• 締切済み

ベジタリアンを批判する。

ベジタリアンという生き方を批判する考えで、説得的・論理的なものに出会ったことがありません。 そこで、説得的な批判があれば教えていただきたいです。 価値の押し付けをするから、暴力的だから、というイメージによる批判はお避けください。 以下の批判は説得的でないと思われます。 ・「植物も動物も同じ命であり、平等に同じように食べるべき」との考えについては、同じ命であるからといって、その価値が同じであるとは必ずしもいえないと思います。花を折るのと動物を踏みつけるのは同じでしょうか。 また、動物を生産する過程でその数倍の植物を消費するため、動物を食べたからといって、植物の命を大事にしたことにはなりません。 ・「動物の命を大事にすべきというのは感情的だ」との意見については、命の価値を論じるにあたって、主観を排除することは不可能であって、感情論であることは批判にならないと思います。命は大事であるという前提そのものが、感情論にすぎないからといって、否定されるべきとはいえないのと同じことです。 ・「肉を食べることは原罪であり、その罪から目を背けることは偽善であり傲慢だ」との意見については、誤解によるものではないでしょうか。ベジタリアン自身も生きていくうえで他者の命を奪っているという矛盾を抱えて苦痛を感じています。殺したくない者がなるべく殺さないようにすることのどこに偽善や傲慢があるのでしょうか。

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  • hakobulu
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回答No.23

#21です。 >すべての行いは「自分のため」にやっていることを中心に据えて、その付随的効果として「相手のため」にもなっていればよい、との捉え方がよいのでしょうか。 :「>方がよい」というよりそれが事実に基づいた姿勢になるでしょう。 「自分のため」とは決して我侭という意味ではなく(ある程度その要素も無論含まれますが)、主体的に世界と関わるというニュアンスです。 人間はもともと(生命力でもある)本能の壊れた動物なので、この主体性に関しても蔑ろにしがちな部分を持っています。 主体的でないということは依存的ということで、相手に依存的すぎるのが我侭です。 ある意味では我侭もひとつの力なので、それで他者より優位に立っているように錯覚される人もいることでしょう。 >ベジタリアンの思想に一般の人が無理解なのは、動物の利用についての現状の無知・無関心によるところが多いと思います。 :これは関連性が薄いのではありませんか? 動物にしろ植物にしろ、生命を利用しないで(犠牲にしないで)生きていくことはできないわけです。 それは、命を弄ばない、可能な限り尊ぶという倫理の問題であって、肉を食わなければそれが解決できるというものではない以上、仮に動物の利用について共通の理解を持ったとしても、それがベジタリアンの理解につながるとは思えません。 >「お坊さんが一番好きな焼肉の種類はカルビ」という検証結果があったことを思い出しました。 :そうなんですか。 私はミノが好きですが、そう言えばもう何年も食ってないな・・・。 食べたくなったら肉も食べる準ベジタリアンなんていう身分は無いのでしょうかね。 無理しすぎるとイライラしたり、反動で肉ばかり食べすぎてしまう人もいそうな気がして心配です。 肉中心は体に良くないことは確からしいですからね。 でも全くゼロというのはどうなんでしょうね。 まあ、好き好きですからいいですけども。  

gabuncio
質問者

お礼

>「自分のため」とは 数回にわたり、丁寧に詳しく説明してくださりありがとうございました。 >無知・無関心 「ブタのいた教室」で生徒達が泣いてブタとの別れを悲しんだのは何故でしょうか。初めて鶏のと畜を経験する人が泣きながら屠ることがあるのは何故でしょうか。これらの人も、それまで日常肉を食べていたにもかかわらずです。  動物の飼育・と畜を経験することや、その映像を見ることによって、肉を食べるとしても、その飼育方法や生産量に問題はないのか考える契機があると思います。仮に問題点(過剰供給・飼育方法等)があるとして、解決方法はいろいろだと思います。 「他にもっと環境にいい生産方法はないの?」と生産者に訴える方法や「草を食べて牧場で育った牛肉を買う」という方法もあるでしょう。「食品ロスを減らすために、ロスに課税する立法をすべきだ」との考えもあるでしょう。 そういったたくさんの改善策のひとつに個人が食べる肉の量を減らすという手段もありうるという結論に至るのではないでしょうか。 一例として、牛乳の生産方法に問題があると考えている人は少ないのではないでしょうか。それも、事実を知らないことが原因ではないかと思います。 (参考:「家畜の悲鳴を聞いてください」 http://www.alive-net.net/animalfactory/fact/work/work1.html 著者の主観も交えていますが、客観的事実だけでも参考になります)  >準ベジタリアン もちろんあります。また、妊婦や子どもなど、栄養的に肉を必要とする世代もあるようですから、完全に肉を禁止するべきとは思いません。 肉を、今食べている量の半分にするとか、たまのご馳走にするとか、やり方は色々あります。 その背景には詳しくないのですが、マクロビや、”ゆるベジ”といった菜食料理も現在小さなブームとなっているようです。

