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正月の注連飾と節分の柊鰯の歴史

こんにちは。いつもお世話になっております。 節分とは暦法・二十四節気の立春の前日のこと、つまり大晦日のことですね。 旧暦の大晦日とほぼ同時期となり、江戸時代までは2回正月があったそうです。 平安時代に紀貫之が著した「土佐日記」によれば 正月の門口に飾った注連縄に、柊の枝と「なよし(ボラ)」の頭を刺していたことが記されています。 現在では正月に注連飾りを飾り 節分には柊の枝に鰯の頭をさしたものを飾りますが どうも平安時代にはひとつだったものが 注連飾と柊鰯に分かれたように思われます。 節分の行事そのものは奈良時代すでに行われていたようですが (1)現在のような注連飾はいつから飾られるようになったのですか。 (今も伊勢神宮で授与されている注連飾には柊がついているようです。 魚の頭をさしていない注連縄、という意味でお願いします。) (2)節分の日に柊鰯を飾る習慣はいつから生じたのですか。 (3)この文章の中に間違った点があれば指摘をお願いします。

noname#82952
noname#82952
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みんなの回答

回答No.6

こんにちは。 >あなたの「小説」も読んでみたいですね。 サイトの申し込み要領をご利用されれば良いのですが・・・。 >>論文の公募ってないんですよね~ 論文は、あくまでも、自己の研鑽ですので、公募はあまりありませんねえ。でも、学術的には、分野は違いますが「ネィチャー」などもあり、探してみれば「募集」もあるかも知れませんよ。 でも、論文を書くくらいですから、かなりの力量とお察しいたします。 >>で、小説ならミステリー大賞なんかあるので 書いてみようかな・・・と考えているのですが 小説は難しいですね~ まあ、難しいと言えば難しいかねしれませんが、自分が物語りの「主人公」だと思って書けば良いのではないでしょうか。 つまり、エッセイみたいに「主人公」になりきって書けば誰にでも書けますよ。

回答No.5

こんにちは。 >>ただの賞じゃなくて、大賞! いえいえ、大賞ではなく準大賞で~す。(汗) >>私も面白いネタが2,3あるので紀行文的に書いてみたのですが 推理小説風に書けないかと思案中です・・・ 私のメル友にも「小説」を書いている人がいて、お互いに「添削」したりしあって、少しでも良い小説を書きたいと、奮闘中です。 あなたの「小説」も読んでみたいですね。

noname#82952
質問者

お礼

準大賞でもすごいです! さすが師匠! >あなたの「小説」も読んでみたいですね。 私は歴史の謎解きをするのが趣味でして 梅原猛さんみたいな論文を書きたいのですが 論文の公募ってないんですよね~ で、小説ならミステリー大賞なんかあるので 書いてみようかな・・・と考えているのですが 小説は難しいですね~ 謎だけでなく、人物描写とか必要になってくるし! 今後もいろいろ教えて下さい。 よろしくお願いします♪

回答No.4

おはようございます。 次のサイトに「あるヒント」がありますよ。 http://okwave.jp/qa4663639.html

noname#82952
質問者

お礼

ありがとうございます。 健友館文学大賞なんてすごーい! ただの賞じゃなくて、大賞! 佐渡流人悲話集ですか・・・ 読んでみたいです~ 私も面白いネタが2,3あるので紀行文的に書いてみたのですが 推理小説風に書けないかと思案中です・・・ ときどき覗かせてもらいます♪

回答No.3

こんにちは。 >>bungetsuさんにはもう何度もお世話になっておりまして 師匠、と仰いでおります(笑)。 「師匠」ですか・・・おもはがゆい・・・。こそばゆい・・・。 >>確か大国様が持っていましたっけ。 (1)七福神の中に、「大黒様(ダイコクサマ)」と呼ばれる神様がいます。でっかい袋と小槌をかかえてニコニコしている、とても優しそうな神様ですね。この「大黒様」と「大国様」は同じ神様と思われているようですが、実はそのルーツは全く違うのです。 (2)「大黒様」即ち「大黒天」は、インドのヒンズー教の神「シヴァ神」の化身が、その原型です。片手に宝物の入った小袋、又は人間の生首を持った見るからに恐ろしい形相をした神様でした。何と「破壊」の神様だったのです。それが長い時代を経て、仏教に取り入れられてからは「福の神」となり宝物の入った袋も大きくなりました。 (3)日本に仏教が伝来し神仏習合が進むにつれて、名前が「ダイコク」と読める事、「稲葉の白兎伝説」で「大国様」が大きな袋をしょっている姿が、民衆の間で浸透していた事、共に「福徳をもたらす神様」である事、また他にも何かと共通する部分が多く、だんだんと同一視されていき、現在では同一の神様として信仰されるようになっています。 (4)明治になって「神仏分離令」が決定するまでは、日本独自の神社と主に中国から伝来した仏教が習合していました。 その一、七福神巡りは、ご神体が「神様」なのに、なぜか「お寺参り」。 その二、比叡山延暦寺を建造するにあたっては、麓の「日枝神社」に地鎮祭を取り行ってもらっています。 日本の文化は、知れば知るほど「まか不思議」だらけですね。

