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関が原戦いで

buchi-dogの回答

  • buchi-dog
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回答No.14

「私が前回の回答で越前の大名の石高をあげたのはウィキぺディアを元にしています。ウィキぺディアがいつも正しいとは限りませんが、必ず間違っているとも言えません。それは書物も一緒です。本に書いてある事が絶対正しいとはいえません」 公刊されている、権威を認められた人の書いた書物の記載と、「公刊されている書物の内容を誰かが書き写し、誰でも自由に書き換えられる」ウィキペディアの記載とは同列に扱うことはできません。 論文や書物を書く場合、公刊されている本や雑誌論文を引用するのは当たり前のことですが、仮にウィキペディアの記載を引用している論文があれば、その時点でゴミとして捨てられるでしょう。 「ウィキペディアによる回答が資料になるかならないかは、回答を見た人、それぞれが判断する事です」 それは「出典がウィキペディアです」と明記した場合に通用する論理であり、出展を示さずに「越前の大名はこうなっており、太閤検地の石高と概ね一致します。越前に太閤蔵入地の設定はなかったようです」などと書いた場合には適用できませんね。 「この歴史のカテゴリーでも多くの回答者がウィキペディアを利用しています。そのまま貼っている人もいます」 きちんとした回答者は、ウィキペディアの記述をソースにして回答はしていないと思いますよ。私の知っている限り。 私の場合、自分の知っている事実についてウィキペディアに正確なことが書いてある場合「概ねこんなことです」として、ウィキペディアのURLを書くことはあります。ウィキペディアの情報と、私の情報が一致していることを明記します。 「ただ、私の書いた数字を「数字の遊び」と「貶め侮辱する」のなら、参謀本部の数字もまた確かな証拠のない「数字の遊び」でしかありません」 はて? 「そして、『百石につき3人』で関ヶ原合戦での兵力を算定するのは「数字の遊び」でしかありません。そもそも、この基準は『島津義弘が兄の義久に書いた手紙に記されている、会津遠征の際の軍役高』を、参謀本部が「日本戦史 関原役」を編纂する際に採用したものです」(『一国につき3人』として書いたのを訂正しています) と、 「領地百石につき3人として関ヶ原合戦での兵力を算定するのは、参謀本部が、現代の多くの本のネタ本になっている『日本戦史関原役』を明治時代に編纂した時にやったことであり、それは数字の遊びでしかない」 と書いているのですが? ただし、その根拠が 「島津義弘の書状に記載されている『会津遠征に際しての軍役高』」 であった以上、 「会津遠征に参加してそのまま東軍に参加した諸大名の兵力については、『百石につき3人』基準を適用するのは根拠があること」 であると書きました。 ただし、この基準を会津遠征と関係ない西軍諸大名に当てはめるのは根拠がないと考えますが、そのことも先に書きました。 「大谷吉継が、越前の太閤蔵入地(約15万石と推定)の代官を務めていた可能性が高い」 ことは、越前の太閤検地の石高、諸書を根拠とする大名の支配高、吉継の豊臣政権での地位などを根拠としたものですが、「私見」と断っております。これを覆す根拠があれば、ソースを示してぜひ提示して頂きたいです。 なお、石田三成と大谷吉継が挙兵し、毛利輝元を担ぎ出してから、宇喜多秀家らと諮って家康を弾劾する「内府ちかひの条々」を諸大名に発したのは有名な史実です。 この中に、家康が太閤の遺言に反して行っていることとして 「知行方についてはすべて自分の下に取りこんでいることは言うまでもなく、秀頼成人までは知行給付を行わずとの誓紙を違えて、忠節もなき者たちに知行を宛行っていること (家康与党の細川忠興や盛忠政らに加増を行った件を指す)」 というくだりがあります。「関ヶ原合戦」 (笠谷和比古 著) 記載の現代語訳です。 「20万石で越前北の庄に転封したという文書はあります。『毛利家文書』に慶長4年2月5日に五大老から青木一矩に転封命令が出されたとあります。秀吉の死後でしょう。これは『福井県史通史3』にも載っています」 だとすれば、秀吉の死(慶長3年8月)から1年も経たないうちに、「五大老」が何の権限をもってしてか、誓紙を共同で破って、何の手柄があったのか分からない青木一矩に大幅加増を行っているわけで、ちょっと考えられないことです。 西軍首脳が知恵を絞ったであろう「内府ちかひの条々」は自己撞着の文書となりますし、今までこの時代を研究する歴史家が見逃していた「新史実」ですね。 青木一矩への大幅加増が事実として 「独裁権力を握った家康が、与党と考えた青木一矩に越前の太閤蔵入地を配分した」 ものであれば、関ヶ原合戦時に青木は西軍について除封されているわけですので、家康によるせっかくの加増は何の効力も発揮しなかったことになりますね。青木は家康とは特に関係がなかったようですし、なぜ家康が青木にそのような格別の恩恵を与えたのか?20万石もの領地を持ち、家康に大幅加増という格別の恩義があり、堅城である北庄城に拠る青木が、なぜあっさり西軍につき、僅か5万石の小大名である大谷吉継の下風についたのか?謎が謎を呼びます。 「青木一矩 越前北庄 20万石?」は何かの間違いと考えるのが理解しやすいですね。ウィキペディアをうかつに信じてはいけないと言う見本のようなケースです。

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