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noname#91067
noname#91067
回答No.22

ベジタリアンを論理的に批判するとなると、先手を打つ意味で相手の立場と入れ替わってのディペードがありますね。 キーワードにするもの ・ボランティア精神、博愛精神の主体性によるもの ・環境・自然保護目的 ・健康と美容目的 ・倫理観 ・自己主張説…等をあげます。 その辺を絡めて(私はいつも適当なんですが) >>「立派な独立精神を備えた強い遺伝子は逆に増やせません」 >という文の意味がわかりにくかったです。 博愛主義というと身内や恋人に優しく、かつ万人にも優しい人となりますが、人間ごときの優しさには限界があります。いくら願っていても現実には行動で示せないことは口先だけで現実逃避の性向があるということになります。活動が目立つところに向けられるとか、救済のみに重きを置いて本当の解決「恵まれない人や可愛そうな生き物を生み出さない世界を築く」という問題は大きい問題で、精神性より権力、財力、手腕が必要となってしまう。幾人か人道を説く博愛主義的な人と知り合ってきたのですが、身内や知り合いの発展と保身を願う一般的な基準と反対に身内に優しくなれないことが多いようです。正義を行うにしても厄が回らないよう危惧しますから親孝行も結婚もしてないことが多く、独立精神=博愛精神かもしれません。なので博愛主義となると悲しい一代限りです。 >人間はすべての生き物の頂点にあるから、どのような動植物を捕食してもよいとの結論でしょうか。 動物愛護団体とか自然保護目的で追い出される土着民の生活は?とかペットを養うのに月数十万かけられているケースがあれば、月一万円の食費で一人暮らしのお年寄りもいます。人間にも優劣判断があり人間の格差に疑問を持ってます。エスキモーの人にベジタリアンは無意味となるように食材も職業も適材適所となるのがいいのですけど。 ・健康と美容目的 ・倫理観 ・自己主張説 は時間を頂けるなら、というか説明する気が起きるまで待てるならするかもしれない…。

gabuncio
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 >人道を説く博愛主義的な人 私の知り合いのベジタリアンはみな、理性的で、家族や恋人、友人を大事にしていますよ。人それぞれですね。 >食材も職業も適材適所となるのがいいのですけど 現在の日本の食糧供給システムに矛盾や問題点があるとお考えでしょうか、ないとお考えでしょうか。 わたし自身は、とくに肉、牛乳、卵の供給システムには大きな問題があると思います。捨てることを前提に大量に生産しすぎていること、それぞれの動物の自然の本能にほとんど配慮しない過度に合理的な育て方をしていること、環境負荷がかかりすぎていることなどの問題です。また、飼料は海外から大量に輸入して、自給率を減らす一因ともなっています。 もしお時間があれば、補足をいただければたいへんあり難いです。

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  • hakobulu
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回答No.21

#20です。 >倫理感の実践における「ストイックな精神作用」は「倫理感云々とはまた別の要素」なのでしょうか?この点がわかりにくかったです。 :ストイックは禁欲的という意味で使用しましたが、倫理は本能の抑圧が絡むので必然的に禁欲的と言えるかもしれません。 しかし、一人の人間の中で過剰な抑圧作用が進行する場合もしばしばあります。 この場合、(本能を)抑圧することが当初の目的であるわけですが、結果として倫理感が醸成されたかのような感覚が得られます。 「>自己の利益よりも他者の利益を優先する」のが、 「>倫理を実践する」ためではない場合もある、ということです。 >「自己のため」ではなく「将来の人間のため」であるのなら、 :これは突き詰めると、将来の人間のために自己を犠牲にすることができる、という意味になりませんか? 人間は、「自己のためにならない」と感じたら決して行動しない生き物です。 ただ、何が自分のためなのか、というそれぞれの価値観の問題はあるということでしょう。 ですから、 >ベジタリアニズムにおいて、行動者の「単なるエゴ」に過ぎない点があれば教えていただきたいです。 :ベジタリアニズムがどうということではなく人間全般について、そういうことが言えるのではないか、と思うだけです。 >「より倫理的」という表現に問題があるのなら、「よりストイック」と言い換えてもいいと思います。 :大体私の考え方はご理解いただけたのではないか、と思いますが、 なぜ「ストイック」になるのか、というその動機というかモチベーションの持ち方に留意をすることも必要ではないか、と考えます。 >>下位に見ている そう思われるのが一番つらいです。 :失礼しました、と慇懃無礼に述べて話を変えても良いのですが、そういった偽善的姿勢を発揮する雰囲気ではないので、あえて申し上げます。 倫理とは趣味の一種である。 と私は思います。 ベジタリアニズムに関しても、そう思っていなければ下位に見ているのとたぶん同じことになるでしょうし、また言葉にしなくとも相手はそれを感じることになるでしょう。 余談ですが、 一種の宗教的感覚も混在しているのかもしれませんね。     

