるのかも併せて教えていただけると嬉しいです。よろしくお願いします。

  • お金が敷地から出土しました。

    お金が敷地から出土しました。 暇な方がいらっしゃったら回答を。 早起きは3文の得とでもいうのか、 土をほりかえしていたら金属の黒い円盤がでてきました。 土を取り除いてみると昭和46年と書いてある100円硬貨のようです。 その場所は、約1年半使い続けていた生ごみ処理のコンポストのあった場所の土です。 しかし、ごみはしっかり分別しており、 可燃物でも、不燃物でもない通貨が紛れ込む可能性はきわめて少ない(ないと断言したい)状況です。 いったいこの通貨はなぜ今ここにあるのか? 思い当たるふしはありません。まるで金の漢委奴國王印です。 一体どのような理由が考えられるでしょうか。 なお、すでに、10回は掘り返した場所です。 また、きれいに磨いたら、100円として使えますよね。

  • この建物はなんという建物でしょうか。

    http://www.nicovideo.jp/watch/sm5458307 の動画の画像はなんという建物でしょうか。 コメントから東京にあるものとはわかりました。 よろしくお願いします。

  • 西尾市の歴史は捏造か???????????

    西尾の由来は、西条や煮る塩ではなく、尾島城(小島・尾花)の西である可能性。 西尾城の前身とされる西条城は存在せず、徳川が奪取する以前、今川時代から西尾城である。 当然、鎌倉時代の足利氏が築城したわけがない。 西尾の中心部は、幡豆郡熊来郷である。クマク神社と同じ読み。 西尾市天竹町に、木綿など到来していない。日本後紀に三河漂着とあるだけ。 三河万歳は安城より古いと言いながら、なぜか徳川(安城松平家)に合流している。 八ツ面山は、戦国時代は荒川山と呼ばれていた。 西尾のお茶の歴史は鎌倉時代からの古いものであるとしながら、 平安時代の本朝文粋には、安城の別郷廃寺(薬王寺)に既に茶園があると記述されている。 三河三都・小京都・城下町と称し、悠久の歴史を誇るかのような宣伝をしているが、 古代の古墳時代は、安城の古井・桜井の古墳群に西三河の中心があったことが考古学の発掘調査で すでに結論が出ている。 名鉄西尾線は、前身が西尾線で、西尾鉄道の岩瀬がつくったと宣伝しているが、碧海電気鉄道の新安城~西尾が主体である。 岩瀬文庫は、国立国会図書館・国立公文書館に所蔵されていないような地元のあやしい本がいっぱいで、 デジタルアーカイブで一般公開されていないため、史料価値が検証不能。