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仏教に感じる矛盾について

素朴な疑問です。こういう場所で訊くのは野暮な気がする一方、一度は訊いておいた方がよい気がするので思い切って質問します。 以下は最近、私が頂戴した回答の一節です。著作権に敏感な方があってはいけないので出典を記せば、 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5114865.html のNo.2です。 ここに、 >>仏教の目的は、「成仏」、つまり、お釈迦様と同じ境地、境涯に至るというです。 お釈迦様の境地、境涯というのは、お釈迦様と同じ境地、境涯になった者だけが解ると言われています。<<・・・・・(*) とあります。 私に仏教の素養はありませんが、多分、この一節は正しいのだと思います。「言われています。」と伝聞形であることからNo.2の回答者特有の認識ではなく仏教界全体に共通した理解らしいと見て取れます。そうだとすると大いなる素朴な疑問が生じます。 ・釈尊は出家し乞食生活に入りました(スッタニパータ)。 ・在家にあって帰依する者は法による供養に努めるのは勿論のこと、財物の布施によっても出家者を供養せねばなりません(維摩経、第12章「法供養」)。 さて、在俗の者が解脱を目指し精進するとします。よく精進し境地が進めば何時しか在俗のままでは修行の限界に達して乞食生活に入る必要が生じるでしょう。この結果、釈尊の境地に近づく者が増えれば増えるほど出家者が増え、これはまた、在家が減少することを意味します。救われる者の生活(出家)が救われない者(在家)によって支えられているために釈尊の境地に近づく者が増えれば増えるほど救われない者の負担が増え、よってまた救われる者の生活も破綻に向かいます。共倒れにならないためには圧倒的少数の救われる者と圧倒的多数の救われない者の存在を維持しなくてはなりません。救われない者の存在が条件になるのでは教えの根本に矛盾があるというしかありません。 人類の規範たりえる思想は経済的自立を主張することが必須の条件の一つだと思います。 この疑問は次のどれかに根ざしていると思います。 1 私が何かを誤解をしている。 2 (*)が誤っている。 3 釈尊は究極に於いて出家も在家も餓死してよいと考えている。 4 釈尊の思想には欠落があり仏教は人類の規範たりえない。 5 その他。 この質問は視点が非仏教徒の立場にあります。信徒向け限定ではなく万人向けの解説を望みます。また、アンケートでもないし詩歌の鑑賞でもありませんから、皆様の考えの開陳を望んでいる訳ではありません。単なる感情の吐露ではなく論理による説得を期待します。必要であれば宗派の明示を頼みます。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • darumazen
  • ベストアンサー率16% (18/107)
回答No.15

>人類の規範たりえる思想は経済的自立を主張することが必須の条件の一つだと思います。 宗派によるでしょうが自給自足しているところもあります。 曹洞宗の本山である永平寺は今でこそ完全な自給自足ではありませんが昔は完全に自給自足でした。 一休さんの伝記を読むと師匠が「托鉢は仏教を売り物にして食べ物を得ようとする行為だ」と言って托鉢を禁止したと言う記載があったりします。 大乗仏教が中国に入ってから中国では仏教を禁止して僧を還俗させ、寺や経典を焼いた時期がありました。当然、托鉢は禁止ですから還俗させられた僧は在家の普通の人と同じ生活をして悟りを得るための方法が考えられました。そこで中国では普通の生活をしていても悟りを開くことができる、いや、普通の生活の中にこそ悟りがある。という考えが出てきました。その考えを日本に持ってきたのが道元で永平寺はその曹洞宗の本山です。 禅宗では食べ物の問題はもうクリアされている。と言ってよいでしょう。 浄土真宗には托鉢の習慣がありません。在家で十分という考えだからでしょう。

sono-higurashi
質問者

お礼

このご回答は具体的でとても分かり易かったです。 >>普通の生活の中にこそ悟りがある。という考えが出てきました。その考えを日本に持ってきたのが道元<< >>浄土真宗には托鉢の習慣がありません。在家で十分という考えだからでしょう。<< ・ 先ずは曹洞宗(浄土真宗)に帰依する。 ・ 曹洞宗(浄土真宗)の「論」に従って道元(親鸞)の「論」を学ぶ。 ・ 道元(親鸞)の「論」に従って釈尊の「法」と「律」を学ぶ。 ・ 各自の事情に応じて教団への財物供養をする。 在家のまま解脱できるというのですから、この手順でよさそうです。他の要因を一切考えずに経済的側面だけを考えれば何の障害もなく、曹洞宗と浄土真宗は人類の規範たり得ると思います。他の要因からの検討は今回の質問とは別問題です。 また、これがdarumazenさんの主観に過ぎないのか、客観性があるのかは道元と親鸞の著作を読めば分かる理屈ですから、曹洞宗と浄土真宗に関する限り、このご回答で十分です。 有り難うございました。