noname#82952
質問者

お礼

師匠、なんどもありがとうございます。 注連飾、柊鰯からはじまって、打出の小槌、大国様・大黒様まで やってきてしまいました。 今回も面白い話をありがとうございます。 大黒さんは人間の生首を持っていたのですか。 サロメを思い出しますね。 なんでもシルクロードを経由してやってくる中で 大黒天は厨房の神となったと聞いたことがあります。 破壊の神=火の神ということで厨房の神になったのかなあ、 と勝手に考えています。 大黒天を日本に伝えたのは最澄さんだそうで 延暦寺にはたくさんの大黒天像がありました。 奈良の法隆寺の近くに法輪寺という寺がありますが そこには大黒天のように米俵の上に乗った毘沙門天像がありました。 ほんとに「まか不思議」です。

回答No.2

こんばんわ。 私のつたない記述をお読みいただきありがとうございました。 どこかでお会いしましたでしょうか・・・。 >>そうそう、壬生狂言に登場する節分の鬼は打出の小槌を持っていましたが これなんかも五行説によるものなのでしょうか・・・ 陰陽五行説と「打出の小槌」は、少々、結びつきはないようですが、 http://www.kyoto.zaq.ne.jp/mibu/k_11.htm 確かに、壬生狂言には「打出の小槌」を「鬼」が持って登場するようですね。 ただ、想像を巡らすとすれば、 「打出の小槌」は、人間の「欲」を何でも叶えてくれる・・・ 従って、そうした「欲(煩悩)」を「鬼」が「誘惑」し、後家が、そうした「欲(煩悩)」を打ち払う(豆をまいて追い払う)・・・という筋書きではないでしょうか。 どちらかと言うと、陰陽道よりも「仏教」の教えからきているのではないでしょうか。 ただ、私もできれば「壬生狂言」を見てみたいし、その歴史も知りたいですね。それによって、「鬼」が「打出の小槌」を持つ「由来」も分かるかも知れませね。 面白いところでは、 (1)群馬県に「鬼石町」と言う町がありますが、その町では、 「鬼は内、鬼は内」 と、室内に向かって豆をまくそうです。 (2)大阪府に「打出小槌町」というところがあるそうです。 http://www.trans-usa.com/ashiya/kozuchi.html

noname#82952
質問者

お礼

返事を下さりありがとうございます。 bungetsuさんにはもう何度もお世話になっておりまして 師匠、と仰いでおります(笑)。 貼っていただいたサイトの絵(版画かな?)素敵ですね。 とても気に入りました。 ありがとうございます。 壬生狂言を見た楽しかった記憶が蘇ってきます。 鬼は笠をかぶっていますが、笠をとると角がないんですよ。 京都の鬼には角がないことが多くて、「赤熊」の髪型をしてることが多いです。 結髪しない童形、緋色の着物は犬神人(清水坂に住んでいた非人)の特徴です。 打出の小槌は仏教からくるものなのですね。 確か大国様が持っていましたっけ。 鬼石町の習慣、おもしろいですね。 私は関西在住のものですが 奈良の元興寺には鬼が住んでいたという伝説があって 「福は内、鬼も内」といって豆撒きをします。 京都の千本閻魔堂でも節分には「鬼の念仏」という狂言をして (やっぱり角のない鬼が出てくる) 「福は内、鬼も内」といって豆撒きをします。 打出小槌町という町があるのは知りませんでした! 小椎命(日本武尊)と関係があるかも、と書いてありますね。 うーん、興味深いです~ これからもよろしくお願いします。

