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第四次川中島の合戦

激戦といわれるこの合戦。 越軍は妻女山に甲軍は海津城に入り膠着状態となった。信玄は啄木鳥の戦法なるもので軍を二手に分ける。なぜ山上を登る別働隊が本隊より多かったのか?、普通逆ではないですか? そもそも、そのまま待っていれば川中島に深く入り込んだ越軍は、食糧や季節(冬になると困る)で山を降りざるをえなくなり、これをもって戦いを挑めばこんな苦戦、或いは損害が及ぶ事はなかったのでは。 実は山本勘助は越後方の間者であった、という小説も読んだことがありますか、いつもスッキリしないこの合戦です。どう思われますか?

  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.1

啄木鳥の戦法、まったくの創作です。 越軍一万三千の全員が、妻女山の山上にいないと、「反撃のため反対側で下山する」との前提がなりたたないのですが、妻女山の山頂、狭くて千人でもキツイです。 また、越軍は毎日、刈田働きをしているので、かなりの期間は困りません。 また、山本勘助は全軍の戦法を建策できるほどの立場ではなかった<ただの使い番>というのが史実のようです。 ということで、ほとんどフィクション。

marimo99a
質問者

お礼

創作だったのですか、それなら納得です。でも、疑問のままの方がよかったような変な気持ちです(笑)。

その他の回答 (4)

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.5

武田方ですが信憑性が高いといわれる「妙法寺記」に 晴信公と景虎の合戦で、景虎勢あまた討ち死にし、甲州勢は晴信公御舎弟典厩が討ち死にした。    小山田衆が敵軍に横入れして、打ち崩し功名を挙げた。 との趣旨の文があり、確実な戦況資料はこれだけです。 大将の弟が討ち死にし、片や大将が刀を振るい敵を払うという、異常事態は霧が原因の鉢合わせ合戦としか考えられません。 謎の一つは慎重な信玄がなぜ軍勢を分けたかです。    小山田勢等の別働隊が遅れたら大変でした。 啄木鳥戦法はこの解明に創作されたのでしょう。

noname#209756
noname#209756
回答No.4

上杉謙信にたいしてのプロフィールの疑問から、他の戦いでもどうかわからないことがあるようです。長篠や手取川まで。

回答No.3

疑わしいんですよ 啄木鳥なるものが  << 槍の下 と槍の上といいまして やってみたらわかりますが 下から攻め上るほうが 断然不利です したがって上にいる数に同等か それ以上いるわけです じゃないと簡単に突破されます 城攻めとおなじなんですよ 意味がないでしょう  << そのまま待っていれば餓死するのに>> なんで? 謙信が妻女山に登ったのは8月です 妻女山の日本海を向いて左側 の稲の穂がたわわになっていまして これを略奪しておりますので 餓死なんかしません 謙信にとって川中島の今回の戦いの目的とはこの略奪戦ではなかったかともいわれております この戦いの2ケ月前まで関東で戦っておりますので 兵糧の準備も万全ではなかったとね << 勘助>>ですが いたんでしょうが 小説のように そんなに 重要な役回りではないでしょう 武田は盟主盟友の協力関係の軍隊が主です 信玄でさえ 思うようににはうごかせなかったでしょう ですから  思うようになったのは 家康を設楽ケ原で叩いた頃で ようやくといわれています 死ぬちょっと前なんですからね 武田の騎馬軍団なんて 勝手に うまい具合に喧伝されてしまってものですから 軍配ひとつで なんてこと 夢みてたでしょうね これは 晴信が小笠原長時との紛争で 甲斐国境から勝弦峠まで 盟友の国人地侍のなかから騎馬武者のみを編成して 長躯 短時間で ある意味奇襲みたいなことに 寝込みを襲えて 勝ったことが 他国に大きくきこえていったということです 謙信の 軍声しくしく も規定のことでしょう あいての知らないとき油断しているときを見計らって撤退する計画でしょう じゃないと バカということになりますよね 戦略的に 出陣はした 米は取った  面目はたった あとは無傷で ひきあげるのみ の予定だったが 帰り道で遭遇 乱戦になった ということでしょう  

  • Yelm
  • ベストアンサー率19% (63/324)
回答No.2

「第四次川中島の合戦」については不明な点が多いのですが、少なくとも「啄木鳥戦法」や「車掛りの陣」については「実行不可能な後世の創作」とされています。 (このあたりは長篠合戦の「鉄砲三段撃ち」などと同じです) 現在の有力な説は濃霧の中で両軍の主力が、双方の指揮官の意図しない中で激突し、想定外の激戦となってしまったと言うものです。

marimo99a
質問者

お礼

ありがとうございます。 やはり、小説の中の話だったのですね。

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