• 締切済み

魂は存在するか!!

いままで何度も議論されてきただろうし いまさらこんなことを伺っても詮無きことですが。 これも感情論抜きでお願いします。 人間から、言葉を抜きます。 論理的思考が難しくなり、ただ感情に流されるままになりそう。 視覚を抜きます 聴覚を抜きます。 触覚を抜きます。 感情を抜きます。 しかし、それでも残っているものがある気がします。 自分は結構そういうオカルトは信じないのですが、 薬なんかで感情とかならある程度変えることも出来る都思います、 それでもそこに、自分はあるっていう何かがあるような気がします。 どうでしょう?

みんなの回答

noname#111369
noname#111369
回答No.11

嗅覚を抜くのを忘れてるかも?。 で、左脳で色々な境界線を付けているとか。 右脳は肌と空気との境界なんて意味が無いらしい。 という事は、肌から10cm 1m 10mと離れて行くと・・・?。 さて、目は何故まぶたを意識して見ないのでしょうね?。 まぶたを意識すると左脳が身体もしくは脳に何か思考するエネルギーがあるのが判るハズですね。 じゃ、そのエネルギーは何?、 魂かも知れませんね。 まっ、右脳を完全に丸め込んでいるのが左脳で今の現実でしょう。 なので、理論整然と成さないモノは左脳から拒否反応が生じるのでしょうね。

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回答No.10

おいらには、熱ぅ~い大和魂があるぜ。 それは言葉じゃねぇぜ。 思考じゃねーし、視覚でもなけりゃ、聴覚触覚でもねぇ。 感情でもねーから魂ってことだろ。 おいらにあるんだから、存在するってことだ。 なにも難しくするこたぁねーよ。

glockp90
質問者

お礼

なるほど、それは思います。 自身から湧き出る熱いパトスは、確かに表現するものではないですね。 その辺、僕も思います。

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noname#100496
noname#100496
回答No.9

魂といっても、人の心の中は、自我と無我のふたつの心が合体して出来ています。だからこの世界は、不調和世界の脳の自我と、調和世界の自然の心の無我が、交わる仮の世界です。だから人の心もこの世界もすべて陰陽の二元です。自我半分無我半分、善半分悪半分、良い事半分悪い事半分、調和半分不調和半分、男半分女半分、繁栄半分滅亡半分などなどです。

glockp90
質問者

お礼

無我、自我。仏教か何かでよく使われますよね。 しかし、それを突然この世界の真理とするのは 理にかなってない気もします。 現に男半分女半分といいつつ、おとこの方が多いのは確実なことだし、良いこと半分悪いこと半分は、等価交換の原則(ハガレン?)みたいな感じで、あまり賛成できませんねぇ・・・

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.8

「魂」という「私」という不変な実体が 六根に生まれる識とかかわりがあるという話でしたら… ない。もしくは、ありえないのではないだろうかと思ってます 「不変な実体(?)」ならばそもそも何とも関われないでしょうし 関われれば変化があるでしょう。。 「無い」といってもおなじことと思います。 ● では何で不変な自分があるきがするのか… 多くの苦しみはこの「きがする」から生まれているのでは… 怒りも・貪りも・・・ どうしたらこの錯覚がなくなるかな… 仏教(パーリ語の仏典)ではこの錯覚の解き方を教えているようです。 かなり分析的な教えですから面白いですよw ブッダ自身の言葉ではないでしょうが、 当時の長老方のまとめた「アビダルマ」も面白いです。 科学的運用法によって成長に必要な部分を語った物が仏教の醍醐味かなと思ってますw 何か考える参考になると思いますよ。 スマナサーラ長老の書籍はオススメです。

glockp90
質問者

お礼

自分も仏教を少し習いましたが^^。 難しいwまぁ、何事も幸福と思えば幸福ってことかなw?