その他の回答 (21)

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.11

>人類の規範たり得るか否かが主旨ですから、最終目的である理想が実現した状態で考えます。 現実はどうするのですか? 質問内容にある世界は今のところ現実にはなっていません。 あと何年かかるのですか? 理想が実現した状態というのはこの世界では無理じゃないでしょうか。 交通ルールを守りましょう。 法律を守りましょう。 この理想が実現したら警察官も裁判官も失業してしまいます。 彼らの行動は自己矛盾しているでしょうか。 これと同じことではないでしょうか。 「現実」を無視するわけにはいかんのではないでしょうか。 現実を見ずに理想状態になった時の事を心配するのは意味があるでしょうか。

sono-higurashi
質問者

お礼

No.6を頂いた段階でshift-2007さんのお考えは分ったつもりです。こういう制約の多い媒体を通じて主観の違いを擦り合わせるのは私の能力では不可能です。よって回答者が何らかの客観的な根拠を提示した上で答えて下されば、それでよいのです。中には主観でしか答えられない質問もあって、その場合は回答者の見解の中に私が疑問とする問題が残っていなければ、お互いが相手に賛同できようと出来まいと、それで私の為にはなっていて、それで終わりにしたいのです。水掛け論が大嫌いで、これを避ける方法として私にはこれしか思いつきません。 ご配慮、有り難うございました。

  • zatousan
  • ベストアンサー率55% (156/282)
回答No.10

こんにちは、 今回の質問の焦点は、 >救われる者の生活(出家)が救われない者(在家)によって支えられている ですよね? 在家のままで救われるかじゃないですよね? さて、原始時代に遡れば人間は自給自足をしていたはずです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%B5%A6%E8%87%AA%E8%B6%B3 又、ご存知と思いますがアメリカにアーミッシュという団体があります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5 自給自足している団体です。 もしも、全人類が出家したら、こうなるのかも知れませんね? 特に問題は感じられません。 近代文明的な道具や設備は専門的な人が必要となると思いますので、修行に専念している出家者が出来ないかも知れませんが、国土全体を人間が食べれる木の実や果物の森のようにすれば、とか、色々な考えが浮かびますが、何分農学素人なので、詳しい樹木の育て方は知りません。 出家者が、在家の人に養ってもらっているのは、在家の人を教える立場にあるからでしょう。 もしも、在家がいなくなれば、都市なんていう物欲や、五欲を満たす近代設備の必要はなくなるので、原始時代に戻ると思います。 質問者様が心配されている問題は起こらないと思います。 こう考えましたがいかがでしょうか?

sono-higurashi
質問者

お礼

質問の趣旨は正確に掴んで下さっていると思います。在家云々は個別の回答から派生した話題であり、今回の質問に必須のものではありません。 アーミッシュの生活は日本の明治時代くらいの生活でしょうか。彼らの世界は彼らが否定するであろう21世紀の文明を謳歌する外界に囲まれていて、ここから一部「良い所取り」をしている形跡を感じます(鉄材や蓄電池など)。外界も彼らと同水準になるとすると、文明の程度は更に遡るように思います。本当は彼らもそれを望んでいるのに外界が邪魔をしているのかもしれませんが……。 ところで、経済のこともさっぱり不案内なのですが自給自足の生産性はかなり低くありませんか。自給自足の人類を地球はどれほど扶養できるのでしょう。アマゾン、アフリカ、北米、豪州、こういった地域の先住民の一人当たりが必要とする土地の面積は如何ほどなのでしょう。根拠はないのですが地球が60億の人口を扶養し得ているのは人類が高度な分業を編み出したからではないでしょうか。そんなこと、ありませんかね。 zatousanさんのお考えに沿うには人口減を声高に叫ばないといけないように思いますが、どんなものでしょう。私には判断がつきません。 それに仏教は現在興隆期にあるのでしょうか、衰退期にあるのでしょうか。興隆期にあるのであればzatousanさん説に沿って進行することが期待できます。しかし、過去の何処かに絶頂期があって現在は衰退期にあるとすると何らかの理由でzatousanさん説には無理があることになりそうです。私にはこれ以上の判断はできませんが、zatousanさんが考えるべきことをきちんと考えた上で発言していることはよく分かりました。こういうところまで考えないと人類の規範たり得るか否か決められないと思います。 有り難うございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.9

