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回答(16)
No.4&10&11&13です。
わたしの知る範囲で説明をこころみます。
1. 日本文は 主題の提示を次から次へおこなっていく。
2. むろん文とは ひとまとまりの思想(ないし意志表示)を示すその単位体である。
3. したがって いづれは 最終の主題が来る。これは それまでの主題の群れに対してそれらを一つの問いとして 話者が一定の答えを出す部分である。論述主題となる。
4. 第一主題は 話題として文の中心となる。第二主題は 中心主題にかかわることがらを取り出して来て 話者がその思惟を運ぶというかたちとなる。
5. 一般に文による意志の表明は 相手を想定している。したがって 第一中心主題は 相手や人々が知っていることがらを出してくる。《ご存じのこれこれ(主題 A )のことですが・・・》という話のきっかけとする。つまりもしくは 知らない事柄であっても 一般に知っていると見なしたかたちで提示する。
6. 第二主題は 第一の主題の関係主題としてその限りですでに特定されうることがらであるが 相手にとっては どういう関連事項が選ばれてくるかは 分からない。言いかえると 話者は 相手が知らないであろうと見るから その第二主題を提示したいのである。
7. ということは 第一主題は 一般に既知のことがらが当てられると同時に 第二主題は 一般に未知のことがらが選び出されてくる。これが 意思表示の一般的なあり方である。
8. ちなみに 中心主題を承(う)けるハ格は ガ格以下の第二主題ないし第三・第四・・・とつづく副次的な主題に対しても 《その副主題を取り立てる》役割をになう。
○ 私は 水ハ 飲みたくハないけれど わいんハ飲みたい。
9. それに対して
○ わいんガ飲みたい。
☆ というふうにガ格を用いるのは 相手にとって――自分が推測するだけのことだが――未知のものであろうと思われる事柄を主題として出しますよという心づもりにもとづいている。
10. (未知というのは 相手がワインを知らないという意味ではなく いま何が飲みたいかに対して こちらがワインを提示するとは思わないだろうと踏んでいることを言う)。
11. あるいは
○ わいんヲ飲みたい。
☆ という表現は 《飲む》という・動作を表わすことばを頭の中ですでに予期して その対象であるものを第二主題( B ガの B )に持ってきたときその頭(心づもり)において ヲ格が優先される結果である。動作の対象( O )と動作の述定( V )とが直線的に連絡したその結果である。――ハ格とガ格にまつわる主題提示の問題とは 様相が 別だと考えられる。
どうでしょう。
投稿日時 - 2009-10-02 19:53:11
No.12です。たびたびすみません。
>形容詞になるから「が」で受けるというNo.2でのご説明との整合性はどうなりますか?
あの説明は、No.7で訂正したつもりだったのですが、書き方が悪かったようです。それに、No.12では願望によっては『不自然に感じる』ことがあると言っているだけで、「が〜たい」または「を〜たい」文の構成がありえないとは言っていません。それでも整合性がとれていないでしょうか。
いずれにしても、私は他の方の意見も少しずつ参考にしながら自分の考えをまとめている段階ですので、参考にもならないかもしれません。
最後に、思い至った経緯を少し。
連体助詞の「が」は、本来ウチなるものを受ける特徴がありました。その特徴が自動詞を結びつけたりするのだと思っています。ですから「が〜たい」も自然発生的(生理的)な願望だと思ったのです。
他の方がおっしゃるように格助詞「が」は物事を限定する特徴があるので、そういう面もあると思います。
失礼しました。
投稿日時 - 2009-10-02 18:10:44
述語が 「動詞+形容詞型助動詞」 の場合は目的語の後に付く助詞は 「を」 と 「が」 の2通りが可能。で、個々のケースでどちらを選ぶかの基準がANo.12の説明ということだったのですね。ようやく仰ることが理解出来ました。
何度も親切に教えていただき、本当にありがとうございました。
投稿日時 - 2009-10-04 08:23:10
#9です。
先に、「主題の提示」は、
「水は飲みたい」の場合で、
「水というものについて述べてみれば、それは飲みたい」ということになると思います。
まず、水というものを想定して、それについて話を展開するわけなので、特定とは逆の思考順でしょう。