gabuncio
質問者

お礼

何度もお付き合いくださり、心より御礼申し上げます。 >過剰な抑圧作用が進行 補足をいただき、理解することができました。 「自分の精神の修行」という目的のために、「倫理的とされる行動」をとっている人もいるということですね。最初は倫理感から行動しても、次第に目的と手段が逆転することもあるでしょう。  お坊さんの中にも、精進料理を食べる期間が終わったら意気揚々と焼肉を食べに行く人もいるようです。トリビアという番組で「お坊さんが一番好きな焼肉の種類はカルビ」という検証結果があったことを思い出しました。 >人間は、「自己のためにならない」と感じたら決して行動しない生き物です 「情けは人のためならず」という格言が表しているように、すべての行いは「自分のため」にやっていることを中心に据えて、その付随的効果として「相手のため」にもなっていればよい、との捉え方がよいのでしょうか。 >趣味の一種 そうですね。一生続けられるエキサイティングな趣味であろうと思います。 >宗教 超自然的な存在を確信するという意味での宗教観を、わたし自身は持っていません。ベジタリアンの知り合い(ヨーロッパ人)にも無神論者が多いです。 この点は人それぞれだろうと思います。 もう一つ、ベジタリアンの思想に一般の人が無理解なのは、動物の利用についての現状の無知・無関心によるところが多いと思います。 情報を共有したうえでの議論であれば、「考え方が違うんだね」と相互に分かり合えると思うのですが、情報を共有していないことが無理解を助長しているように思うのです。 学校教育やマスメディアなどでも、もう少し現状について客観的な情報を教育、報道するべきではないかと考えています。

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.20

#15です。 私にとってのベジタリアンの印象は高貴でしょうかね。 ただ、天皇さんなんかも高貴だとは思いますが、同じ生活をするのが妥当かと言えばそれはまた別問題であるのと同様、いくぶんなりの無理は感じます。 基本的にはストイックな精神作用が推測されます。 それが悪いと言っているわけではなく、倫理感云々とはまた別の要素があるはずですから、そこにもきちんと目を向けないと本質的な問題を取りこぼす懸念がある、ということです。 >ただ、田舎で暮らすことを選択した人の方が都会の人と比べて(あくまで環境保全の面について)「より倫理的である」といえるのではないでしょうか。 :おっしゃりたいことはわかります。 ただ、倫理とは何でしょうか。 あくまで人間の幸福につながることを前提にしたものではないでしょうか。 自然の為すがままに任せるのが倫理ということではないように思います。 「環境に良い生活」といっても、そのほうが人間を利する結果につながるというエゴが根底にはあるわけですしね。 > 行動レベルに差があるからといって、どちらかが「上辺だけの善」となるとはいえないように思います。 :むろん、そういう理由でそういうことを言う人がいれば、それはおかしいですね。 しかし、おそらく、行動レベルに差がある云々、ということが偽善と呼ぶ理由ではないのでしょう。 端的に言うと、善ではないものを善と信じているので偽善、ということではないかな、という気がしますね。 なるべく殺さないのは確かに倫理的ですし善と言えるでしょう。 しかし、それは(程度の差こそあれ)誰もが持っている共通の認識ではありませんか? 殺すことに快感を覚えるような一部の人は別にしてですが。 後は、どの程度殺さないで生きていくか、という個人の言ってみれば趣味の問題でしょう。 あるいは、どこまで注意を払って生きていけるか、ということに対する感覚の違いです。 つまり、あくまで相対的なものであって、絶対的な倫理というものは果たして存在するでしょうか。 おそらくしないでしょう。 であれば、先にも触れたことですが、 >田舎で暮らすことを選択した人の方が都会の人と比べて(あくまで環境保全の面について)「より倫理的である」 :というご見解自体に幾分無理があるのではないでしょうか。 また、「環境保全の面について倫理的」というのは具体的にどういう意味でおっしゃっているのでしょうか。 結局人間のためということですよね。 環境を守ることが人間にとっての益である、という価値観にすぎないわけです。 そういった思い違いによって単なるエゴにすぎないものを善であると認識しているのだとすれば、偽善という判断はそこに対して放たれたものではないのでしょうか。 >自分の価値観と違う行動をとっている人を非難したりするべきではないと思います。 :火の粉が降りかからない限り全くおっしゃるとおりですが、非ベジタリアンを下位に見る視点が gabuncio さんにはありませんか? それも非難の一種ですよね? 下位に見たりなどしていない、とおっしゃるのであれば、 いわゆる少数派というだけの理由によって異質視し、(主に怖れから)他者を排斥しようとする自我脆弱な人間はどこにでもいるわけですから、そういった人間の言うことをいちいち真に受けて思い煩う必要はないのではないでしょうか。 ポリシーとしてベジタリアンを標榜するのであれば、おそらくもっと堂々と受け流せるように思われます。 その意味で、ベジタリアンとなる決意をした裏には、何らかの多少無理があったのではないか、という推測に至らざるを得ません。 それは良いとして、私はベジタリアン的生き様は感覚的に好きですし、批難や批判をしようとする意図は全くありません。 しかし、不合理な思い込みによる他者との軋轢によって、無駄なエネルギーを消耗してほしくはないため、疑問に感じる点を述べてみた次第です。   