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回答No.7

 こんにちは。  定義のみを記します。  ○ 《たましい》は  A. 感性  B. こころ  C. 霊  これらを表わします。  ○ 《こころ》は 次を表わします。  A. 感性 また 感情・気持ち   B. 世界にあってそれに相い対するときの向きや働きかけとしての意志(志向性)  B1. これを広げれば 身体を基礎とし身体と一般に呼応する精神  B2. この精神としてのこころには 《意志》の行為においてその判断材料を提供する《知解》という行為能力もある。  B3. この知解は 精神の基層としてのようなそしてその秩序作用という能力行為でもある《記憶》からその知恵や知識・情報を得てくる。  C. たましいとしての霊 霊としてのたましい  ○ 霊とは   C1. 身体(≒感性)および精神(記憶・知解・意志という三つの行為能力)を超えた領域を仮りに想定したもの  C2. むろん同時にこの世界を超えたところ。つまり 何が何だか分からないもの。  C3. つまり 経験合理性にもとづく経験思考(一般に科学)によっては分かるか分からないかが分からない領域  C4. 《表象しえぬもの》・《無根拠》・《なぞ》   C5. 果てはけっきょく 《絶対》・《真理》とも呼ばれるに到る。  C6. それに色をつければ 《神》のこと。(自然の現象や人間の心理作用を神格化したような――つまり一般に神話におけるところの――《かみがみ》のことではなく その背後の超自然・超経験の領域を言う)。  C7. ちなみに 従って 人間の――経験領域における――《精神》は 《霊》ではない。  C8. しかもこの超経験の《霊》の意味で たましい・こころ・精神といったことばが使われることがある。区別するのが望ましい。いや特に精神となるとややこしいので区別すべきである。    ですから 霊としてのたましいは そういう想定です。

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noname#194289
noname#194289
回答No.6

心臓の細胞は外からの刺激がなくても周期的に収縮します。神経細胞が作る回路にも外からの入力がなくても活動を行う能力があるかどうかの問題だと思います。コンピュータだって同じことがあると思います。独楽を回しても同じことが言えるのではないでしょうか。

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  • OMTOMC
  • ベストアンサー率38% (18/47)
回答No.5

これに答えは無いでしょう。 ただあえて言うなら、私は魂とは自分らしさだと考えます。 そしてその自分らしさは他人との関わりから生まれ、そして他人の記憶に残るものであり、つまり魂は他人の記憶に残るものだと考えられます。 このため、魂は人という個体が死んだ後も人の記憶の中に存在し続け、さらには忘れられるまで成長を続けるのだと思います。 だから魂という個々が存在するのではなく、人の中にある記憶が間接的に魂という形で存在するのだと思います。 すいません、感情論かもしれないです。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.4