「水を飲みたい」も、おっしゃるように対象の特定と言えないこともないですね。
ただ、「特定」という言葉の定義にもよってくるかもしれませんが、「を」の場合はあくまで「対象の提示」というニュアンスでしょうか。
「特に取り立てて決定する(示す)」というニュアンスは無いような気がします。
「が」の場合は、「特定しようとする意志」、あるいは「特定したいという意気込み」といったようなニュアンスが強い、とでも言いますか。
そういった感覚を表現したい時には無意識的に「が」を使う、ということのように思います。
何かのトラウマで、10年ほど全く歌うのを止めていた演歌歌手が、ある日突然トラウマが氷解し歌う気持ちになったとき。
彼(彼女でもいいですが)は
「演歌が歌いたい」と言うでしょう。
間違っても(いや、間違えばわかりませんが)
「演歌を歌いたい」
とは言わないはずです。
別のシチュエーションであれば、歌謡曲でもなくポップスでもなく演歌が歌いたい。
という意味になる場合もあるでしょうが、ここは、
「私は声を出して歌いたい」
という、「歌いたいという欲求の対象を特定する」意味での特定です。
「演歌を歌いたい」の場合は、
「歌いたい」と言う以上、その対象を示す必要があるので(仕方なく・・・でもありませんが)その対象を淡々と述べる、という印象です。
「が」は「特定を強調する作用」と言ってもいいのかもしれません。
投稿日時 - 2009-10-02 17:07:50
再々のご回答、真にに痛み入ります。
「を」は対象を提示するが、その対象を特定することまではしない・・・
う〜ん、難しいですね ( ^^;
先ずは文法の基本用語の定義から勉強しなくてはいけないなと感じました。でも、「が」の強調作用というのはよく解った気がします。
投稿日時 - 2009-10-02 18:31:44
No.4&10&11です。
ちょっと出しゃばりですが 反応します。
ことばはみづからがと言うほどに変わっていきますから それをどうこう言うのではありません。それとは別に その成り立ちやいわゆる伝統ということを知っておくのはよいことだと考えます。
また変わったあとの段階では その新たな情況に応じた説明がつけられて じっさい文法が変わることさえあるかも知れません。ですが その前からの伝統を そのときにも知ることはよいと思います。
ひとつのおぎないです。
(1) 水が 飲みたい。
☆ これをすでに
(2) 水ガ(=水ノ)飲みたきこと:《 B (体言)‐ガ C (体言)》
☆ というふうに解しましたが 別解を考えました。
(3) 水ガ(=水ノ)飲み 甚(いた)し。
= 水ノ飲み‐ガ 甚し。
☆ とも捉えうると。
ガ格を 《我が家・我が国》のごとく属格に用いる用法は 現代ではほとんどなくなっていますから そして英文法の影響をも受けて文についての感覚が変わってきていますから 見方も変わるのは 必然の流れであるようには受け取ります。
ただし ふたたび昔の伝統に戻らないとも限りません。
要は 事実を捉えて人びとはどう考えるかでしょうね。
投稿日時 - 2009-10-02 13:48:32
No.8です。
人間の欲求・願望には大きく分けて2種類(生理的欲求と理知的欲求とが)あると思います。
その2種類を「が」と「を」とで分けていると考えられないでしょうか。
「水」を見たから飲みたいと思うのではなく、「のどが渇いた」から「飲みたい」と思うのです。これが生理的欲求。だから「水が飲みたい」が自然なのです。
逆にやみくもに「殺したい、殺したい」という欲求だけがあってなんて考えづらいですよね。「ある人」がいて、その人が「気に入らない」と思って初めて「殺したい」となるのが普通だからです。これが理知的欲求。だから「○○を殺したい」が自然なのです。例えが悪すぎますが。
同じものに【独占したい】が考えられます。ただやみくもに「独占したい」と思うのはちょっと無理があると感じます。なにか対象となるものが先にあるはずです。だから例えば「賞が独占したい」が不自然に感じ、「賞を独占したい」が自然に感じるのです。
投稿日時 - 2009-10-02 12:28:03
> 人間の欲求・願望には大きく分けて2種類(生理的欲求と理知的欲求と
> が)あると思います。
> その2種類を「が」と「を」とで分けていると考えられないでしょうか。
ウ〜ン、どうなんでしょうか・・・ ( ^^;
仮にそうだとした場合、動詞+「たい」は形容詞になるから「が」で受けるというNo.2でのご説明との整合性はどうなりますか?