#2からの追伸: ところで凡俗の輩が彼岸に渡るには在家のままで可能なのですか。 当然可能ですよ。 かくいう私も出家などしたことないですからね。また法華信者でもないですよ。法華経の中身がわかる程度なんです。 それから彼岸の意味は単にあの世という意味ですね。彼岸に渡るというのはあの世に生まれ変わるという程度のことですね。浄土のように阿弥陀仏にすがるだけでは良くてあの世〔天国〕に生まれ変わることができる程度の悟りという意味ですね。キリスト的な悟りのレベルですね。とはいっても昨今は地獄に行く人のほうが多いですから天国にいけるだけでもすごいもんですね。 ちょうか禅師のおっしゃるように悪を押しとどめ善を実践するだけで彼岸に渡れるということですね。三歳の子供にわかる程度の教えですね。 更に言えば、阿羅漢の悟りというのは少なくとも霊界の知識を治めた者ということですね。阿羅漢が実践行(六波羅蜜)を治めて始めて菩薩の第一段階に入るのですね。遥かなる菩薩行を治めると観自在菩薩の領域にはいります。霊能力をもつ段階ですね。更にその上が如来の領域ですね。更に遥かなる修行を経て如来界最上段に至るのですね。そこに仏陀がおられます。 この程度であれば私にもわかりますからね。(霊界の知識として) つまり、仏になることなど到底不可能ということなのですね。同時に数え切れないほどの各段階の悟りは気根にあわせて誰でも得ることができるということなのですね。それ故、仏教は在家と言わず出家といわず全ての人に悟りを与える教えなのですが、複雑すぎて理解できないでしょうか。哲学としても非常に高度な教えですからお経や外道の解説を読むだけでは言葉にとらわれて本質がみえないですかね。

sono-higurashi
質問者

お礼

補足欄にお願いをした件ですが、8月2日(日)22時まで待ちました。こういう場合、もう少し待つべきなのかもしれませんが、お忙しいものと判断し、勝手ながら締め切らせて頂きます。 お世話になりました。

sono-higurashi
質問者

補足

ご返事、有り難うございます。 お蔭様で「在家のままでも彼岸へ渡れる」とのお説であることが判りました。この結果、仏教は人類の規範たり得るのかもしれないことも判りました。ここまでは解決です。No.2の補足欄では、この見解が「mmkyさんの見解なのか、それとも何らかの権威に裏打ちされた見解なのか」も知りたいものだと、お願いしてあります。No.9のご返事からはこの点がはっきりしません。この点もNo.9に記してあるとすると、この件に関する権威ある存在として考えられるのは、「mmkyさん」と「ちょうか禅師」のお二人と読めます。こう読んでよいですか。この点さえはっきりすればmmkyさんから頂いたご回答に何の疑問も残りません。 よろしくお願いします。急ぎません。 以下、蛇足です。 >>お経や外道の解説を読むだけでは言葉にとらわれて本質がみえないですかね。<< 私は餓鬼でも畜生でも何でもよいので、本質どころか皮相すらも分かる気がしませんし、この場で分かろうなんて思っていません。各回答者が何を根拠に、どういう見解を下さったかが判れば締め切れるのです。根拠が分からないと、将来気が向いたとき、勉強の入り口として活用の仕様がありません。

  • rurubonpp
  • ベストアンサー率26% (128/488)
回答No.8

そもそも第一に教材の選択に間違いがあります。 釈尊のことを学ぼうと思ったら、まず釈尊時直説のお経などを参考にしないといけません。後世に創作されたお経を参考にしても意味がありません。釈尊が説いたものでないものを参考に論ずるものではありません。 直説のものと創作経典とゴッチャにするから矛盾が起きるわけです。スッタ・ニパータは直説とされるものですが、維摩経は創作経典ですね。創作経典はいかに修行した者が書いたものであっても、仏陀である釈尊にはとても及びませんね。人間である以上、必ず誤りがあります。 仏教を勉強する時は、直説と創作とキッチリ分けて勉強することです。 直説とされる経典から申しますと、在家であろうが、出家であろうが、ちゃんと釈尊と同じ境地・悟りが得られることが説かれています。 正しい修行さえすれば、出家・在家は関係なく究極の悟りは得られるわけです。 特に現代はいろいろな面で科学が発達し、便利になり余暇を十分とれる人も大勢います。そういう空いた時間を利用すれば、昔の出家者と同じくらいの修行時間を得ることができます。自分の部屋を持っている人は修行する部屋まで揃っているわけです。 問題は個人個人の信仰心とやる気の問題ですね。 もっと直説といわれている経典の研究をすることをおすすめします。

