• ベストアンサー

太夫道中は実際に行われていたのですか。

京都の清涼寺や常照寺などで、太夫道中を見学したことがあります。 江戸吉原では最上級の遊女を花魁と呼び 花魁道中が行われていたと聞いたことがあるのですが 大阪や京では最上級の遊女を太夫と呼んでいたようです。 (吉原でもはじめは太夫がいたが、のちに花魁が最上級となったとか) 京都の嶋原などでも実際に太夫道中は行われていたのでしょうか。 それとも単に江戸の花魁道中を真似た観光用のものでしょうか。 http://www50.tok2.com/home/myunclek/tayu.htm ↑ 壬生寺で行われた太夫道中の様子です。

noname#82952
noname#82952
  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数1

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>太夫道中は実際に行われていたのですか。 回答から先に述べますと「行われました」。 まず、京都から。 (1)京都の現在の丹波口駅の近くに「島原」・・・昔は「嶋原」とも書物には出てくる。に「遊郭」の地帯があり、「大門」を構えていました。 (2)豊臣秀吉が、京都の再興をするにあたり、花街を「二条柳馬場」に「柳町」と呼ばれる一角に「遊女屋」などを集めました。 (3)やがて、六条坊門(現:東本願寺の北側)へ移され、「六条三筋町」として栄えました。 (4)さらに、江戸時代に入って、京の街も人口が急増したため、寛永18年(1641)に市街地の西の「朱雀野」へ移転をさせました。 (5)そして、廓の一帯を、正式には「西新屋敷」と呼ばせましたが、この移転は突然の「移転命令」でしたので、ちょうど「島原の乱」が終結した時期でもあり、この慌しさをひねて、通称「島原」と呼ぶようになりました。 (6)島原には、「揚屋(あげや)」と「置屋(おきや)」がありましたが、「揚屋」は、現代で言うと「高級料亭」で、「宿泊施設」はありませんでした。 (7)そこで、お大尽になると、まず「揚屋」に腰をすえ、そこから使いを出し「置屋」の「太夫」を呼び寄せて「高級料亭」での酒食を共にし、太夫に気に入ってもらえれば、「置屋」へ案内をしてもらい夜を共にしました。 (8)この時行われたのが「太夫道中」でした。 しかし、江戸の吉原の「花魁道中」のように10人近くを従えるほどではなく、せいぜい5~6人にお供をさせました。 大坂では。 (1)京に見世を構えていた「扇屋」という「置屋」が寛文年間(1661~)か延宝年間(1673~)頃に、大坂の新町へ移転をしたのが始まりとされています。 (2)この時、その見世の看板遊女であった「夕霧太夫」も一緒に大坂へ移り、大坂では大変有名になった、と、言われています。 (3)現在でも、11月第2日曜日に「清涼寺」で「夕霧供養祭」が行われています。 (4)大坂の新町も、京都を真似て「揚屋」と「置屋」形式でしたので、やはり、「置屋」から「揚屋」までを「太夫道中」を行いました。 (よもやま話) (1)京都の「輪違屋」という「置屋」は、元禄年間(1688~)の建物で、再建や増改築をされてはいますが、現在でも建物は残っているそうです。現在も「置屋」をしており「花琴太夫」「春日太夫」などを抱えているそうです。ただし、今は「芸妓」さんとしてお座敷に呼ばれての唄や踊りを披露するだけで、昔のような「春を売る商売」はしていません。また、一般公開もされていません。 ただし、現在でも「お大尽」に呼ばれ、それ相応の「金」を出すと、「太夫道中」をしてくれる、とも言われています。 (2)「太夫」の由来は、慶長年間(1596~)に京都の四条河原で六条三筋町の「遊女」が宣伝も兼ねて「女歌舞伎」を催したとき、すぐれた「遊女」に「太夫」という称号?を与えたのが始まりです。 (3)京都、大坂、江戸でも「太夫(江戸では、後に花魁)」は「本名」を名乗らず、通称「源氏名」でよばれました。 この由来は、ずばり「源氏物語」に出てくる多くの女性たちから名前を借りましたので「源氏名」と呼ばれるようになりました。 「小太夫(こだゆう)」とか「薄雲太夫」「如月太夫」「桜木太夫」などなど・・・。 (4)太夫道中は、内八文字で練って歩きますが、「お練り」というのはお坊さんが境内を練って歩くことからきたと言われています。 (5)履物は三枚歯の黒塗りの下駄。「三つ足」と呼び、舞妓さんの「おこぼ(下駄)」より高くて、古くて磨り減っても16センチから17センチくらいあります。 (6)衣装は「頭の飾り」だけで3キロくらい。「三つ足」は片方が2キロあります。それから着物が20キロ。合わせて27キロ位です。 (7)現代では、観光用として、「芸妓」に関係ない市町村などでも「太夫道中」や「花魁道中」を行って客寄せに一役買っているところも多いようです。 なお、「花魁道中」については、次のサイトで、私が回答しています。 ご参考までに・・・。 http://okwave.jp/qa4804840.html

noname#82952
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうですか、行われていたのですね。 ひょっとしたら花魁道中の真似をして観光用にしてるのかな・・・ なんて思っていました。 太夫さんたち、ごめんなさい。 清涼寺の夕霧忌、見にいきました♪ 「三つ足」で円を描くような足裁きが独特ですよね。 大阪新町のほうは、仕事で外回りしてるときに たまたま通りかかりましたが 遊郭っぽい建物が残っていて、ちょっと感激しました。