投稿日時 - 2009-10-02 16:40:23
No.4&10です。
わたしの仮説じたいについては分かっていただいて まづはこれほどありがたいことはありません。まだまだ世界に対してようやく日の目を見たかどうかの瀬戸際にあります。
★ (No.4お礼欄) 文法がこんなに複雑であっていいものなのだろうか・・ というのが率直な感想です。
☆ ごもっとも。ぶっきらぼうで通るわたしにしても同じ思いです。
ひとことで言えば 日本文が二重構造だからですが それは 人間の存在論あるいはもう少し薄めて 認識論が日本人のあいだでそう(=つまり二層構造と)なっているからだと考えます。
行為を 行為の主体( S )と対象( O )と行為そのもの( V )とに分けるのは ふつうのことですが これは言わば 線形の論理です。単一の論理です。そういう認識のあり方になるのだと考えます。
いわば日本文や韓国文においては この行為についての認識が さらに拡がっているようです。非線形とまで言っていいのかどうか分かりませんが 要するに 主体とその行為という主題を取ってみても その行為に対して ほかのいろんな思惟や考え(選択肢など)がすべて切り捨てられたというふうには見ないのでしょう。あるいは とうぜん 相手のあることですし 大きくは社会という情況が その一つの行為にからんでいます。そのことを 文としての表現にも表わしたかった。
両義性によるあいまいさを伴なってでも 焦点を狭めないで大きく場の全体を ことばの表現においても 大事にしたかった。
早い話が――と言って 説教のようにまでなったかの感がありますが―― わたしたちは
○ こんにち‐ハ 〔天気‐ガ よろしいようで・・・。〕
☆ というふうにことばをかけ合うことから 会話を始めます。むろんあいさつをおこなうことは どこでも同じなんですが そのあいさつの文じたいも おそらくニ層構造の特徴を持つと考えられます。
もう一点 例を出します。これは
★ (No.10お礼欄) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
それにしても、日本語文法の「主題」という概念は難しいですね。こういうもので「水が飲みたい」の「が」を説明しようとするよりも、動作の目的物に続く助詞はすべて「を」で統一してしまう方がシンプルでいいような気がします(乱暴ですかね?)。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ の疑問に答えるものです。つまり 可能を表わす助動詞(可能法の補充用言)としての《できる》の用法が よい例だと考えます。
○ かれは 英語が できる。
☆ まづこれは A ハ B ガ C の構文ですが 《できる》は そもそも《出で来る》と言っているのですから――自動詞ですから―― 《英語ヲ》というふうに対象を取ることはむつかしいでしょうね。
おそらく 《英語で意志疎通をなすこと全体》を捉えて《英語が出来る》と言うのでしょうが では たとえば《英語ヲ話すことができる》と言おうとする場合は どうなるか。
○ 英語が 話せる。
○ 英語を 話せる。
☆ この場合はたしかに両方があり得ますね。後者は 線形論理で考え表わそうとした例だと見られます。
ところが けっきょく日本人は 《行為の可能性》というものを その個人の能力と努力だけの結果だとは捉えていなかった。自然という環境や社会といった情況の全体をも捉え合わせて 《出来る》という表現で《可能》を表わした。
うんぬん。
《そこに何々が〈ある〉》という存在(現象)を表わす場合 英語とは違って 独文や仏文は けっこう独特な表現形式を持っているようです。(《それが与える⇒在る》や《かれがそこに持つ⇒在る》)。
世の中は線形論理だけではないということで 手を打ってもらえませんか? どうでしょう?
