• 締切済み

戦時中の人肉喰いについて

立花隆「人体再生」(中央公論新社)に以下のような文がありました。 >カソリック教会は、脳死移植を、魂が離れた肉体を、他の命を救うために用いる愛の行為だということで認めてあり、これは、脳死以上の死後移植で、とっくに魂が離れた、放っておけば朽ちるだけの肉体を生きた魂の持主が利用させてもらうことだから問題ないと考えて、自分を納得させているということでした。何年か前に、南米のアンデス山中の雪の中に飛行機が墜落し、生き延びた人たちが(カソリック教徒)、「死んだら自分を食べて生き延びて」と言い残して死んだ人たちを食べることで命をつないだことを、カソリック教会は法王庁の正式見解として、それは神の教えに背かない正しい行い(一種の聖餐という位置づけ)だと認めたことがあります。  太平洋戦争の日本軍では物質の補給も乏しく、サルの肉と無理に納得させ、人肉を食べたひともいたことが少なくなかったことが小説にも書かれています。心に重荷を抱えて大変だと想像します。  戦争で人肉を食べざるを得なくなった人々は悩みを自分ひとりで抱えているのでしょうか。日本の宗教団体で、戦時中に行われた人肉喰いにコメントしている団体はあるのでしょうか?  

noname#94392
noname#94392
  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数4

みんなの回答

  • Yelm
  • ベストアンサー率19% (63/324)
回答No.1

最近の例ですとシエラレオネ国際戦犯法廷において、シエラレオネの内戦に介入して出兵したリベリア軍の組織的な人肉食(人肉食行為を行った人間のみが入れる部隊が存在しました)を当時の大統領チャールズ・テーラーが承認していたとして訴追されています。 (なおこれ以外にも虐殺や少年兵の徴兵などが罪状にあがっています) アフリカでは「殺した相手の肉を食べることで強くなれる」という土俗信仰が広く存在するので、紛争地域での食人行為は珍しく無いそうです。 「価値観の相違」と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、殺人であれ、人肉食であれそれを正当化する論理というものは存在するわけで、そのあたりは個々人によっても違うでしょう。

noname#94392
質問者

お礼

ありがとうございます。  「価値観の相違」というより、食べなければ死ぬという状況に追い込まれた場合、人喰いは個人が罪として死ぬまで抱え込まなければならないのか、あるいは人喰いをしなければならない状況に追い込んだ責任者が責任を背負い込むか、心の罪を緩和する宗教的機構が痛みを分かち合ってくれるかということです。  キリスト教では懺悔という形式で、信者の心の重荷、罪の意識を神の心に拾い上げて、信仰者を助けることをしています。  日本軍の場合、多くの戦場で食料は現地調達の方針を採用しました。インパール作戦を指導した牟田口司令官は、戦後になってからも自分の作戦の正当性を主張して失敗責任を認めていませんが、彼の現地調達に方針により多くの将兵が病気と飢餓で命を奪われています。そんな状況のなかで人喰いが起きた場合、将兵は個人のレベルで人喰いの責任を背負い込むとになっているのがやりきれないと思います。「ビルマの竪琴」の水島上等兵は鎮魂の旅を続けますが、もうすこし、軍の責任者の謝罪とか、大政翼賛会で活躍した神道あるいは仏教関係者が救いの手を差し伸べてくれたのかなと疑問に思ったわけです。  その意味でキリスト教会は心強いなと感じました。

関連するQ&A

  • 脳死臓器移植を哲学的、宗教的観点でどのように判断していますか?

    脳死臓器移植にはいくつかの意見があるようですが、医師や法律家が肉体の死を検討するだけでは、不十分と思います。哲学的、宗教的観点からのご教示お願いいたします。ちなみに私は肉体と魂は別と認識しております。