>魂は存在するか!! エヴァです。 新世紀エヴァンゲリオンってご存知でしょうか。 そこではどっちが生き残るかの戦いの世界で、使徒も人間も同じ。 違いは使徒は永遠の命はあるが、精神が無い。 人間は精神があるが、永遠の命が無い。 どちらか一方しか生き残れないというシチュエーション。 で、人間には欠けた部分があるため苦しむのだから、その欠けた部分を補おって至福に居たろうってことで、人類補完計画なるものが実行された。 使徒を倒すのは同じ種類のエヴァしかない。 それで、エヴァの子宮に子供を戻し戦わせるんです。 エヴァが子供を受け入れたら、エヴァと子供はシンクロします。 シンクロ率が高いほど、子供の意志とエヴァの行動が合致します。 しかしシンクロ率が高いほどにエヴァがダメージを受けると、子供もダメージを受けます。 何故子供をエヴァの体内に戻すのか。 一番の目的は本能のままに動くエヴァなので、目的に沿って行動してほしいから。 そのためにはエヴァに合致したエヴァの子供を戻すしかない。 もう一つはエヴァに限界を突破するほどの力を出させる使徒に勝つためだと思います。 実は使徒を取り込むために、使徒に負けるわけにはいかないのですが。 活動限界がきて、エヴァが沈黙したとき、エヴァに乗ったシンジが使徒に殺されそうになったら、エヴァが勝手に再起動して、もりもり使徒を倒しました。 本来のエヴァの姿です。 精神である子供のの意志は関与していない。 で、人間には火事場のバカ力というものがある。 人は普段 持っている力全部を使いません。 しかし、生きるか死ぬかの時には、リミッターを解除し、最大の力を発揮します。 まるでわが子を守るエヴァのように、窮地に陥った場合、覚醒して脱出させます。 魂というより本来の姿。 これが本望とも呼ばれている部分。 だけど、本望のまま行動するといろいろ支障がでるので、普段はエヴァのように拘束具 つまり リミッターをかけて我々は生活しています。 心理学では、本来の欲望の部分をエゴと言ったと思います。 エゴは別に悪いもなにもないんです。 自然なふるまいですから。 ところが他者と一緒に暮らすとなると、そうはいかない。 それで「自分だけじゃなく、他に人にもおやつを分けて仲良く暮らしましょう」って模範教師の超自我がささやくんです。 で、超自我の説得に応じて全部食べたいけど、半分にケーキを割って友達にもわけてあげる。 損をして他人に分け与えることで、共同生活がスムーズに行くので、超自我の言うことを聞いておりこうさんなふるまいをするわけです。 だけど、あまりにも超自我の言うことを聞いて、自分の本望を抑圧しすぎると、ストレスがたまるわけです。 結局 模範的ないい人を演じつづけた結果、魂 つまり エゴが叫び出すわけです。 魂が叫び出すまで自分の本来の姿をいつわると、日常生活に支障をきたすまでになるので、「ごめん これ大好きだから、全部食べちゃうね。」とか言って、本当に食べたいものは、他人に分け与えない、が、超欲しいものじゃない場合は、「どぞ」ってケースバイケースな対応をする。 たとえ「あれ この人 いい人だったわけじゃないんだ」って思われようと、ストレスがたまって爆発して「おやつの時を狙ってくるんじゃねーよ」と喧嘩して仲たがいをするよりマシ。 で、本来の欲望がエゴで、模範教師が超自我で、両方の意見を聞いて自分が納得できるバランスのよい自我を形成していくのが理想。 これがうまくできないと、「エゴイスト」とか「人が良すぎて親しみを感じない」とか言われて、どっちも生きるのに困難さを伴う。 >薬なんかで感情とかならある程度変えることも出来る都思います、 グレースアナトミーってドラマでこういう場面があった。 子煩悩の父親が病気になった。 子供が大好きで子沢山で、入院した父親のベッドのまわりで子供達がうるさく騒いでいる。 「ほらお父さんは病気だから静かにしてあげましょう」って言うが、当のお父さんは「いいんですよ 私子供が大好きだから」と騒がれることに苦痛は無いと言う。 ところがお父さんの脳に障害があったために、人格が変った。 「うるせーな ガキどもが!」 さて、どっちが本来のこの人なのでしょう。 わかりません。 本人もわからないでしょう。 脳に障害が起こったために、普通の反応をすることになったこの人。 じゃあ 障害が無かったときが、この人の本来の姿か? 我慢強かったし、子供好きなお父さんでいろと超自我が本来の彼のエゴを抑圧していたのかもしれない。 障害で超自我を司る部分が機能しなくなり、本来の姿が現れたのかもしれない。 しかし、手術して機能するようにしたら、子煩悩なふるまいをする人に戻った。 戻ったのか、本来の姿から偽りの姿に戻ったのかはわかりません。 どっちがエゴかというより、脳の構造で人格が決定するように思います。 薬で人格が変るか? 人格が変る薬の存在は知りません。 海外では多動の子供の薬を飲ませ、興奮をしずめて、騒ぎすぎるのを抑えて他人に迷惑をかけないようにするってことをするそうです。 一応障害で沈静がうまく機能しないとして、薬で障害を補うって形だと思います。 しかし、本来 つまり 薬を飲んでいなければ、時と場合に関係なく、騒ぐわけで、これがもし森の中で暮らす人々の集団に生まれていたら、元気のいいお子さんで済んだわけです。 都会だと他人に迷惑をかけないように、集団の中ではおとなしくしているってマナーみたいなものを作ることで他人を配慮した生活を行おうとするので、興奮を抑制しない子供は処置されたりするわけです。 森の住む集団は全員が身内なので他人じゃない。 都会のような他人に対するエチケットなどのルールは無い。 (身内内の上下関係というルールはありますが) というわけで、結局 自分のエゴってものはわからないものです。 どこからが超自我の言うことを聞いた自我なのか、どこまでが本来の自分の姿なのか、わかる人っているのでしょうか。 結局 自分もわからないわけで、自分探しとかやる人もいるが、心地よいってのが、自分の居場所だって思えばいいんじゃないか と。 それがエゴであろうと超自我の説得の応じたふるまいであっても、心地よい場所が自分にとって一番の居場所だと思います。