sono-higurashi
質問者

お礼

>>そもそも第一に教材の選択に間違いがあります。<< そうだっかもしれません。どの時期の仏教でも回答者各位に答え易い時期を選んで頂ける様にという意味でスッタニパータの名と維摩経の名を挙げておきました。幸いにして回答を寄せられるほどの方は、どの時期の仏教かを選んで答えて下さっているようで有り難いことです。 >>直説とされる経典から申しますと、在家であろうが、出家であろうが、ちゃんと釈尊と同じ境地・悟りが得られることが説かれています。<< 分かりました。お説はNo.4と同方向かなと受け取りました。初期仏教の場合、人類の規範になり得そうです。ご返事待ちの段階で確かなことは申せませんが、初期仏教の場合、No.4の補足欄の3が私の最新の気持ちです。 有り難うございました。

noname#118718
noname#118718
回答No.7

>運営スタッフの皆さんへ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >通報があっても、こういう回答は削除しないことを望みます。削除をすれば愚行の形跡が消えてしまい無罪放免になってしまいます。残しておけば、己の愚行を眼にするにつけ反省の材料になる可能性があります。 「無罪放免」「反省」という言葉で飾られていますが、さらし者にしたいということでしょう?「どうしてそう思われますか?」と聞き返すのが仏教徒として社会人としてふさわしいのではないですか? >圧倒的少数の救われる者と圧倒的多数の救われない者の存在を維持しなくてはなりません 在家と出家の人口バランスに、「救われる者」という概念は関係ないですよね。「出家が増えれば在家の負担が増えるのでは?」という質問にすぎないはずでは?そこに「救われる者」という表現を入れることに出家者への不満を感じます。 >救われる者の生活(出家)が救われない者(在家)によって支えられているために釈尊の境地に近づく者が増えれば増えるほど救われない者の負担が増え、よってまた救われる者の生活も破綻に向かいます。 以下の点を考慮すればおかしいと気が付くのではないでしょうか。 (1)出家者は結婚し子孫を増やすことが可能なのに対し、 在家は結婚し子孫を増やすことができない。 (2)出家の生活は在家の喜捨によるものであり、かつ戒律により最低限の生活水準に維持されるから在家の許容できる負担に範囲内に収まる。 ただし、(1)(2)は荘園を持つ寺院や妻帯する僧侶はあてはまらないですね。まあ、仏教発生の時間的に近いパーリ語経典「スッタニパータ」を引用してますので、初期仏教の出家のことを指しているのでしょう。

sono-higurashi
質問者

お礼

1 >>さらし者にしたいということでしょう?<< そんなことはありません。No.3には自信があるのでしょう? 堂々としていればよいではないですか。立派な回答に悶着をつけたとすれば、さらし者は私の方です。それともNo.3には後ろめたい気持ちでもあるのですか。 2 >>「どうしてそう思われますか?」と聞き返すのが仏教徒として社会人としてふさわしいのではないですか?<< ・ こんな出来損ないの仏教徒はいないでしょう、先入観が誤っています。 ・ No.3は論旨が単純明快で何の疑問も生じません。No.3に聞き返さなければならない不明瞭な点はありません。聞き返したら失礼だと思います。 何だかNo.3のお礼欄に記した私のコメントが早速効果をあげたような気がして戸惑います。 以下、過去の経緯には一切拘泥しません。私はさっぱり人間です。 3 >>「出家が増えれば在家の負担が増えるのでは?」という質問にすぎないはずでは?そこに「救われる者」という表現を入れることに出家者への不満を感じます。<< 「出家が増えれば在家の負担が増えるのでは?」、この文章でもいいですよ。同じことです。仏教用語には不案内ですが、出家者は「悟りの境地にあり、解脱をしていて救われる人」なのでしょ?在家は「修行の途にあって、悟りの境地になく救われない人」なのでしょ?だったら「出家」を「救われる者」と表現して何故いけないのですか?。不満どころか実によく仏教の理念に適った表現だと思います。仏教用語を正しく理解して用いているか否かには少し心配しています。用語の使用に誤りがあって指摘があれば表現を変える可能性はあります。不満を感じとるのはniki00001さんの自由です。他人様の読解力と判断力には干渉できません。 4 >>仏教発生の時間的に近いパーリ語経典「スッタニパータ」を引用してますので、初期仏教の出家のことを指しているのでしょう。<< 初期仏教に限定していません。どの時期の仏教でも回答者各位に答え易い時期を選んで頂ける様にという意味でスッタニパータの名と維摩経の名を挙げておきました。どうやら、niki00001さんは初期仏教を前提に選んだと見受けます。 ご返事待ちで確かなことは言えませんが、初期仏教の場合はNo.4によいご回答があって、ほぼ解決しているのだと思います。No.4の補足欄の3が私の最新の気持ちです。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.6