gabuncio
質問者

お礼

何度も回答していただき、本当に感謝しています。 倫理感の実践における「ストイックな精神作用」は「倫理感云々とはまた別の要素」なのでしょうか?この点がわかりにくかったです。倫理を実践するうえで、自己の利益よりも他者の利益を優先する場面があることはあると思いますが、その要素が「倫理的」であることになんらかの影響があるのでしょうか。 >思い違いによって単なるエゴにすぎないものを善であると認識 環境については、人間中心主義の面から来ているというご指摘はその通りです。ただ、環境保全については人間の利益であると同時に「他の生命の利益」となる面もあると思います。有害物質による生態系の破壊を阻止するのはその一例です。 また、「人間のため」とはいえ、「自己のため」ではなく「将来の人間のため」であるのなら、他者の利益に配慮しようとする行動を倫理といって、何ら問題ないように思います。倫理はもともと人間の間の行為規範ですから。 結局環境保全が「単なるエゴ」とはいえないように思います。 ベジタリアニズムにおいて、行動者の「単なるエゴ」に過ぎない点があれば教えていただきたいです。 >絶対的な倫理 倫理においては、絶対善が存在しないということには同意します。 しかし、倫理的な感情を持ち、行動にうつしている人こそ「善」であり、その行動レベルに差があっても、あれも「善」これも「善」と言えると思います。 「より倫理的」という表現に問題があるのなら、「よりストイック」と言い換えてもいいと思います。 >下位に見ている そう思われるのが一番つらいです。 ベジタリアンをカミングアウトしただけで友人を失うという事例もあるそうです。わたしは、信頼のできる友人に堂々と告げたとき「どうする?他の友達には黙っていようか?」と言われてびっくりしました。それくらいナーバスな問題なのです。 hakobuluさんのように理解があれば、もっと暮らしやすいのですが。そんなにギスギスしないと非ベジタリアンと付き合えないのが悲しいです。毅然としていればよいのでしょうが、性格上無駄な争いを好まないので、必要以上に躊躇ってしまいます。

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  • BrandonB
  • ベストアンサー率22% (4/18)
回答No.19

再度失礼します。#17です。 ちょっとわかりにくかったかもしれません。 本能だからという意味ではなく、するべきという意味で書きました。 地球に生まれたのだから食物連鎖の一工程に加わる事が、使命でありそうすべきだと思うのです。 つまり肉か野菜のどちらかに偏るのではなく、バランス良く食べる事が地球に貢献する事になるのでは…という意味でした。 家畜に関しては私も質問者様と近い考えを持っています。 私が考えるのは、あまりに行き過ぎた飽食のこの時代だから、家畜などの量産とそれに伴い、それを可愛そうだと思う菜食主義の方が増えるのだと思います。 例えば明治維新以前の民が食べていた平均的な食事と1000年前の民が食べていた平均的な食事を想像してみてください。現代から比べると明治維新以前も1000年前もほとんど変わらない食生活のはずです。 そしていつの時代も、そこにある物を食べ、理由に関係なく残したり好き嫌いはする事は許されませんでした。 つまりそれが本来の人間の食事であり、それ以上でもそれ以下でもなく、それが自然の姿ではないでしょうか。 話は少しそれますが、私は自然保護に一般的な考えとは少し違う考えを持っています。 それは動物愛護と言って絶滅寸前の動物をなんでもかんでも保護するのは自然破壊だと思っている事です。 人間が減らしてしまっている動物に関しては保護対象で良いと思いますが、自然の流れで絶滅する動物を保護するのは自然に手を加えることになり、自然破壊になるのではと思うのです。 つまり自然の流れに添うことが人間に与えられた使命であり、食物連鎖の一環を担うことと、子孫繁栄に勤める事が人間のするべき事であり、それに逆らう事は自然に逆らっているというのと変わらないと思うのです。 最低限この使命を果たす前提で、主義主張がありこの前提の上に個人の価値観やエゴが成り立っているのではないでしょうか。 意思をもって行動する人間だから、自分の考えによって肉食や菜食の道をとりますが、意思をもって行動できる人間だから、自分の意思を抑えて自然の流れに従う事が最善だと思うのです。 これは他の動物には出来ない、人間だけが出来る自然貢献だと思っています。

