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関が原戦いで

DieMeuteの回答

  • DieMeute
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回答No.13

NO.5です。またちょっと補足を・・・ 私が前回の回答で越前の大名の石高をあげたのはウィキぺディアを元にしています。 ウィキぺディアがいつも正しいとは限りませんが、必ず間違っているとも言えません。それは書物も一緒です。本に書いてある事が絶対正しいとはいえません。 ウィキペディアによる回答が資料になるかならないかは、回答を見た人、それぞれが判断する事です。 この歴史のカテゴリーでも多くの回答者がウィキペディアを利用しています。そのまま貼っている人もいます。 それはともかく、青木一矩の場合、21万石ではありませんが、20万石で越前北の庄に転封したという文書はあります。 「毛利家文書」に慶長4年2月5日に五大老から青木一矩に転封命令が出されたとあります。秀吉の死後でしょう。 これは「福井県史通史3」にも載っています。 さて参謀本部の出した東軍の兵力について、確実だと信用する根拠はありません。参謀本部が100石3人制で計算したものでしかありませんから。会津征討に派遣された大名が実際に100石3人制で兵数を割り当てられたかどうかは不明です。 上杉征討には北奥羽の武将も招集されています。 最上家の旧臣が書いたと言われる「最上義光物語」によれば、南部利直10万石は5千の兵で参陣したそうです。秋田実季5万2千石は2650人で参陣。戸沢政盛4万石は2200人で参陣したそうです。 この数字が正しければ、彼らは100石3人制ではなく、100石5人制に該当します。 朝鮮出兵の時も九州や四国の大名が100石5人制、100石4人制で出兵したという話もあるので、ありなえない事ではありません。 つまり参謀本部の100石3人制は違う可能性もあるし、そうである可能性もあります。もしかしたら100石4人制だったかもしれません。どのようにでも考えられます。 また朝鮮出兵の時に伊達政宗は、割り当てられた兵士の2倍を出兵させたという逸話があった筈です。 徳川家康の歓心をかうためや、戦場での功績を狙い軍役高以上の兵士を連れて参陣した大名がいないとは言い切れないでしょう。 軍役高はそれぞれの大名の諸事情によっても変化します。 ですから参謀本部の計算が東軍にのみ確実だというのは無理があるでしょう。 つまり東軍も西軍も実際の兵数はわかりません。だから推定するしかありません。 私が前回の回答で書いた、100石3人制も一つの目安です。 ただ、私の書いた数字を「数字の遊び」と「貶め侮辱する」のなら、参謀本部の数字もまた確かな証拠のない「数字の遊び」でしかありません。 そして島津の書状にある長宗我部、立花の兵力のように「確実」な数字を証明できるならともかく、仮定と推定でしか数字を出せない他の回答者の方も、また「数字の遊び」でしかないでしょう。 「数字の遊び」でないのなら、島津の書状のような「確実」な証拠を提示すべきです。 ところで、少なくとも私には、どんな大名であれ少ない兵でいいと判断するとは思いません。 東西2つに分けての大合戦の中で、どの大名も勝ち組になろう生き残ろうと必死です。 最初から陣営を決めているにしろ、裏切るにしろ、合戦ではそれなりの働きが必要とされますし、合戦では生死のやりとりをしています。 そうした中で兵が少なくていいと考える武将はまずいないでしょう。 できるだけ多くの兵が欲しい筈です。 そのいい例が長宗我部盛でしょう。軍役高2000人のところを5000人です。その長宗我部盛親は関ヶ原の南宮山で動きませんでした。 ちなみに長宗我部盛親は22万石ですから5000人は100石3人制で兵を出しており、石高的には無理をしたわけではないでしょう。言われた兵より多くの兵を出したというだけで。 立花宗茂も13万石ですから4千の兵は100石3人制で、長宗我部盛親と同様でしょう。 推定するしかない部分を自説に都合よく仮定するのなら、次のような考えもあるでしょう。 小早川秀秋の兵力は1万7千をゆうに超えていたと。 小早川秀秋を35万石で100石3人制で計算し、10500人。 さらに傭兵を雇います。 有名な話に関ヶ原の時、黒田如水が傭兵を募集し瞬く間に3600人を集め、戦を開始したという話があります。黒田家は18万石。それで3600人をすぐに集められたのなら、35万石の小早川は7000人は雇えるでしょう。それなら1万7000人を超えます。 東につくか西につくか迷っても、結局は戦ういじょう重要なのは兵士の数です。小早川が傭兵を大勢雇っていてもおかしくありません。 また、大谷吉継には傭兵を雇う余裕が無かったという考えも可能です。 西軍は兵站で苦労しています。 「古今消息集」には石田光成が、大阪城に軍資金の提供をたびたびお願いしているが、なかなか出してもらえないとあります。 しかし、軍資金、兵糧は確保しなくてはならず、石田光成の財産が使われたと言います。 親友の大谷吉継なら自分の全ての財産を差し出し光成を助ける事くらいやりそうです。そして新たな兵を雇う余裕がなくなったと。 本来、兵糧などは武将が自分で用意するものですが、宇喜田から島津に送られた書状に兵糧や玉の支給を受けたとあるそうです。 このように推定するしかない部分を、自説の都合のよいように、仮定し推定する事なら誰にでも、いくらでもできます。 別に私の意見を他の回答者の方が認めなくても構いませんが、私の考えにブレはなく、終始一貫して西軍の敗北する確率が高いという考えは変わりません。 そもそも回答を否定されるのは構いませんが、侮辱されるのは不愉快です。回答も4回目ですし、2チャンネルのようにはしたくないので、これを最後の回答にいたします。

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