宗教には疎いですが、 毎日人が生まれ、毎日人が死んでいます。 だから、全ての人が一色(釈尊の境地)に染まることはないですよ。 学校と同じでいくら時間がたっても学校中の人間が教師になることはないです。 この世界はそういうルールだと思いますよ。

sono-higurashi
質問者

お礼

人類の規範たり得るか否かが主旨ですから、最終目的である理想が実現した状態で考えます。仏教は「悟り」への奨めでしょうから(幼少時の学齢期を除いて)全ての人が解脱をした状態を理想としているのだと思います。問題は、この状態で社会が機能するか否かに絞られます。万が一、どうせ限られた割合しか悟れやしないのだからとの発想が含まれていれば人類の規範にはなり得ないと思います。 shift-2007さんの見解は判りました。shift-2007さんの見解では私の疑問は残ったままです。 有り難うございました。

回答No.5

 1です。  ブッダのいう真理は人間を含む生物を輪廻する魂を解脱させるということにつきます。よって、彼は人間界の規範などということを考えて悟りを説いてはいません。みなが悟れば、人間社会はなくなります。  仏教が大乗などといって、宗教に堕落してから大衆の救済などというごまかしが派生したのであって、その時点から内部矛盾が発生しました。  こういう話があります。ブッダの入滅(死)にさいして、その1番弟子のアーナンダは悲しみに涙しました。彼は、そのときまだ悟りを開いていなかったからです。 すなわち、悟りを開くとは人でなくなるということなのです。

sono-higurashi
質問者

お礼

補足欄にお願いをした件ですが、8月2日(日)22時まで待ちました。こういう場合、もう少し待つべきなのかもしれませんが、お忙しいものと判断し、勝手ながら締め切らせて頂きます。 お世話になりました。

sono-higurashi
質問者

補足

再度のお答え有り難うございます。問い合わせが1件あります。 >>みなが悟れば、人間社会はなくなります。<< これの意味がよく判りませんが、質問文の3に該当するか、それに近いですか。こういう結論(質問文の3)になると判断する方が相当数居てよい筈だと思います。 返信は急ぎません。よろしくお願いします。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.4

パーリ語の経典を学んでます。 サンガ(比丘・在家の仏教徒)は皆、出家(不還果以上)を目指す方々、もしくは今よりも善にいたるために暮らす方々、と認識しています。 預流果 一来果 不還果 阿羅漢果 在家サンガでも比丘サンガでも皆、悟ることが出来るといわれていると思います。 そして最終的に目指すのは阿羅漢で、その点ではお釈迦様と同じ境地でしょう。他の能力・徳も同じものを目指すものではないと考えてます。 そちらは阿羅漢の道今現在がないと考える方などの行なわんとする「菩薩行」というものに当たるのではないかと憶測します。こちらも最終的には阿羅漢を目指すのだと思ってます。 在家も比丘も向上が可能と説かれてます。 比丘至上主義でも無いでしょう。 ほとんど無い話でしょうが、ほとんどが阿羅漢の境地にり阿羅漢になっていない比丘の修行の妨げになっていると感じたなら、ご自分の判断で涅槃に入られるのではないでしょうか。そして悟りの境地に達していない方々、預流果一来果などの境地の方々が在家に戻られることも在るかもしれませんね。(比丘の必要最低限は一日一食少量ですから、相当の割合での阿羅漢の人口割合ですね。) 何せよ結構柔軟に事を済ませると思いますよ。 ちなみに布施は自分の意志においてなすものです。誰に強要されるものでもないと考えてます。強要されればともすれば悪業を積み、施行でなくなってしまいますからね。 参考になれば幸いです。