★ (No.4お礼欄) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
先ず誰もが容易に理解出来る整然としたルールを文法として国が制定し、以後それに従って皆が話し、書く。何事においても単純かつ明快を好む私としては、今後そういう取組みがなされることを期待します。
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☆ 《国が制定し》たりすることも そこから拡がって国が何ごとも差配するというまでになればわたしは慎重になりますが 《単純かつ明快》 これを心がけ目指すことは まったく異論がありません。
いささか愚痴を言えば 何事も初めはむつかしい。これからだと思っています。普遍的な妥当性があれば みんなの共有するところとなるのですから いくらでも知恵を出し合い取り組んでいけると思いますよ。
投稿日時 - 2009-10-02 10:45:16
後付けの説明を積み重ねて拵えた文法はどうしても複雑・難解にならざるを得ないと思います。一般人が漢訳のお経に書かれている意味を知るためにはお坊さんを頼らざるを得ませんが、日常的に使う言葉の規則がそれと同様であっていいのだろうか・・・。言葉というものが意思を正確に伝え合うための道具であることを考えた場合、日本語文法は一度全面的に改定した方がいい・・・ そんな気がしています。
どうもありがとうございました。
投稿日時 - 2009-10-03 10:56:08
No.4です。
★ 実は私、「水が飲みたい」が文法上正しい言い方なのかどうか疑いを抱いています。
☆ そんなことはありませんよ。c2662fly さんがNo.2で用法とともに語句の例を挙げておられます。
★ 既に書きましたが、「私はお前 “が” 殺したい」って言ったらおかしいでしょ? この場合は絶対「を」ですよね。それと同じという気がするんですけど、どう思われますか。
☆ 表現の特殊性を別とすれば この表現もまったくふつうの日本語です。
○ 私は お前が 殺したい。
☆ これも 《Aハ Bガ Cナリ / Cスル》の構文に合っています。どう合っているかといえば ハ格とガ格の用法に不都合がないからです。
ハ格とガ格は 第一次にふたつの主題(つまり 《 A =私》および《 B =お前》)を提示したあと 論述部(つまり《 C =殺したい》)の述格(つまり活用を別として《殺す》)との連絡の上で 意味連関が定まるという構文だからです。
しかもこの場合 おもしろい現象が起こります。《殺す》の動作主格(主語)は 第一主題の A か 第二主題の B か どちらでも表わし得るからです。
(1) 《 Aガ Bヲ 殺す》という解釈例:
・ 私が殺したいのは お前だ。
(2) 《 Aヲ Bガ 殺す》という解釈例:
・ 私を殺したいのは お前だ。
☆ どうしてこういうあいまいな(=つまり両義的・多義的な)表現が日本文で起こるのかと言えば ハ格もガ格も もともとは主題をただ主題として提示するために用いられているものだからです。論述部の述格との意味上の連絡は 二の次だからです。つまり 文の構造じたいが ハ格とガ格の両者とも二重の用法によって成り立っていると考えられます。
すなわち両者ともそれぞれ 《一次の格活用=主題の提示》と《二次の格活用=論理的な意味連絡の確定》を担いうるので 構造が二層から成っています。
なお 《論理的な意味連関》というのは いかに《二次的》だとは言え とうぜん発話のときにすでに話者は分かっていると言ってよいはずです。
○ 水が飲みたい。
☆ と言おうとするとき その時点ですでに《飲む》という述格に対して 《水》はその対格(目的格)であると分かります。それゆえ この意味連関を重視したいというつもりになったときには もうすでに初めから この意味上の=つまり結果的に単一の論理層のみとなってしまうかたちの格活用を用いることになります。つまり
○ 水ヲ飲みたい。
☆ というふうにほとんど無理なく言いますし それで理解できますし もはやそれもふつうの用法であると捉えられていると考えます。ガ格が背景にしりぞいたかたちであり それゆえ ガ格に関する限りでは もはや単層の構造になります。
たぶん 主題ないし動作の対象(水なのか何なのか)を特定するしない あるいはその特定の度合いとは 問題が違うように考えます。
投稿日時 - 2009-10-01 17:52:06
ありがとうございます。
bragelonneさんのご説明は私にはちょっとレベルが高過ぎの感がありますが、概ね趣旨は理解出来たと思います (^^;
それにしても、日本語文法の「主題」という概念は難しいですね。こういうもので「水が飲みたい」の「が」を説明しようとするよりも、動作の目的物に続く助詞はすべて「を」で統一してしまう方がシンプルでいいような気がします(乱暴ですかね?)。
投稿日時 - 2009-10-02 01:16:24
>「何を飲みたいか」と尋ねられて「水が飲みたい」と言った場合は複数の選択肢からの特定かなぁと思いますが、ただ単純に「咽が乾いた、水が飲みたい」と言う時も特定なんでしょうかね。
:そう思います。