gabuncio
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 回答者様とは、やはり以下の点で意見の相違があるようです。 ・「食物連鎖の一環を担うこと」が何よりも優先すべき「人間の使命」だという確信がないこと ・そもそも、大量生産、飼料と家畜生産の分離システムは食物連鎖を破壊しており、現在日本で手に入るほとんどの肉は食物連鎖の一環を担うものとなっているとはいえない疑いがあること 上の点については、同じ客観的事実についての認識の違いですから、これ以上論じても平行線ではないかと思われます。 ただ、回答者様のようなご見解もあることを理解しました。今後参考にさせていただきます。大幅な時間を割いて回答してくださり、本当に感謝しています。

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回答No.18

 回答番号:No.8です。人生の半分、40年くらいヴェジタリアンです。  それは心身のために始めた自分の精進にはたいへんいい効果があり、気持ちがいいからです。  多くの方々がご自分夫々(それぞれ)の眼前においたヴェジタリアン像についてご回答をなされておられます。  それはそれでその限りでその通りでありましょう。  ヴェジタリアンのヴェジタリアンとしての思想も、契機や生活態度、そして置かれた状況も様々で有りましょう。  生命尊重ということであっても、その主張の内容やアクセント、そして仕方は一様では有りませんでしょう。全く同じ言葉、ぶんしょうであっても、そのレベルは天地の開きがあります。  そのことの詳細を分析してここに披瀝することは私の職分ではないので、そういうものだというコメントに止めます。  もし人や世界の進化発達のことに関連して生命尊重を語り、それと連動しながら菜食を選択し、陳述するなら、これは正しいし又、不十分です。  およそ人間の試みとは全て“飛ぶ矢”でありまして、飛んでいて高速写真で把捉えれば、とまっている。という両面性があるものです。  いかなる人間存在も生命連鎖や食物連鎖の中の存在であらざるを得ないのは仰せのとおりですから。  而して理念としてのヴェジタリアンとしての究極状態について、縷々陳述すれば、これまた、諸兄姉には荒唐無稽と為りましょう。  どこかで輪廻転生はどうだ、ご質問の中の一定のご論調と似たものが帰ってくるだけでしょう。  そういうことでありますが、一定の思考と意識境存在境となってしまうと、江戸民俗の用語ですが、四足(しそく)、二足(にそく)、無足(むそく)を食することが苦痛になり、健康を害することと為ります。  覿面に心身につらいことを生じてきます。  しかしそうだからといって、食物連鎖の中の存在を一概にやめることはできませんから、植物や穀物、木の実などは頂きます。  これはどう取り繕うと、生命であることには違いは有りません。  水一滴、一吹の呼吸においても、その中の、いえそれ自身の生命を剥奪していることには違い有りません。  オカルト的とか荒唐無稽とか言われても仕方ないが、そういう宿命的存在を超えることを目指すのが人間であると存じております。  そういういまだ止まる姿を見せながら、途中に飛行する試みの一端を捕らえて、喋摘することは情けないことと存じます。  従って、いかなるヴェジタリアンもそういう、“しがない”旅人途中の身の上だということを、骨身にしみて理解し、自己の生活をそっと、ささやかに、許されながら実践することに心がけるべきでしょう。  間違っても、これが本来でみな従うべきだ、などという態度は慎むべきでしょう。

gabuncio
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 お言葉、ありがたく拝読させていただきました。宮沢賢治の文章を想起させられました。 ところで、この質問をさせていただいたのは、私が「肉をやめた」と言ったとき、友人が「宗教?何かの病気?」という反応を示したことに端を発します。 まるで「異端」扱いだったのです。 また、ネット上も、多くの拒絶反応「押し付け・洗脳だ、聖人ぶるな」といった反応があることがわかります。 幸運なことに、当質問の回答者には、頭ごなしに否定される方がいないようで安心しています。 おっしゃるように、自己の理念に従って、奢ることなく倫理観を実践していきたいと思っています。それが、自己満足にもなり、精神衛生にとっても良いからです。また、それが自分が大切にしたい命を配慮する結果となっていると信じているからです。 こちらから、非ベジタリアンを批判したいとは思いませんし、みなが菜食だけにするべきと指導・説得する気もありません。 ただ、同じように「命を大切」と考える立場にありながら、一方が他方を嘲り、異端視するのは残念だと思っています。どちらも、「旅人途中」であることに変りはないのですから。

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  • BrandonB
  • ベストアンサー率22% (4/18)
回答No.17