sono-higurashi
質問者

お礼

この補足欄を読む方へ No.17にご返事があります。No.4とNo.17がセットです。

sono-higurashi
質問者

補足

ご回答、有り難うございます。どうも、基本用語が分かりません。問い合わせが3件あります。 1 パーリ語の経典とは何ですか。原始仏教ですか、部派仏教ですか。と、訊くよりは学んでおられる経典名を挙げて頂くほうが通じがよさそうです。 2 >>サンガ(比丘・在家の仏教徒)は皆、出家(不還果以上)を目指す方々、もしくは今よりも善にいたるために暮らす方々、と認識しています。<< 比丘サンガとは既に出家していないのですか。比丘サンガが出家を目指すという理屈が分かりません。 3 >>在家サンガでも比丘サンガでも皆、悟ることが出来るといわれていると思います。<< これならばパーリ語の経典に基づく仏教は人類の規範になり得るかもしれません。在家サンガと比丘サンガが共倒れになることはありませんから。この説の権威ある根拠を挙げられますか。 4 布施が強制でなく自ら進んでなすべきもの(功徳?供養?)であるのは分かります。それにしたところで在家サンガと比丘サンガの均衡が崩れれば機能しなくなります。しかし、この欠点は3が事実であれば露呈することはない筈です。在家のまま悟れるのですから。3が事実であれば心配無用です。 以上、1、2、3へのご返信を希望します。急ぎはしません。 よろしくお願いします。

noname#118718
noname#118718
回答No.3

出家者への不満で眼が眩んでいるのではないでしょうか。 落ち着いて考えれば、ご自身のモデルのおかしさに気が付くと思います。

sono-higurashi
質問者

お礼

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

2 (*)が誤っているからでしょうね。 >>仏教の目的は、「成仏」、つまり、お釈迦様と同じ境地、境涯に至るというです。 「成仏」の一言では明白な間違いですね。 まずは彼岸にでしょうね。彼岸からどの程度の悟りを目指すかといえば菩薩が目標ですね。だから四弘請願があるのですね。富士山の頂上のような悟りにいたることは到底無理ですから、現実的には彼岸や菩薩を目指すのが正しいところですね。 「成仏」などという平坦な言葉を持ち出したのは最澄ですね。 空海も即身成仏などといってましたが、いろんな段階『十住心論』があるということは明確にしてますね。最澄の「成仏」論は空海や奈良仏教にも否定されたはずなんですが、何故かいまだにだめだといわれたものを信じている人がいる不思議ですね。 お釈迦様の境地、境涯というのは、お釈迦様と同じ境地、境涯になった者だけが解ると言われています。<<・・・・・(*) 正しいように聞こえますが釈尊以後同じ境地、境涯になった者などいないですからね。そんなことを釈尊がすすめるわけないでしょう。法華経の内容がすらすらと手に取るようにわかれば、少なくとも釈尊が何者かぐらいがわかるということでしょうね。 それさえもわからないんですから、何をやいわんでしょう。 まあ、衆生を彼岸に渡すよう日々努力しなさいということですね。

sono-higurashi
質問者

補足

ご回答、有り難うございます。問い合わせが1件あります。 法華経を重視する立場からのご回答でしょうか。 (*)の源が最澄にあることと、これを否定する説があることは分かりました。彼岸から菩薩を目標とするのが精々と言うお説のようですが、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E5%B2%B8 によると「彼岸(ひがん)とは、煩悩を脱した悟りの境地のこと」とあり、大変な境地です。この先に、 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9 ) 52階位もある菩薩があって、まだ「成仏」ではないのですね。 凡俗からすると彼岸に至るも、菩薩も成仏も不可能といえば不可能、疾うに悟ってしまったといえば悟ってしまっているようなもので、どれも違いがあるとは思えません。これは我が身に引き寄せ過ぎた感想みたいで口が滑りました。 ところで凡俗の輩が彼岸に渡るには在家のままで可能なのですか。可能であれば仏教は(というべきか、法華経はというべきか?)人類の規範たり得るのかもしれません。在家のままでは不可能だというのであれば(*)をmmkyさんの納得が得られるように置き換えたところで、所詮仏教は人類の規範たり得ないことになるのだと思います。 今回の質問の主旨は仏教が人類の規範たり得るか否かにあるので、彼岸に渡るには在家のままで可能なのか否かは、とても重要です。mmkyさんの見解なのか、それとも何らかの権威に裏打ちされた見解なのかも併せて、お答えいただきたく思います。急ぎません。 よろしくお願いします。