「飲みたい」という欲求が最大の訴求点である、ということが要です。
誤解を怖れずに言うと、「水」よりも、です。
「飲みたい」というのが最も言いたいことなのですが、「何が?」という必然的な問いを先取りしておく必要にかられる。
と言ってもいいかもしれません。
そのために「水」を「が」によって(あらかじめ)特定しておく、という構図ではないかと思います。
>「誰を殺したいか」と尋ねられて「お前が殺したい」と答えるのは特定だと思いますが、こういう言い方ってしますかね。
:文法には疎いのでその方面からの説明はできませんが、特に問題はないと思います。
「私はお前が殺したい」は、稀なシチュエーションなので違和感を覚えるだけでしょう。
「あいつを殺せばいいじゃないか」
「いや、誰でもいいというわけではないんだ。私はお前が殺したい」
という流れの中での表現になると思います。
面と向かっている相手に対して
「(殺したいのは他の者ではなくて)お前だ」とあえて特定する必要があるという場面なわけですが、これはあまり無い状況と言えます。
向かい合っているのですから、通常は、「殺したい」と言えば「お前」
いうのが殆どパターンですから、
「(私は)殺したい」で済みます。
対象を明確にするために【正確に】表現すれば、
「私はお前を殺したい」のようになるということでしょう。
このシチュエーション(殺したいのがお前であることが明白であるような状況)におかれている人間が、「お前が」と発語することはありえません。
投稿日時 - 2009-10-01 16:55:47
ありがとうございます。
比較対象がなくても「が」が物事を特定する働きをしていることに変わりはないんですね。私の感覚ではピンと来ませんが、一応解りました。
時に、「特定(主題の提示?)」というのは「目的を示すこと」と非常に似通った概念であるような気がします。正直私には今一つ違いがよく解りません。
> 「私はお前が殺したい」は、稀なシチュエーションなので違和感を覚える
> だけでしょう。
言われてみるとそんな気がしなくもありませんね (笑)
投稿日時 - 2009-10-02 00:29:14
No.2、No.3、No.7です。
>複合形容詞というのは、確か「薄暗い」、「細長い」とかいうのを指すのじゃありませんでしたかね・・。
No.4でbragelonneさんがおっしゃっていますが、「たい」は、もとは「いたし」という形容詞であり、動詞の連用形+形容詞の複合形容詞と考えられます。
>それはともかく、「私はお前が殺したい」は文法的に問題ないと思われますか? もしそれが駄目だとしたら、「私は水が飲みたい」も誤りのような気がするんです。これはそういう趣旨の質問です。
No.3で違いに触れましたが、文法の上では全く問題ないと思っています。
投稿日時 - 2009-10-01 16:08:09
解りました。
度々のご回答本当にありがとうございます。
投稿日時 - 2009-10-01 23:44:36
No.2、No.3です。
正確な答えではないと思いますが、自分なりの考えが一応できたので書いておきます。
○「たい」は複合形容詞をつくる接尾語で、他動詞【飲む】が【飲みたい】になると形容詞の性質を与えられ、対象を「が」で受けられるようになる。また引き続き他動詞の性質も持ち、対象を「を」で受けることもできる。
通常、形容詞・形容動詞の対象は「が」で受ける。
○同じように、可能動詞の場合も、他動詞に「-eru/-areru」をつけてできたものは、自動詞の性質が与えられ、本来の他動詞の性質をも併せ持ち、対象を「が」と「を」で受けられる。
「見える」は独立した可能動詞であるため、対象を「が」のみで受ける。
・英語の本が読める/英語の本を読める
・山が見られる/山を見られる
・山が見える
また、No.4でbragelonneさんがおっしゃっていることは、係り結びの連体終止が変化したものだと解釈しました。
投稿日時 - 2009-10-01 11:18:56
複合形容詞というのは、確か「薄暗い」、「細長い」とかいうのを指すのじゃありませんでしたかね・・。
それはともかく、「私はお前が殺したい」は文法的に問題ないと思われますか? もしそれが駄目だとしたら、「私は水が飲みたい」も誤りのような気がするんです。これはそういう趣旨の質問です。
投稿日時 - 2009-10-01 15:06:06
素人文法ですが、・・・たいは動詞の連用形についてその動詞を形容詞に変える働きがあると思っています。・・・たいは形容詞と同じ形の活用をするからですが(今私にとって)水(というもの)が飲みたい(ものである)。という意味なのではないでしょうか。水を飲みたいというのは、英語文法の影響ではないでしょうか。韓国語でも同じことがあると聞いたことがあります。
投稿日時 - 2009-10-01 02:25:44
kaitara1さんの“「たい」が動詞を形容詞にする”というご説明で今ふと思いました。本当は「水“が”飲みたい」は誤った言い回しだったのだけれど、形容詞と似た活用をする「たい」という助動詞に惑わされて人々が誤って言う内に、何時の間にか文法化してしまった・・・
違いますかね?