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回答No.3

あなたの言われる魂とは?。 (1)日常なにげなく使っている言葉の”心”のようなもの?。  人間の使うような言葉を持たない動物でも、自己を認識している  ”心”はあると思います。また”心”は肉体に付随します。 (2)肉体が消滅した後も残ると言われる”霊魂”のようなもの?。  これは”神”の存在を信じるかという問いと同列でしょう。  ”霊魂”にしろ”神”にしろその存在が論理的に証明されている  とは思えません。従って存在しないと言いたいけれど、不存在も  証明できないから、私も現今の日本人や西欧人の恐らく多数派  である不可知論派です。   

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回答No.2

まるで「現象学的還元」を地でいっているような思考操作ですね。 すべてを懐疑する途上で「わたしはある」、懐疑するその「私の懐疑は存在する」と推理したのはデカルトですが、質問者さまの文脈に合わせると、「すべてを抜いて(還元して)」も「その操作をするということ事態は抜けない」(「私の存在は懐疑できない」に相当する)。 たとえば究極的に「~できない」が残るとういうのは分かりますが、そのことと「魂の存在を推理する」こととは論理的につながっていません。 「できない」というこの否定辞のほうこそ、魂の存在より不思議な人にとっては、「できない」とはいったい何なのよ、あるの、ないの、と瞬時も気の休まることはないでしょう。これがそのひとにとっての「魂である」といえばいえるのではないでしょうか。 さてこの「できない」を根拠にした、「わたしは自分の死を死ねない」というのは通俗哲学説だという私の考えをちょっと述べてお開きにします(これがパラドックスとしてまかり通っているのがおかしいと思う)(この文の構造自体もちょっとヘンですが)。 「私は私の死を死ねる」のは、この「できない」に囚われすぎた見解ではないでしょうか。むしろこの「できない」のなかに住むように努めるべきで、そうすると、しばらく練習すると、「死」のなかに「住む」ことはできるようになります。もちろん「悟り」でもなんでみありません、つねられれば「痛い」わけですが、それと「死そのものになる」ことは矛盾しません。 そういうときそんな「死」(「無」といったってたいて代わり映えしませんが)を「魂」というのも自由ですが、ただからっぽなだけですから、「魂」とはもう少し「現世的な?」次元の話になるのかもしれません。魂は「1+1=2」というような形をとるものかもしれません。 以上はただここ数年の本音をぶちまけてみただけです。

glockp90
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど、練習の積み重ねによって 小さなできないから「大きなできない」まで苦しみも無く移動できるというわけですね。 あの世とこの世が繋がったような感じですかねw? あとここからは個人的な話ですが 自分全ての方に回答をつけるのは文章を理解したりするのに ものすごく時間がかかってなかなか難しいです。 回答つかなくても理由があるので許してください。

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