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    まだ将来のことではありますが、 幼少時から仏教と浅からぬ縁があり、 僧侶となり社会活動をしてみたいという意志があります。 まだ漠然として入るのですが、 大学時代も仏教関連の研鑽や講義を受けており、 恩師に浄土真宗の住職の方もいるという状況です。 寺持ちでもない一般在家の人間が出家し、 研鑽を積むこと、また家庭をもち生活を営むことは可能かなど、 教えていただければ幸いです。 まだ24歳と若輩のため、 すぐに行動するとはいかないのですが、 教えていただくことにより少しでも自信がもてると、 後々の道標となりますので、 何卒よろしくお願いいたします。

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • 釈迦の無の悟りはこのように解釈するとちょうどいい

    初期の仏教には今も同じ問いかけが成されている。 神を語らないことに、今も続く押し問答が、果てしなく繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 これこそが無の悟りとは何かという問いかけである。 そこで私の述べる一切無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究であり「救ってください」「助けてください」これは無効になり、それもまた無である。 それでは、聖職者は問う者に答えないことで、その無を語ることが、それ自体を答えとする考え方だ。 釈迦に問うた者どもは、むしろそれを恐れている。だからこそいまだに悟りに至らないのだ。 お釈迦さまを始祖とする仏教の迷走はここにあり、禁を破り、仏を神に列した後世の仏教は誤りで、仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。 お釈迦様の信仰をまねることとは、後世の仏教徒にとって、自らの信仰を殺し、それによって自らの精神が死に、しかる後に釈迦の信仰を受け入れる死と転生だ。このように自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。 仏教の初期から現代までこのことに異論をはさんだ者はいない。 それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。 こうして、死を理解してこそ仏陀になるという荒々しい修行は仏教に限らず、釈迦誕生以前から現在も続くインドの伝統である。 生きてこそ人であり、信仰に到達したならば仏陀だ。 旧来のように死にまい進することは、自らを自覚した仏陀の信仰を打ち立てることは全く正反対である。 それは信仰を携えて生きることではなく、お釈迦さまに感化されるあまりに、自らが死に改めて仏陀として転生を体験する考え方だ。 お釈迦様と同じく自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは、お釈迦様の信仰をまねること、すなわち現在の自らが死ぬ無の悟りではなくて、自らの唯一の信仰を切り開くこと、「信仰の道を我が大道としてゆけ」これである。 それは西洋哲学の標榜する自由の概念と同じであろう。 仏教とは常にお釈迦様のお葬式を挙げている。 そして死を繰り返す。 処で日本語とは面白い言語で、私の表した「我が信仰の大道を行け」この言葉を噛んで含めると、「あなたたちそれぞれが自らのみとを我が信仰の大道としなさいよ」こうなるが、「我」という言葉に「みんな」という意味があるのが私の言い回しである。 以上は現在執筆中の「いかに猿は踊るか」こういうタイトルの原稿から抜粋した。 文章の推敲の助けとなる意見を聞かせてくれ。

  • 海外(タイ、インドなど)で僧籍取得

    海外(タイ、インドなど)で僧籍を取得することは可能でしょうか。 仏教に関心があります。今は特定の宗教を信仰する者ではありませんが、仏教的視点や世界観は他の世界宗教に比べると自分に合っているように感じます。遅まきながら、また浅学ながら仏教の勉強を進めたいと考えているところです。 しかし、仏教には多くの宗派があり、どれが最適解なのかは私には判断がつきません。また、日本の仏教界は様々な問題を抱えていると聞いており、真に幼稚なレベルでしょうが私なりに不満や批判を持っております。他方で、釈尊の獲得した悟りの本質に近いものに、夾雑物を排して接してみたいと考えるようになりました。 それも日本仏教界の序列や階層から自由な立場からの接近はできぬものかと。 できることなら、それを通じて宗教的な資格、極言すればある種の「権威」を獲得して、将来的には私なりに活動の域を広げ、識見を深め、それを人々に伝えていければと夢想しております。 決して、その「権威」から金銭的な利益を得ようと希求しているのではありませんが、何らかの肩書き、それも「仏教研究家や仏教評論家」を超えた迫力が伴わないものであれば、人々の耳目を集めるのは難しいと思うのです。 私見ではありますが、仏教では、単なる帰依ではなく、悟りを目指した理知的な態度や行動が求められるでしょう。「念仏」を超えた何かの日常的な実践が求められる筈です。だからと言って、出家信者のような修行はとても一般の在家信者には実行不可能です。また、世間や公権力、現世利益との距離の保ち方など、あれこれと未消化の課題もあるように思います。 そこで、ここからは発想が更に安直になりますが、こんな私ですが、日本の仏教界とは無縁の地点で僧籍や宗教的資格を得ることは可能でしょうか? それが日本では全く効力を有してなくても構いません。 語学については英語が少々といった程度です。何とかなりませんでしょうか(笑)。 出来れば、将来的にはその資格を生かして、世の人々(日本に限らず)に問いかけたいとも考えてますので、「洞窟の中で40年の修行」と言った極端な方法も避けたいと考えています。 どうか宜しくお願いします。

