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織田信長のすごい所 生き様を教えて下さい

小学4年生の子供に説明したいのですが、歴史に疎く 詳しい方のお知恵をお借りできたらと思います。よろしくお願いします

  • 歴史
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みんなの回答

  • teambule
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.8

戦乱の絶えない世の中で、分裂状態の尾張の国から明確に天下を狙う計画を立て、それを実行に移したこと。楽市楽座や街道の整備、異国の文化を取り入れたこと。兵農分離(完璧じゃなかった)や政教分離。多くの恨みを買ってたと思いますが、民からみればかなりありがたい偽政者だったと思います。そして、実質天下を取ったところでしょう。もうすこしで統一できたに違いありません。一言で言うなら一流の「革命者」とではないでしょうか。 悪い所は 宗教弾圧、虐殺をした・・・等と言われてますが、これは間違いです。はっきり言えば宗教を政治に介入してくるのでこれを退けたに過ぎません。実際宗教を禁止などしていません。自分の造る新しい世の中のため政治にわざわざ入ってくるのを排除しただけです。しかも先に仕掛けたのは一向宗のほうで、信長の弟も殺されています。一概に信長を悪魔だの冷酷だの言われてるのはおかしいと思います(罪のない人を殺したわけではないのに)。僕から言えば、戦国の世を治めるには多少荒療治も必要だったと思いますし、現代の感性で信長を低く評価するのはいけないと思います。まあ、唯一の欠点は気性が激しいことでしょうか。これは人物としてはマイナス評価ですが、偽政者や戦国大名としてはマイナス評価につながらないでしょう。 日本史の一部を彩った人物の一人です。

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.7

変態大好き。 変態ハァハァ。 変態ラブ。 木綿藤吉 米五郎左 かかれ柴田 逃げ佐久間。 と農民のプロ化以前に部下がプロ化。 前田利家も戦よりも金勘定に特化しましたね。 すいません、小4じゃあ出来ませんね。 反抗期になった時までとって置いてください。 反抗期には正論よりも反論できないほどのぶっ飛んだ論が良いのですよ。 反抗期は正論よりもこういうぶっ飛んだことが大好きだから。 世間が答えるのも良いのですけど、世間に足りない部分を教えるのも親の務めです。

  • touan
  • ベストアンサー率30% (52/170)
回答No.6

武将としてのことは皆さんがコメントされていますので、私は「おまけ」的なお話を一つします。 岐阜県…があります。 この「岐阜」という名を創造したのが信長だということです。信長のリクエストを受けた坊さんが命名したという説もありますが。 岐阜は、中国の故事を背景にしています。 「岐山(きざん)」と「曲阜(きょくふ)」です。 岐山は:殷、周、秦、漢…の周という国の礎を築いた文王(太公望の太公)が出発した地であり、今の陝西省に位置します。文王は周を建国する前に亡くなりますが、その子の武王が殷を滅ぼして周の最初の国王になります。周は、封建制度を初めて確立した国でした。諸将を各地に封じる制度です。例えば、太公望は斉に封ぜられました。そして、「礼」を政治の中心にしました。 曲阜は:武王の弟の周公旦が封された(治めていた)魯という国の都でした。今の山東省に位置します。この曲阜は孔子の故郷でもあります。孔子と言えば「礼」ですが、その「礼」をもって魯という国を治めた周公旦を大変に尊敬していました。 周は、紀元前11世紀(BC1050年頃)に建国、紀元前8世紀(BC770)までは西周と呼ばれて権威も権力も備えていました。内情や外敵によって力は衰えますが、紀元前5世紀の終わり(BC403頃)までは東周と呼ばれて形を残していました。その後は、戦国時代になり、BC221の始皇帝による秦建国へと続きます。 長々と周の歴史を話してきましたが、信長には、群雄割拠の日本の戦国時代を終わらせ、自らの力で新しい時代を築こうとしていたとき、この周建国に学ぶところが大きかったのでしょう。 ちなみに、「天下布武」の「武」は武力を意味するのではなく、徳の「武」を意味するのだと聞いたことがあります。