失礼します。 私はベジタリアンの方とお話しする機会がありませんでしたので、少し興味がわきました。 もしも場違いな発言だったらすみません。 ちなみに私は、本人が良ければ菜食だろうが肉食だろう別に良いと思っています。 そこで私からの質問ですが、 草木が芽を出すのを 虫が草木の芽を食べるのを 小動物が虫を食べるのを 犬や猫が小動物を食べるのをどう思いますか? 猫は遊ぶ為に動物を殺しますが、それを否定できますか? 犬や狸やカラスや色々な動物が雑食で、肉も野菜も食べますがそれをどう思いますか? これらの生物を生み出したのは地球その物です。 地球は食物連鎖がなければ成り立ちません。 地球に生まれたのですから、全ての動植物や人間に食物連鎖の一工程に加わる必要があり、他の動物と同様に、肉と野菜の両方を食べなくてはいけません。 それを地球が望んでいて、それが地球の生物として生まれた第一の使命です。 倫理でも論理でも理屈でも道徳でもなんでもなく、それが自然の摂理でなんです。 人間が進化する上で、もしも肉を一切食べなかったら、人間になれたでしょうか。 逆に今、人間が肉を食べなくなったら自然の形態が崩れてしまうのではないでしょうか。 菜食主義を認めて欲しい気持ちは充分にわかるつもりですが、「地球を汚してしまうから排泄物を出さない」とか「温暖化を進めてしまうから息をしない」と言っている様な物で、どう見ても滑稽なんです。 つまり差別的な目で見るなと言う方が、無理があるんです。 私もペットをたくさん飼っていますので、可愛そうだから出来るだけ食べないと言うのはわかりますが、それに固執したりそれを主張すると人々から反感を招きますよ。 例えば、好き嫌いについて 「私は○○が嫌いでそれはこんな理由があって、そもそも人間の舌はこんな物をいけ入れる構造にはなっていなくて○×△※…」 と言われても 「へーじゃ食べなければいいじゃん」で終わりです。 ベジタリアンの方は好き嫌いと一緒にするなと思うかもしれませんが、一般人からするとほとんど違いはありません。 むしろ好き嫌いを理論武装している分、めんどくさい人だなと思われるのが関の山です。 野菜しか食べない犬がいたら、どう思うでしょうか。 滑稽ですよね。私ならなんてかわいそうな犬だ…と思ってしまいます。 なんて慈悲深い犬なんだ!なんて賢い犬なんだ!と思う人は少ないですよね。 ですが一番大事なのはどちらの感情も人間のエゴだという事です。 人間が何を言っていようが、その犬がそれで幸せならそれでいいしそれを論ずるなんて馬鹿馬鹿しい事です。

gabuncio
質問者

お礼

関心を持っていただいて嬉しいです。 >動物と本能 動物が本能のままに生きることは、もちろん否定しませんし、それが自然だと思います。 人間も、「自分の行動を意味を理解し、制御する能力」を有しない者が本能のままに生きていても、それを責めたり否定できないのと同じことです。 2歳児が小鳥を握り締めて窒息死させたとしても、誰が罰を与えるべきというでしょうか。 しかし、責任能力を有する人間であれば、「~したい・したくない」という本能だけでなく、「~すべき・すべきでない」という理性的判断をすることができます。人間だけが理性的に行動することができるという意味で、他の動物とは異なる性質を有していると考えます。 >食物連鎖 「どう見ても滑稽なんです」というところで、問題の本質がわかってきたように思います。自然にさからって、不自然なことを主張しているように見えるんですね。  回答者様は、人間の行っている肉の生産が、食物連鎖の一部であり自然なものと考えておられるようですが、この点について私は異なる見解を持っています。 たとえばウシは、草を食べ、草はウシの糞を肥料とし、またウシの蹄に付着して種を運搬します。人間は草を直接食べることはできませんから、草という食料に不適なものをウシという食料に代えて食します。 これが本来の家畜のあり方であったはずです。 ところが、現在では、効率よく太らせるために穀物を主食として、身動きのできない空間で一生を過ごさせます。こうした育て方をしたウシはメタンガスを多く含むゲップをして、温暖化の一因ともなっています。また、糞は草食のときとは異なり、粘度の高い大きなものです。こうした糞は窒素を多く含み、土地に還元できないほど多いため、土壌汚染、河川汚染へと繋がっています。また、飼料は海外から輸入されるもので、大規模な森林破壊によって畑が作られている場合もあります。  こうして、食物連鎖を無視して、合理性・効率性を追求していったのが現在の工業畜産であるように思うのです。  そして、もっと動物に配慮した畜産システムはないのか、もっと捨てられるだけの肉を減らす方法はないのかなどを考え続けることに意味はあると思います。その考えの実践の一部がベジタリアンという行動に現れているのです。

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noname#91067
noname#91067
回答No.16