  • 子どもの脳死移植がありましたが、

    週刊文春によると、自殺との情報が出ているそうです。 http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/ なんだか複雑な気持ちになりました。 交通事故との報道だったので、中々親としては受け入れがたい話、普段から情に流されない科学的なご両親かなと思っておりましたが、もし、それが事実なら、うーん、子どもは命を懸けて何を伝えたかったのかなと思わざるを得ません。 「彼を失ったつらさや悲しみから少し救われるような気がしています」 この言葉も受け止め方も随分違ってきます。 勿論、法律的には不備はないのでしょうし、新潟県での鉄道自殺を図った中学生と噂されていますが、その真贋はこういう制度上絶対肯定も否定もされませんから、あくまで、噂であり、また、善悪を問う性質のものでもありません。 自殺なら、その本人の死にたいという意思を、一刻も早く認めるほうが肉親は精神的に楽でしょうし、その後も誰かの役に立っている、どこかで彼の一部が生かされているということは、確かに「救われる」思いでしょう。 残されたものが持つ、なぜ子どもは死を選んだのかという辛い辛い問いかけも「少し救われる」でしょう。「良いことをした、彼らしいと思う」ことができる、通常の自殺者の親とは異なる地平を得たわけです。なんとも複雑です。 しかし、利用できるものは生きているものに利用したほうがいいとの合意の脳死移植ですから、そのパーツのみならず、自死の動機すらも生きている者が利用していいのでしょう。 私は、別にこの親御さんを批判しようと思っているのではないのです。我が子の突然の出来事、死が目前。誰だって正常ではおれません。受け入れがたい現実を前にして、選んだ判断が正しいかどうか誰も自信もてません。 ところで、自分の場合に当てはめて考えてみました。幼い子ということで、孫を対象にします。小学生の孫が2人おります。憎たらしいことも言いますが、やはり孫は孫です。そして、嫁が疑惑の(つまり浮気をしていた)3人目をお腹に宿しております。上二人だと、決心がつかないです。でも、今度の子なら、ああ、どうぞどうぞと脳死前から言ってしまいそうです。人間なんてそんなものです。 私が言いたいのは、遺族のほうではなく、周りのほうです。 初の子どもの脳死移植です。もう少し慎重でも良かったのではないか?肉体的に虐待がなかったとしてそれでよかったのか? 私が、3人目の孫をこれから精神的に苛めて自殺に追いやっても、人の役に立ったと私は救われるんでしょうね? 札幌医大で心臓移植があった事件では、医者の功名心があぶりだされました。 この移植も、なんだか移植をしたいほうばかりの思惑が優先しているようで、手放しで良かったと思えません。 しかし、この少年は多くの善を与えたんですね、臓器以外にも。それだけは認めないといけません。 今後、死後の臓器移植を希望する自殺少年が続かないように願うばかりです。 皆様はどう思われますか?

  • 日教組は死に値する!?

    私の学校はカトリックの中高一貫の男子校で、倫理を教えているクリスチャン教師がいます。(実は暴力教師!)その教師が吐いた下の暴言を皆さんどう思われますか? 「日教組で運動していた親戚が死んだときはせいせいした」 日教組は死に値するほど危険な団体なのでしょうか?? 日本の伝統であり誇りである国旗・国歌に組合員がなぜあえて戦争の過去を理由に抵抗するのかは私も納得できません。でもこの教師はあまりにも過激ではないでしょうか? まして倫理を教える立場です。授業で神様の愛がどうのこうのとか言っておきながら、他人の死を祝うような発言をするなんて不謹慎もいいところだと思うのですが……。皆さんのご意見をお聞かせください。  

  • 人肉

    確か十年か、十五年位前に 外国で日本人男性が女性の肉を食べた事件が あったと聞きました。 そのことに関する資料を読んでみたいので、 どんな小さな記憶でもいいので教えてください。

  • あなたは人肉を食べることができますか?

    今から30年ほど前ジャイアンツの長嶋が後楽園で 『、、永遠に、、、と』と引退声明を発表してるとき、 アンデスの山に墜落した飛行機の乗客が寒さと飢えで、 死んだ乗客の肉をを食ったという事件が起きました。 全員キリスト教徒だったのですが、のちに乗客は『正当』というキリスト教の 判定を下され生き残った人は最大の名誉を助けられましたが、 翻って、あと100年後におきるであろう食糧問題が発生した時 あなたは人肉をたべますか?

  • カトリックで肉食禁止の日の言い訳の仕方 その2

    これは、同じタイトルの質問http://okwave.jp/qa/q7362287.htmlの続編です。 カトリックでは、今でも年に2回、肉を食べてはいけない日(キリストの亡くなった日の前の40日間である「四旬節」の初日である「灰の水曜日」(2012年は2月22日)と最後の「聖金曜日」(2012年は4月6日))がありますが、私は、親類の法事が「聖金曜日」にぶつかってしまい、肉が食べられないことをどのように言い訳するかという質問です。 ご回答者の多くは、「宗教的理由で食べられないことは立派な理由になるので、はっきりと言った方がよい。」というもので、私も一応納得して、質問をクローズしました。 しかし、本日教会に行き、神父様に相談した所では、「いや、それは社会生活を円滑に送ることを優先した方がよい、肉を食べなかったら、明らかに先方に気付かれるし、社会生活にも支障がある。その日に守れなくても、自分なりに、日を変え、品を変え、ささやかな神の前での「犠牲」を払えばよい」、と言われ、心が軽くなりました。 その後の信徒仲間との対話でも話題にしましたが、やはりカトリックは、そのあたりの考え方が、きわめて融通無碍というか、悪く言うと「いい加減」(笑)という感じで、信徒としての居心地は非常に楽な気がします。 その後No.5で回答した質問「キリスト教に身体的・肉体的修行はありますか?」 http://okwave.jp/qa/q7365596.htmlでも 「No.4さんご回答の末尾にある通り、新訳聖書マタイ伝六章16-18には、さあこれから断食をするぞ!とか祈るぞ!などとこれ見よがしに行うのではなく、誰にも気が付かれないように行うことが推奨されておりますので、やはり「形式」よりも、心の内の「実質」が伴えばよい、との解釈のようです。」 と書きましたが、カトリックはそのあたりの解釈が非常に柔軟だという印象を強く受けます。 長くなるので、詳細は省略しますが、他宗教に対しても、非常に友好的で、対話をしようという意欲が感じられるのはカトリックです。 このあたりの私のコメントを読み、皆様はどのように思われますか? カトリックやキリスト教に対するイメージは、変わりましたか? (なお、キリスト教でも、プロテスタントの方はもう少し厳格なイメージが私自身あります。)