  • mn214
  • ベストアンサー率23% (306/1302)
回答No.5

(1)商業の活性化 信長は俗に言われる『楽市楽座』という政策を行っています。 当時の社会では地元の大きな寺社などが権力を握っていて、それらが既得権を抑えており、勝手に新規に商売を始める者を排除し、さらには各地に関所を勝手に設けて通行税を徴収していたような時代です。 信長は岐阜など自分の領地ではこうした寺社勢力による既得権を廃止し、誰でも新規に商売をできるようにし、さらには勝手な関所も廃止して庶民が自由に往来できるようにしたのです。  さらには信長は自分の部下を城下に集めて家を持たせました。 これにより日本で最初に城下町が誕生したと言われています。 それまでは神社や寺の縁日などの人が集まる特定の日・場所でしか市が開かれなかった時代でしたが、信長の城下では城下町が形成されている為、常に人が集まり商業が盛んになり、関所の撤廃により他所から商人たちが大勢集まってくるような賑やかな街を形成したようです。 (2)戦闘員のプロ化(兵濃分離) この時代の末端の戦闘員は普段は百姓であり、農作業のヒマな時期に戦に参加していた時代です。 この状況は日本中で同じであり、そのため雪が降る冬期や農作業の忙しい時期はどこでも戦はあまり行われていなかった時代です。 信長は商業が活発になったお陰で金銭に余裕ができ、それを元手に百姓の次男・三男といった男連中をプロの戦闘員として金銭で雇ったのです。 信長軍は他の地方の軍隊に比べて弱い軍隊だったのですが、常に戦闘に参加できる状態にしたことにより、長期戦になっても戦える集団になった為、最後には勝つような常勝軍団になっていったようです。 また商業の成功により軍資金があるため、早くから鉄砲を買い集めており、それまでの個々の戦闘員の力量による戦闘から、集団による戦闘へと戦の方法まで変革してしまったことも大きなことです。 (3)政教分離 当時は特定の寺社勢力が強力であり、庶民は領主の命令よりも自分の信仰するお寺の命令を最優先するような時代でした。 このため各地で一向一揆などの宗教の絡んだ一揆が頻繁に起きていた時代であり、その元凶である本願寺や多くの僧兵を擁する延暦寺などの強大な寺社は信長にとって敵対関係になった為、最後の手段として焼き討ちにしたのです。 ただし、信長はこうした寺社勢力と対立はしましたが、決して特定の宗教を禁止するような宗教弾圧は行っていません。 信長のこの行為は単に『寺社は政治には口ださず、宗教的なことだけやってろ』と言いたかっただけです。 現代風にいえば“政教分離”を貫いた政策だったようです。 (4)天下布武 当時は日本中の戦国大名が天下を狙っていたように思いがちですが、実際には当時の戦国大名は、せいぜい隣国と戦をして領土を奪いあっていたに過ぎません。 その点、信長は早くから“天下布武”と称して明確に天下を狙っていたようです。 信長が天下を獲ったことに関しては、運が良かったからとか、地域に恵まれていたとか様様に言われますが、早くから明確に天下を狙っていたから、結果として天下を手中にしたのだと思われます。

  • Firmament
  • ベストアンサー率27% (27/97)
回答No.4

小学生のお子さんに説明するのなら、 「他の大名たちが、自分の国をどうすれば豊かにできるか、  としか考えていなかった時代に、  信長は日本全体のことを考えて行動していた。」 というのはいかがでしょうか。 武田信玄や上杉謙信・今川義元等、 名だたる戦国武将は、 室町幕府の存続を前提として、 戦国にある日本を一つに統一するという考えはもとより、 統一後の秩序の維持についても、 これといったビジョンがなかったと聞きます。 付け加えるとすれば、 「信長は、多くの人々が信長の新しいやり方についてこられず、  また、理解もできなかったために強く反対したにもかかわらず、  強い意志をもって、自分のやり方を押し通した。  そして、それまでだれもできなかった、  日本を戦争のない平和な国にするということを、  あと一歩のところまで完成させた。」 お子さんが興味を持って、 自分から伝記などを読んで学んでくれると良いと思います。