子供を失った親の哀しみは如何ほどか。 「命の価値」は繁殖能力にも関わってます。 人間はそれこそ種の保存目的以外に性欲が必要以上に備わされています が、性欲には肉体の保存以外にも精神の保存(尊厳・属性・伝統・文化 等)という部分が多種より多いものだと思います。繁殖能力自体は低い し自立の遅い育児は、長期間の親の献身が不可欠でこれもストレスにな りえます。 人間は少ない子孫を群れの中で大切に育てる方策に遺伝子が組まれてい ます。なので子孫は種にとって自己保存(不快なものを排除しようとす る本能)と同列に貴重で、寿命の長さからして自己保存が優れた遺伝子 を獲得できたのも人間ですね。 大切に育てた子供の死は心身共に人間にとって最もストレスとなること でも、捕食されやすいハムスターは繁殖能力旺盛で多産で、哺乳期間を 終えると子供の将来を憂うこともないでしょう。 魚類とか昆虫、植物に至ってはどうでもいい卵(種)を沢山産んで、 その中で僅かでも運良く残れば善いぐらいなものであるかのよう。 人間は食物連鎖上の頂点で、人間社会に育まれた子供が異種に捕食され ることはあまりないものの、人間が人間の敵になる、共食いの可能性は 大いにあるのです。殺人=人間の共食いですが、人間の共食いにはメリ ットより精神的にも社会的にも生理学的にもリスクが多いことが明らか なのだそう。 「命を奪いたくない」が純粋な優しさから出てもいいし、罪悪感から発 することもあるだろうし、執着や依存があるのかもしれないけれど、立 派な独立精神を備えた強い遺伝子は逆に増やせません。いくら捕食して も、少子化を懸念しても寿命が短くとも栄えるのは、強さよりも適応能 力と繁殖力のある種です。

gabuncio
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 申し訳ないのですが、理解能力が不足しており、回答の意図するところがよくわかりませんでした。とくに、「立派な独立精神を備えた強い遺伝子は逆に増やせません」という文の意味がわかりにくかったです。 人間はすべての生き物の頂点にあるから、どのような動植物を捕食してもよいとの結論でしょうか。お手数ですが、補足をいただければありがたいです。

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  • hakobulu
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回答No.15

>殺したくない者がなるべく殺さないようにすることのどこに偽善や傲慢があるのでしょうか。 :(食べたいものを食べ、食べたくないものは食べないという好き嫌いの問題に帰すると思うので)ベジタリアンがなぜ批判されるのか私にはよくわかりませんが、偽善・傲慢という理由の批判があるのであれば、それはなぜか、ということについて少し推測してみました。 「>殺したくない者がなるべく殺さないようにすること」 自体に偽善や傲慢がある、と言っているわけではないように思います。 「偽善・傲慢」という言葉から推測できるのは、たとえば次のようなことでしょうか。 【偽善】とは「上辺だけの善行」と辞書には書かれています。 【傲慢】はさしづめ「自惚れて思いあがること」でしょうか。 因みに、 【なるべく】は、「可能な限り」でしょう。 【なるべく殺さない】は「可能な限り殺さない」ということになりますが、この「可能な限り」の基準は人それぞれなのではないでしょうか。 「鯨を食わないことぐらい可能だろう」と捕鯨禁止論者は考えていると思うのですが、「鯨を食いたいという欲求を我慢することは可能ではない」と考える人もいるはずです。 また、豚を食べるのはダメとか、犬も平気で食されるとか、世界各地には色々な考え方があります。 ベジタリアンの中でさえ、一般の植物はダメで実である果物しか食べないフルタリアンという方がいることも、他の方へのご返信の中で拝見しました。 「果物だけで生きるべきか否か」という基準の違いが(ベジタリアンの中でさえ)あるということになるのでしょう。 ベジタリアンの方々の主張(批判)は、肉食云々以前に、こういった基準の違いは容認できない、という点に収束していくように思われます。 自分たちは人間としての基準を満たしているが、肉食者はそれを満たしていない下等な人間である。 魚を生で食うと言って気持ち悪がったり、犬を食うと言って馬鹿にしたり、豚を食わないと言って笑いものにする、などと似たような感覚がそこには無いでしょうか。 いや、あくまで倫理的な観点からベジタリアンであるのだ、とおっしゃるのかもしれませんが、しかし、生命というものは全て代謝なしに存在することはできません。 代謝に益するとして外界から取り入れるものには全て生命が関与しているはずです。 砂や石を食べて生き続けることはできません。 その生命に軽重があるとするならば、それはあくまで人間のエゴを基準とした軽重でしょう。 ここで重要なことは、エゴが無ければ人間は生きていけない、ということです。 それを否定することは誰にもできないでしょう。 ただ、動物と違うところは、他者のエゴなり本能なりに対する想像力を人間は生来的に持つように生まれついている、ということがあります。 この想像力の分野で様々な基準が生じるわけです。 生まれ育った地域・生育環境などによって想像力の羽ばたく先や内容は異なってくるでしょう。 他者に明白な迷惑がかからない限り、それを批判(批難)できるのは神だけではないかと思います。(神、はあくまで比喩ですが) このように、 結局自らも生命というものを犠牲にして生きているにも拘わらず、その基準が段階として上であるから倫理的である、という感覚は、 【上辺だけの善行】つまり「偽善」である。 また、 神以外には批判(批難)できないことを批判(批難)しようとすることが、【自惚れて思いあがること】つまり、「傲慢」である。 ざっと、こういった理由ぐらいしか思い浮かびませんけどね。 また、そうだとするならば、むべなるかな、という気もしてきます。 おっしゃっていることの意味をきちんと把握していないようであれば、ご指摘いただけると有難いと考えます。   