もしそうでなければ「お前が殺したい」とも言える筈ですが、これは実際言いませんよね。
投稿日時 - 2009-10-01 14:17:59
どうもありがとうございました。
投稿日時 - 2009-10-02 08:35:40
(ア)「水が飲みたい」の「が」は「特定する」用法と言えます。
(イ)「水を飲む」の「を」は「対象(目的)を示す」用法でしょう。
イの場合、「飲む」という行為の対象として水は認識されています。
「対象として認識する」というのは「冷静な思考過程である」ということが言えると思います。
アの場合は、「飲みたい」という願望に対して、「何が」ということを特定しようとする表現です。
特定しようとするには特定するだけの意図が存在するはずです。
それは「特定して強調したい」という強い願望でしょう。
これが、「飲みたい」という願望表現の場合は「水が」となりやすい理由だと思います。
同じ「飲みたい」でも、特に水に対する願望が強くない場合は、「水を飲みたい」となるでしょう。
この場合は、「水に対する願望」よりも、「飲みたい対象は水である」と、「自分の気持ちを冷静に表現する意図」のほうが強いのだろうと思われます。
投稿日時 - 2009-10-01 00:11:53
「何を飲みたいか」と尋ねられて「水が飲みたい」と言った場合は複数の選択肢からの特定かなぁと思いますが、ただ単純に「咽が乾いた、水が飲みたい」と言う時も特定なんでしょうかね。
それと、「誰を殺したいか」と尋ねられて「お前が殺したい」と答えるのは特定だと思いますが、こういう言い方ってしますかね。
投稿日時 - 2009-10-01 14:08:05
「が」、「を」は、共に飲みたいものが水であることを示すことに変わりなく、それは即ち対象を特定することに他ならない・・ という風に私は感じます。「が」を「特定」でなく「強調」と考えれば、「○○が〜たい」と「○○を〜たい」とが綺麗に整頓出来て、文法説明がすっきりする気がしますね。
いささか乱暴かもしれませんが、いっそこの場合の「が」を主格ではなく強意を含む目的格ということにしてしまえば・・・ ふとそんな考えが浮かびました。
投稿日時 - 2009-10-02 16:30:11
こんにちは。
日本文は ハ格とガ格が 主題を提示して活躍します。そして
○ A‐ハ B‐ガ C‐ナリ / C‐スル。
→ わたしは 水が 飲みたい。
☆ という構文が 基本です。ここでは 二つの主題すなわち わたし=A と 水=B とがその主題のまま提示されています。《わたしに関してなのだが その関連ではいま 水のことなのだが・・・》というふうに あくまで主題を主題として言いだして行くのが基本です。
この基本のあとで・ないしその基礎の上に 意味上の格関係を決めて行きます。《わたしが( S )飲む( V ) / 水を( O )飲む( V )》という主格や対格や述格です。
この構文について詳しくは 次のわたしの投稿を参照してくださるとさいわいです。
【Q:主語と述語】そのNo.8&11
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5319882.html
いまこの質問につきましては 少し別の見方から説明をこころみます。
主題を次から次へ言い出して行くということは あたかも日本文は すべて体言(名詞)で成り立っているかのごとくです。
ところで
○ ・・・たし /・・・たい。(願望法の補充用言)
☆ は 《甚(いた)し》から来ているようです。これは《頂(いた‐だき)》のイタのようで 《頂点》を意味すると言われます。気持ちがそこまで達していると言いたいのでしょう。《飲みたい》は 《気持ちは飲む状態に到っている》と言うのでしょう。
このとき《飲みたい》は 《飲みたき》つまり《飲み‐甚き〔こと〕》という表現形式だと捉えられます。
つまりは やはり この文節としての《飲みたい》も 基本的にもともとは 体言(名詞)形であると考えられます。
とすると
○ 水が 飲みたい。← 水が飲みたき〔こと〕
⇒ 体言(水)‐ガ 体言(飲みたきこと)
☆ という表現形式だと捉えられます。このガは 意味上は属格つまりノ格のことです。《水ノ飲みたいこと》です。
つまり 体言に相当する主題を 次から次へ言い出して行く構文に従っていると考えられます。《我が国・我が家》のような《 B ガ C 》の連絡形です。