回答No.3

政教分離・兵教分離を実現したことが、信長の最大の功績と思います。 それまでの寺社は、強大な経済力と動員(軍事)力・権威を持った 強大な勢力であり、しばしば政治にも影響を与えてきました。 そして当然ですが、戦国時代においても並の大名など及びも つかない力を持っていました。 信長は、これらから軍事力(とそれを支えるだけの経済力)を 取り上げることにより、16世紀という世界史的にも類を見ない 早い時期に政教分離・兵教分離を実現しました。 無論、これだけの力をもった勢力が、おいそれとそれを手放す わけもなく、信長とは激しい抗争を繰り返すことになり、 その過程で焼討ちやら虐殺とかを起こすことになります。 これをもとに、信長を残虐とか宗教弾圧とか批判する人も 少なくないのですが、少なくとも無防備に平和に暮らしていた人々を 襲ったわけはありませんし、講和を結んだ後では、寺社そのものの 存続や布教自体も許しています。

noname#115647
noname#115647
回答No.2

好んで謡い舞った幸若舞の敦盛。「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享(ひとたびしょうをう)け滅せぬもののあるべきか」 (人間というのは遅かれ早かれ死ぬことは解かりきっている、たとえ生き長らえたとしても、たかだか50年。はかないものよ。(大意)) 信長は若い時から、こういった死生観を持っていたわけです。 逆に言えば、この短い人生のなかで、自分に何ができるのかを絶えず問い続けてきた事になります。 父信秀は勤皇の志も篤く勇将でしたが、このことは幼き信長に天下というものを意識たらしめたものとは思われます。 母親(土田御前)は弟(織田信行)ばかり可愛がり、実の我が子でもある信長は嫌っていました。この事が幼い信長に落とした心理的影響もあったとも思われます。 信長はお父さん子で、父親の影響を受けて育ちました。 信長はまだ尾張国領主であった若い頃から、天下を取るということを意識していました。 桶狭間の戦いにおける、今川義元に降伏しなかったのもこのためです。 美濃を征服した時に居城を移しますが、この地を岐阜と名付けました。 岐阜には「天下分け目」という中国の故事にならった意味があります。 信長は当時の時代感覚からすれば、恐ろしほどの合理的精神の持ち主でした。無駄を嫌い無駄を排する。 農兵分離、楽市楽座、もこの精神に基づくものです。 農民は農業に専念し収穫を上げ、年貢を納めるのが仕事。兵には給米や給金を与え、戦(いくさ)があれば年中戦える体制にしました。 それまでは足軽などの兵は農民が主体で、農繁期においては戦ができないなどの不都合がありました。天下を狙う信長にとってはそれでは困ります。 物品の販売も昔は寺社などの専売で、業者は寺社が発行する株の購入が必要という、いわば許可が必要でした。寺社はそれで利益をむさぼっていました。(他には特権を持つ業者の座や問丸もあったらしい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E5%B8%82%E3%83%BB%E6%A5%BD%E5%BA%A7) それで武器を購入したり武辺者を雇い、武力を誇示する寺などもあったようです。 「いや、あの者たちに儲けさす必要はない、自由に市をたてて売買してよいぞ。ただし運上金として少しばかりもらう。」としたのが楽市楽座の始まりです。 ただし楽市楽座は南近江(滋賀県)の戦国大名六角定頼が始めたもので、信長が始めたものではありませんが、大々的に行ったのは信長です。 関所なども廃止したり、あるいは厳しい検問を緩めるなどし、他国からの業者なども入れました。 この事は他国の間諜(忍者)が入って来て情報漏えいするなど、国の防衛の危険もありましたが、信長は構わず経済発展の方を重視しました。 信長の合理性には人事面にも現れます。古くからの有能な重臣もいましたが、新しい有能な新人を発掘し有効活用します。功があれば地位を上げ重要な仕事をやらせ、更に有効活用していきます。 ただしその内容は過酷で、休みなしと言ってももよいぐらいです。 軟弱な者ではとてもではないが、勤まりません。 現代のように辞表を提出して終わり、という訳にはいきません。ヤクザ並みの厳しい掟があるのです。失敗しても罪は大きいものです。領土を与えられて上手く納められなければ切腹ものです。 信長の場合は特に厳しく、少しでも粗相があれば即手打ち(斬り殺される)なども珍しくありません。 天下を狙うのだから当然敵も多くなり、合戦回数も増えます。並の戦国大名の比ではありません。 それに一々信長は計画を考え、作戦を練ります。他の者の介入を許しません。他の者はすべて手駒であって頭脳ではありません。頭脳は信長一人だけなのです。しかも指示が細かく綿密です。指示通りにしなかったらたちまち激怒し罪は重たいです。 (例、朝倉軍追撃戦。結果的には成功するが、手違いが少しばかりあり、言い訳した佐久間信盛は、後に追放の罪を受ける。) 信長は攻めるだけではなく、冷静な判断力を持っていました。 数多くの合戦の中には、戦況思わしくない状態にも陥りましたが、そういう場合はためらわず退却します。(浅井長政の裏切りによる、第1次朝倉攻めなど。) あるいは天皇も動かし戦術的和睦をする。(一向一揆の本願寺攻めなど。) あるいは武田信玄や上杉謙信への、おべっか使い的な外交戦術。 本能寺の変における明智光秀の謀反を知ったときの信長の最後の言葉、「ぜひもなし」(どうしょうもない。)いやはや山あり谷ありの激動の人生でした。信長享年49歳。 私はこんな人生はイヤですよ。しんど過ぎます。部下になるのもイヤですね。同じくしんど過ぎます。その前に2日で手打ちにされてお終いか。(笑)