gabuncio
質問者

お礼

詳細な回答ありがとうございます。 >偽善 「地球環境を汚染すべきでない」という倫理観が多数の共通認識だと仮定します。  環境を汚染しない最善の方法は、電気も、ガスも使わない、原始時代のような生活であるとします。ただ、環境を全く汚染しない100%循環型の生活は現実的には実行不可能な状況です。 このような状況下で、「都会での生活は環境を汚染するだけだから、田舎で生活するのが地球にとってよいことだ」として都会から田舎に移り住み、実際に環境によい暮らしをしている人がいます。  他の、都会で暮らしながら、ささやかなエコを心がけている人は、田舎に住む人が環境負荷をゼロにすることもできないのに、環境に良い行動をとっているふりをするなんて、その基準が上だから倫理的であるかのようにふるまう「うわべだけの善」であり、「偽善だ」と批判できるでしょうか。  これらの人は、いずれも「地球環境に配慮すべきである」という倫理観を持ち、それを実践している以上、倫理的であるといえないでしょうか。ただ、田舎で暮らすことを選択した人の方が都会の人と比べて(あくまで環境保全の面について)「より倫理的である」といえるのではないでしょうか。 上のように、個人の状況はそれぞれですから、「倫理的」な行動のレベルにはおのずと差があります。 しかし、差があるからといって、一方が相手の状況も考えずに非難することは絶対におかしいと思います。倫理的な行動には個人差があって当然です。  行動レベルに差があるからといって、どちらかが「上辺だけの善」となるとはいえないように思います。 >傲慢  ベジタリアンが非ベジタリアンを非難しているという前提でしょうか。しかし、わたしの知るかぎり、ベジタリアンは非ベジタリアンの存在自体を否定・非難したりしないことをご理解いただきたいです。 自分の価値観と違う行動をとっている人を非難したりするべきではないと思います。

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回答No.14

>そのような考え方だとすべての倫理学が感情論だということになりませんか。 えっ、倫理学って道徳的な感情論でしょ。 >見解の相違で、それ以上論ずべきところはありません >「大切だと思う」「大切だと思わない」まさに平行線です。 できればそうしてほしいんですよね。 「食肉はいい」と「食肉は駄目」はただの見解の相違で論ずべきでないと。いくら話しても平行線ですから。 >大切にしようと行動している人を「感情的、非論理的」と批判できるのは何故ですか。 「動物を殺すのはかわいそうだと思う」という感情そのものを批判するつもりはありません。ですが、「動物を殺すのはかわいそうだと思う」という感情を「命は大切」等の倫理観をもってきて正当化しようとしているからです。それは価値観を押し付けでしかありませんので批判の対象です。 食べることは生きていくうえで大切なものですし、食は文化です。 特定の食べ物が食べられなくなるようなことがないように大切にしていきたいですね。

gabuncio
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 >えっ、倫理学って道徳的な感情論でしょ。 では、感情論だから否定されるという見解ではないのですね。 >「命は大切」等の倫理観をもってきて正当化 「命は大切」という感情の中に「動物の命」が入っていないのなら、何も論じるべきことはありません。しかし、「動物の命も大切」とするなら、なるべく殺さないようにすることのどこが倫理的・論理的でないのでしょうか? >食は文化です 奴隷制も生きていくために有用なひとつの文化でした。そして、今は否定されています。文化だからといって、永遠に支持されるべき理由とはいえないと思われます。 (食肉を奴隷と同じと非難しているわけではありません。たんに文化が変わりうると言いたいだけです。) 動物を大切と思わない価値観を否定しているわけではありません。それは価値観の相違です。しかし、動物を大切と思ったり、人間以外の命を大切と思うという立場に立つ人は、ベジタリアンという生き方は批判できないのではないかと疑問に思っています。 論理的な批判は大歓迎ですので、まだありましたらよろしくお願いいたします。

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