  • 無宗教の人は初期佛教に近く 覚っている?

     無神論という定義は難しいのですが、  (印度や日本の初期の佛教は葬儀等とは無縁であり 生きる道を説いており、教えそのものは無神論の教義に近い)  行き過ぎた合理主義 現実主義の人達の心理は  1 死ねば終わり 唯の廃棄物である(もの ゴミ)  2 葬儀も無意味 墓も唯廃棄物である遺骨が納められている石標等に    手を合わせていても何の得もないし 意味を持たない  3 衰えていくのも死も当たり前、   だから自らでどう人生を切り開いていくかだけが全てである   霊魂は否定しても、遺伝子のつながりはあっても生きている   今が全て、ある程度の目的を得れば好きな様に生きる事が   良い。  というものなのでしょうか?  私の遠縁(母の従弟ですが 年は私に近い)に当たる人は先祖代々の墓を放置  (放置すれば墓も撤収され、墓園内の供養塔に納められる)し、  その前にこれは気の毒だと思い、此方の納骨堂(合同の永代供養)に納めました  が、  彼は「あんた達が好きでするならすれば良い」という感じです。  墓も時代の変化で樹木葬や海への散骨 合同の永代墓等へ納めていく、  先祖代々の立派な墓を造っても、それを存続させるのは困難だと云うのは  解りますが、この様な感じだと気の毒だと思ったのですが、私が古いのでしょう  か?  彼を始め 何もしない事を公言している人は?  宗教云々以前に義理等が絡む親戚や町内 父母の付き合いも嫌う様ですし、  「心の中で思い出せば良い」という様な事を云いますが、  父母をはじめ亡き人の事を語る事も少ない様ですし、  彼は「どうせ年行って生きていたって迷惑なだけ」「衰えていく前に亡く成るのが  良い」「ある程度の年に成れば死ぬのも当たり前」と父母が死んだ時もそう云って  おりました。  それから「死んでいる人間の為に煩わされてはいけない」と云っておりました。  事実 この様な人の多くは そんなものだとある意味覚っているのでしょうか?  狂信的でないにしても その悲しみや想い出があり、その整理を付ける為に  葬儀や墓があるのかなとも思えますが?  逆に 今生きている時を楽しむ 衰えていく 死ぬのは当たり前、これはある意味  覚っているので 必要ないという事になるのでしょうか?  又 釈尊の佛教の教義に遡ると、生老病死の四苦をありのままに見つめて行った先  が覚りで、後世の者が極楽や霊山等を説いたものであり、その思想に一番近いのが 彼を始めとする「無宗教」を公言している人なのでしょうか?  ご回答戴けたらと思います。      

  • 仏教の矛盾

    最近仏教の入門編のような本を読みました そこにはブッダがひらいた悟りの内容は「これあれば、かれあり」、「これ滅すれば、かれ滅す」等の「因縁」、つまり「結果には必ず原因がある」というコトだったと書いてありました しかし結婚や出家には説明できる理由はなく、あるのは「縁」だけだとも書いてありました 「ご縁があったから」で済まされるのであれば他のことも「運命だったから」で済まされてしまいます これは過去からのご縁「袖触れ合うも他生の縁」などのように死後の世界から続くものもこの世に影響しているから、「原因はあるけど説明はしきれないんだよ」と、いうことなのでしょうか? でもそれだとしたら「結果には原因がある」と分かった所でどうせ抗えないのなら、心も軽くならないし意味がないのではないのか?と思ってしまいます 仏教はとても素晴らしい教えで屁理屈を言いたいわけではないのでご理解ください もっと理解を深めたい、との心から出た質問です 宜しくおねがいします