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関が原戦いで

buchi-dogの回答

  • buchi-dog
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回答No.6

「当初、大谷勢(5700人)は、京極勢(3000人)と藤堂勢(2500人)と戦っていました。5700対5500人ですから、それほど兵力に差はなく激戦となっています」 関ヶ原の合戦は、高地に事前に野戦築城した陣地に拠って北国街道を扼する西軍を、北国街道を美濃赤坂から進んできた東軍が攻撃する戦いでした。 ですので、西軍諸隊は全て高地に陣を構えております。 大砲がなく、攻撃側が鉄砲を効果的に使えない当時、「上から下に撃ち下ろす鉄砲・弓矢」をかいくぐって野戦築城された陣地を攻める場合、防御する側が圧倒的に不利になります。西軍は、そういう戦い方を出来るようにあらかじめ陣地を準備していたから、数で優勢な東軍と互角以上に戦えていたのです。 全ての資料は「小早川が裏切る前、戦勢は西軍に有利であった」と伝えています。 また、大谷吉継は、自分の兵だけを指揮していたわけではありません。 大谷吉継が指揮する西軍最右翼は、関ヶ原の合戦の前に、吉継の指揮下で北陸方面で東軍の前田軍に対峙していた兵力がそのまま関ヶ原に進出したものです。大谷は、多くの小大名を統一して指揮していたと伝えられます。 「脇坂、朽木、赤座、小川の各隊が積極的に大谷勢に味方すれば、兵力が4200人も増え楽になります」 ということではなく、上記の4隊は合戦の最初から大谷の指揮下で東軍と戦っていたと見るべきで、小早川同様に何もせず戦局を傍観していたと見るべきではありません。少なくとも、そのように伝える資料を見たことはありません。 広く流布し、ウィキペディアにも掲載されている 「関ヶ原の合戦の各隊の布陣図」 「関ヶ原の合戦の各隊の兵力」 は、No4でも言及しましたが、明治時代に参謀本部が作成した戦史書「日本戦史関原役」が元ネタです。参謀本部は、あくまで「陸軍将校が戦史を学ぶ際の材料」としてこれらの書籍を編纂しただけで、「布陣図」も「兵力」もたいした根拠はありません。それらがないと、戦史を学ぶ際に困るので「適当に設定した」程度のものです。 小早川秀秋の兵力は「1万5千」と参謀本部の本に書いてあるようで、現代の多くの本にそのように書かれていますが、個人的には「過大ではないか」と思います。何故かといいますと、関ヶ原合戦の時点での秀秋の領地は筑前において30万石程度とされているからです。 実際問題としては 「大谷吉継指揮下の兵力がどのくらいあったのかは良く分からないが、小早川隊の兵力に劣ったとは考えにくい。さらに、野戦築城した高地の陣地に拠っているので、兵力以上の戦力を発揮したはず」 と考えます。 そのように考えて、No1で 「小早川は史実どおりの動きをしても、大谷部隊の一部である脇坂・朽木・赤座・小川の隊の裏切りがなかった場合、大谷部隊の陣形が崩れませんので、大谷部隊は持ちこたえたと思われます。その場合、戦況は西軍に有利に傾いたと考えます」 と書きました。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 大変興味深いです。布陣図やら人数やらはあまり根拠がないのですね。小早川も決定的な兵力ではなかったとすれば、関が原のシナリオは、構成に勝手に捏造されたものになります。裏切りが小早川だけならば、持ちこたえたという考えは大変貴重ですね。

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