  • 平和の集団

    私は創価学会員ではありません。 が、ちょっと前の質問で、余りにも偏見に満ちた回答が多かったので、あえて問いたいのですが。 以下、創価学会のHPから抜粋させて頂きました。 #尊い命を破壊するすべての暴力を否定するのです。 #「生命を犠牲にしてまで、守るべき価値などこの世にありえない」との #精神に立脚し、戦争など、人類の平和を乱すあらゆる暴力を私たちは #否定するのです。 (平和運動の理念より) #ガンジーが生涯、民衆の中で、魂と魂の美しい共鳴を奏で続けたあの #姿をしのびつつ、尊敬するインドの皆さま方とご一緒に、「不戦」「平和」#への大いなる精神の連帯を、世界へ広げてまいる決心であります。 (池田大作氏のインドでの講演より) 創価学会が世界平和を希求する思いは、本物だと言わざるを得ないのではないでしょうか? 指導者の池田氏が、多くの国からいくつもの平和の称号を授与されているのは紛れもない事実なのです。 これほど世界平和実現に尽力されている人であるのに、母国においては勲章一つ差し上げられないのは、情けない限りだと思うのですが・・・。 私は、創価学会は、日本で最も強く、世界平和を希求している団体だと思っています。 「不戦」「平和」を真剣に訴え続ける創価学会の姿勢をどう思われるか、ご意見お聞かせ下さい。

  • 人肉はミート?

    「ミート」に鶏肉は含まれないそうですね 人肉はミート? 鶏肉や人肉も含んだ肉を英語でどう言いますか?

  • 戦時者のことを伝えたいのだけど…

    戦時中海外で生まれた祖母は、鬼怒 という巡洋艦に乗り疎開した経験があります。 アメリカ軍の攻撃にあい、逃げる際に助けて下さった兵長に名前と群馬出身と言われたそうで その兵長は死を覚悟して群馬に行ってもし兵長の姓の方にあったら自分のことを伝えてほしかったのでしょう。 でも祖母は群馬に行く機会がないまま今まできてしまい心残りのようです。 鬼怒 (軽巡洋艦)の会や群馬の海軍の会など、この兵長のことを伝えられる会や方を 調べたいのですが、調べ方が悪いのか見つかりません。 どなたか手がかりなど教えていただけないでしょうか。

  • カニバリズム(人肉食)について

    例えば、飛行機の墜落事故で、奇蹟的に生き残り、アンデス、或いはヒマラヤのような山中で、助けを待つ人たち。 或いは自分の属している部隊がほぼ全滅し、生き残った数名。 最早食料も尽きた、という場合、人の「屍」の「肉」を喰うことは尚「悪いこと」でしょうか? 個人的なことを言えば、彼らが「仲間」であれ、或いは偶然同じ飛行機に乗り合わせた見知らぬ人々であれ、「自分の肉」を喰らうことによって、少しでも彼らが生き延びることが出来るなら、わたしは自分の屍が食われることに抵抗は感じません。 わたしの好きな言葉があります。 「某(それがし)閉眼せば,賀茂川にいれて魚に与ふべし」 親鸞  「わが体焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる犬の腹を肥やせよ」 一休 またわたしの屍の扱いについては、火葬よりは土葬、 土葬よりは風葬 風葬よりは鳥葬 が望ましいとも思っています。 つまり人間も含めて、他の生物の食物・養分となりたい、またそのものたちの排泄物として、土に戻り、大地の肥やしになりたいと願います。 カニバリズムのどこに抵抗があるのか? 餓死した、或いは凍死した人間の、外傷のない身体に、刃物を突き立てる、という行為、その時点での「抵抗」「嫌悪感」でしょうか?では、我々が豚や牛、鶏の屠殺現場を見ることなく、その肉を食べているように、誰か別の人が「焼いてくれた」或いは「切り取ってくれた」肉であれば大丈夫か? 勿論、「ひとが人の肉を食うこと自体が畜生道である」という意見もあるでしょう。 でも人間(ヒト)だって、一個の動物ではありませんか? 人間だけが高等で、他の生き物(動物や虫)とは比較にならないという考えは何処から来るのでしょう? 勿論「俺は人の肉を食ってまで生き延びたくはない」という意見は最大限に尊重されるべきですが、同様に「死体の肉を食ってでも生きたい」という主張も正当性を持ちうるのではないでしょうか? たとえ、数名の肉を喰らっても、数日のうちに救助が来なければいずれ死ぬ命であるとしても・・・ ご意見お聞かせください。