そのあと――あくまで そのあと―― 《水ヲ飲み‐たい》という意味上の格関係が 分析的に・内省をするかのようにして 定まるという寸法です。
このように成り立っていると考えます。
投稿日時 - 2009-09-30 23:52:39
実は私、「水が飲みたい」が文法上正しい言い方なのかどうか疑いを抱いています。既に書きましたが、「私はお前 “が” 殺したい」って言ったらおかしいでしょ? この場合は絶対「を」ですよね。それと同じという気がするんですけど、どう思われますか。
投稿日時 - 2009-10-01 15:02:30
ご紹介いただいた別質問の方も読んでみました。一応理屈は解りました。解りましたが、非常に難しいですね。文法がこんなに複雑であっていいものなのだろうか・・ というのが率直な感想です。
現実としての言葉の使用実態の中に見られる一定の規則性を明らかにしたものが即ち文法なのだということであれば致し方ないとは思いますけれども、放っておけばどんどん変わって行く言葉を次々に追認する形で拵えたルールに論理的な一貫性を持たせることが可能なのか、更にそういうものが文法と呼ぶに値するのかという疑問も感じます。
先ず誰もが容易に理解出来る整然としたルールを文法として国が制定し、以後それに従って皆が話し、書く。何事においても単純かつ明快を好む私としては、今後そういう取組みがなされることを期待します。
詳しく教えていただきありがとうございました。
投稿日時 - 2009-10-02 08:22:44
先ほどの説明は不十分でした。
「〜たい」の活用は形容詞と同じですが、形容詞うんぬんとは別に考えたほうが良さそうだと思いはじめました。
【が〜たい】【を〜たい】の違いに絞って書きます。
【が〜たい】
1.対象の名詞に直接続く(「が」と「〜たい」の間にほかの語句が入らない)ことが多い。
2.焦点は「が」で示された対象。
・水が飲みたい
「飲みたい」という願望が先にあって、その対象が「水」ということ。
・お前が殺したい
「殺したい」という願望が先にあって、その対象が「お前」ということ。衝動的。
【を〜たい】
1.対象「を」と「〜たい」の間にほかの語句が入ることが多い。
2.焦点は、「〜たい」で示された願望。
・水を飲みたい
「水」が先にあって、それをどう処理するかが「飲みたい」ということ。
・お前を殺したい
「お前」がいて、それをどう処理するかが「殺したい」ということ。計画的。
投稿日時 - 2009-09-30 22:12:24
ありがとうございました。
投稿日時 - 2009-10-01 14:03:01
【飲む】は他動詞なので、「を」で対象を受けます。
しかし、【飲みたい】は形容詞なので対象を「を」で受けず、「が」で受けることになります。
「水を飲みたい」や「彼女を好きだ」という方も多く、「を」で受けるのが間違いとはいえませんが、通常、形容詞・形容動詞の対象は「が」で受けます。
【が】は、願望、感情、可能・能力、必要、所有の対象に使われます。
(願望)水が飲みたい。
(願望)恋人が欲しい。
(感情)カレーが好き。
(感情)毛虫が怖い。
(可能・能力)フランス語が話せる。
(可能・能力)海が見える。
(必要)金が要る。
(所有)力がある。
【飲みたがる】になると、他動詞になり対象を「を」で受けることになります。
・水を飲みたがる。
投稿日時 - 2009-09-30 19:38:29
「飲みたい」は形容詞ですか・・・
そうすると例えば「殺したい」も形容詞ということですかね。
「お前が殺したい」
何となく変な気がします。
投稿日時 - 2009-09-30 20:14:18
主語が省略されているからではないでしょうか。
水が主語ではありません。
(私は)水が飲みたい
なので、私が主語で、目的語は水です。
混乱を避けるために、
私は水を飲みたい とすれば分かりやすいと思います。
日本語では、目的語の助詞に、を が 両方使います。
例
(私は)あなたが好きです=私はあなたを好きです
他にも助詞を変えても同じ意味の例
海へ行く=海に行く
目の悪い人=目が悪い人 など
投稿日時 - 2009-09-30 18:15:49
私は水が飲みたい
これでいいのなら、
私は水が飲む
これでも通用すると思うんですけど、どうでしょうか?
投稿日時 - 2009-09-30 18:46:16
ありがとうございました。
投稿日時 - 2009-10-02 08:38:13
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