  • syuitilwo
  • ベストアンサー率30% (169/547)
回答No.1

勝つ為に『何をすれば良いか?』を追求実戦した事でしょう。 1.領地・地盤を安定させる為に「弟」ですら殺す 2.今川の領地を切り取るチャンスは十二分にあっただろうが、当時の政権中枢と逆方向の領地には見向きもせずに美濃を攻め取り「将軍拝謁」を慣行。地方領主から「天下候補」に名乗りをあげた。 3.職業軍人の導入。半農している掛け持ち武士が多くては天下取りの足枷になるし、非効率な為土地とは係りを持たない「職業軍人」を大量に生み出した。 4.重商主義、楽市楽座の導入。関所の廃止&道路のインフラ整備の他に所謂規制緩和を大々的に実施して大量の資金を生み出す。が、士農工商で身分が上のハズの農政には殆ど手をだしていない。つまりする必要は無い。と判っていた。 5.怠慢家臣のリストラ実施。大抵の場合謀反や内通、反抗的な態度をとらなければ、忠誠を誓っている家臣を斬る事はない。が、信長はやる気の無い職務怠慢を理由に昔からの重臣達をリストラして、織田家家中の内部統制を行っております。 6.鉄砲と言う新兵器の大量導入&技術革新。弓よりも射程距離、殺傷能力に優れ、且つ技術習得が誰でも出来る。新兵器を戦争に大量投入。及び技術開発を推し進めて戦場の脇役から主役へ踊りださせた。 つまり、将来性抜群の兵器と理解し、その為の大量確保&改良を当初から行っている。 7.秘宝中の秘宝『蘭奢待』を得る。大量の資金提供&軍事圧力もあったのでしょうが、武士身分のしかも将軍ですらない信長が蘭奢待の切り取りを許されるとはそれまでの歴史上前例は無い偉業とも言える。

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