回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 (1)現在のような注連飾はいつから飾られるようになったのですか。 (今も伊勢神宮で授与されている注連飾には柊がついているようです。 魚の頭をさしていない注連縄、という意味でお願いします。) すでにWikipedia等で、いろいろ「検索」「購読」をしてからのご質問と思いますので、私の分かる範囲で記載してみたいと思います。 (1)まず、注連縄は、7~8世紀頃編纂された、 1.古事記・・・和銅5年(712)編纂には、「尻久米縄(しりくめなわ)」または「端出之縄(しりくへなわ)」と出でくる。 2.万葉集・・・天平宝字3年(759)以後に編纂には、「標縄(しめなわ)」と出てくる。 従って、この頃には一般的に「正月」あるいは「春分の日」「節分」などに飾られたものと考えます。 (2)北方説と南方説 1.北方説・・・これは、朝鮮からそうした文化がもたらされた。農耕文化に欠かせないものとして、「注連縄」を「雲」に見立て、紙垂(しで)を「雷」に見立てて、豊作祈願をした。 しかし、そこには、神聖(浄域)な場所と俗人の場所(不浄域)との区別の意味もあった。 現在でも、朝鮮の中部以南の地方では「禁縄(クムジュル)」または「左縄(ウェンセキ)」の習慣が見られる。 従って、日本でも「農耕」に関係ある神社では「注連縄+紙垂」だけで良かったのではないでしょうか。 2.南方説・・・これは、中国の陰陽五行説が遣隋使または遣唐使などによって日本へ伝えられた。そして、注連縄は「蛇」を表す、とされ、古代エジプトなどでも「蛇(実際はコブラ)」は神様として崇められてきた。それが、シルクロードを経て、中国に伝わり、中国の「道教」などと結びついて五行説などとして融和。さらに、日本に伝わってからは、日本独自の陰陽道と結びついて変化を遂げた。 こうして、あなたの言われる通り、伝統的には(中国から伝わった頃には)「注連縄」に「柊鰯」などを添えて飾った、と、考えられます。しかし、神道は日本の伝統的文化で神社は全国いたるところにあり、また、規模も大小さまざまですので、出雲大社とか伊勢神宮あたりでは、古式にのっとり、「注連縄+柊鰯」、あるいは、「注連縄+柊」などを伝えているものと考えます。だが、地方の小さな村社あたりでは、そこまで古式豊かにはせず「注連縄+紙垂」または「注連縄だけ」と、なったのではないかと考えます。また、現代のように山村でも「鰯」を食べられる時代と違い、内陸部あたりでは「鰯」を手に入れることが困難でしたので、次第に「簡略化」していったと考えます。 結論:中国から日本に伝わって、日本の陰陽道と結びついた時点で、すでに「変革」が現れはじめて、地方へ伝播するにしたがって、「簡素化」が出始めていた、と、考えられます。 しかし、一方では、江戸時代に江戸でも「注連縄+柊」などの組み合わせが浮世絵などにも見られます。ただし、江戸市中の全ての神社がそうしたことをしていたとは、考えられません。 >>(2)節分の日に柊鰯を飾る習慣はいつから生じたのですか。 これは、文武天皇の時代に中国から伝わって、行われ始めたといわれています。 中国の五行説・・・木、火、土、金、水の五元素で「金」は「鬼」が持つ「金棒」を意味し、大豆は硬い作物で、これも「金」で「鬼」を表します。それを打ち破るのが「火」です。そこで、大豆を「火」で煎る(火が金を溶かすという火剋金作用と呼ぶ)と同時に、豆まきで外へ大豆を撒き散らし、「鬼=邪気」を祓うという考え方です。 そして、豆をまくことで、農作業の「種まき」にも類似し、「木(植物)」となり、その「木」は「土」にあり、「土」は「水」に潤う、と、いう相関関係にある、と、いう考え方です。 また、「節分」とは「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前日を差し、奈良、平安時代の太陰暦(旧暦)では「立春=1月1日」(太陽暦では2月頃)とされており、その前日の「節分の日」は「大晦日」を意味しましたので、大晦日に邪気を祓うこと、「追儺式」や「鬼やらい」とも呼ばれたものが受け継がれ、現代の太陽暦の2月に「豆まき」をする習慣が残ったものです。 この時に、「柊」と「鰯の頭」で二度と「邪気」が入り込まないように門口に飾りました。 確かに、「土佐日記」には、「注連縄+なよし+柊」が一緒に飾ったことが出ていますので、承平5年(935)以後になってからと考えます。 まあ、あなたの質問の「答」になっていないかもしれませんが・・・。

noname#82952
質問者

お礼

bungetsuさん、いつも回答ありがとうございます♪ 注連縄は古事記・万葉集にすでに登場しているのですね。 もしかしたら、日本最古と呼ばれる奈良県大神神社に オオタタネコが大物主を祀ったときすでに注連縄があったかもしれませんね。 朝鮮や中国にも似たようなものがあったのですね。 興味深いです。 >古代エジプトなどでも「蛇(実際はコブラ)」は神様として崇められてきた それで大神神社の大物主は蛇だとされてるのかも! 出雲大社のある出雲付近でも柊のついた注連飾を飾っているのでしょうか。 実はこの間京都祗園へ行きましたら、柊のついた注連飾が飾ってありました。 伊勢地方では1年中注連飾を飾っているそうですが 私が祗園に行ったのは3月なので、やはり1年中飾っているようです。 で、伊勢のものも、祗園のものも「笑門」と書いた木札がとりつけられていました。 「笑門」は「蘇民将来子孫家門」の略「将門」のことで 逆賊と嫌われた平将門に通じるために「笑門」になった という説もあるようです。 近くに八坂神社があり、八坂神社の御祭神はスサノオ(牛頭天王)ですから その関係なのでしょう。 ところで将門の首は鴨川のほとりの現在の南座の南側あたりにさらしたそうで 祗園から南座は近くなのが気になります。 確かに内陸部では鰯は手に入りにくかったということはあったでしょうね。 浮世絵にも柊を飾った注連飾が描かれているのですね。 そういえば、節分の日に京都の壬生神社で行われる壬生狂言を見ましたが 「節分」という演目の中で女性が柊鰯を門戸に飾るというシーンがありました。 この演目がいつ作られたものなのか調べてみると何かわかるかもしれませんね。 文献や、五行説で大豆が金を表しているなど、知らないことばかりで 大変勉強になりました。 そうそう、壬生狂言に登場する節分の鬼は打出の小槌を持っていましたが これなんかも五行説によるものなのでしょうか・・・

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