関連するQ&A

  • 花魁道中について

    どうしても分からないものがあります。 (1)花魁道中ができるのは高級遊女屋のお職だけでしょうか?つまり一軒の遊女屋で一人だけだったのでしょうか?2番遊女、3番遊女くらいまでなら道中してたのでしょうか? (2)花魁道中にはその花魁の禿や新造も一緒に参列するみたいですが必ず妹分だったのでしょうか?姉女郎ではない花魁の道中に妹分ではない新造は参列しなかったでしょうか? (3)花魁は馴染み客が毎日来れば道中も毎日してたのでしょうか? それとも何か特別な時だけ? (4)高級遊女は引手を通さなければ遊べなかったそうで、馴染み客を迎えに行くことを花魁道中と言ったそうですが、迎えに行ってそのまま引手茶屋で宴会&床入りをしたんですか?遊女屋では遊ばないのですか? 映画の「さくらん」や「吉原炎上」は遊女屋で遊んでいますよね? もし、迎えに行って遊女屋へ帰って遊ぶようであったなら帰りは道中したんですか?客も一緒に・・・・? この4つがどうしても分かりません。是非教えてください。

  • 花魁道中について

    花魁道中をするのは、太夫などの上級女郎が置屋から揚屋に行くことを指すのだと本で読みました。 では、太夫は置屋ではお客は取らないのですか? また、お客は初回は必ず揚屋で遊女を招いたとありますが、ということは下級女郎も呼ぶことが出来たのでしょうか?その場合、道中とは呼ばないのですか? 下級女郎は置屋だけでお客を取るものなのでしょうか? 色々と質問をしてしまってすみません。ご存知のかたがいらっしゃいましたら、どうぞ宜しくお願いいたします。

  • 花魁道中について

    今、吉原についての小説を個人で書いています。その中にどうしても?なことがあり、ご存知の方にお答え頂きたいと思い投稿しました。 江戸時代の花魁道中とは、トップクラスの遊女が妓楼から、馴染み客のいる引手茶屋に迎えに行く途中の行列の事を言うそうですが、引手茶屋で宴会をするんですか?妓楼では宴会しないんですか?妓楼は床入りのみですか? それと、引手茶屋へ客を迎えに行って妓楼へ戻る時はまた花魁道中するんですか?客も一緒に?? この辺りのことがはっきりと分かりませんので、何か以上のことが詳しく載っているサイトですとか、ご存知の方がいらっしゃったら是非教えて頂きたく思います。 宜しくお願いいたします。

  • 花魁道中で前を歩く童女は?

    江戸時代、遊郭の花魁道中のとき、前を歩く童女は かむろ、という名前だということを、別の質問の回答より知りました。 この、かむろ、はどこの誰がなるのでしょうか、? また、花魁道中以外の時遊郭で何をしているのでしょうか、また成人したとき遊女になるのでしょうか、? このような、形式はどこから来たのでしょうか。 江戸の風俗に詳しい方、教えてください。

  • 江戸時代の吉原について

    読んでくださりありがとうございます。 吉原について3点、知りたいことがあります。 1.初期の、引き手茶屋よりも揚屋が主流だった頃は、太夫だけでなくその次の位である格子女郎も指名されてから揚屋に出向いて客に会っていたと聞いています。 太夫が揚屋に向かうのがその頃の「花魁道中」だったと思うのですが、さて、格子女郎が揚屋に向かう際も人目を引くような道中があったのでしょうか? 2.いわゆる張見世(の中でも格式の高い大見世)の格子の中にいて、客が付くと二階の部屋に行く…という部屋持ちの女郎は格子女郎ではないのですか?このシステム自体揚屋があった頃と時代が違うのでしょうか? 3.江戸時代は火事を防ぐため町人はどんな大店でも内風呂を持つことは禁じられていたと聞きます。吉原の遊女たちはお風呂はどうしていたのでしょう?吉原の町内にいくつか銭湯があったのか、置屋は風呂を持っていたのか教えてください。 長くなりましたがどうぞよろしくおねがいします

  • 江戸時代と明治の吉原

    先日放送されたドラマ「吉原炎上」を観ました。 その中で登場する吉原では私の知識にある吉原と相違点があったのでいくつか質問させていただきます。 1、遊女は置屋に所属していて、そこから客の待つ揚屋に派遣されるの が遊里のシステム(現代の出張風俗のように)なのにドラマでは、   遊女が所属しているのも客にサービスをするのも同じ妓楼でなされ ているようだった。 2、花魁とは、座敷持ち以上つまりトップクラスの遊女の呼び名のはず なのに妓楼の遊女全てを「花魁」と呼んでいた。 3、花魁道中は、遊女が客の待つ仲ノ町の揚屋へ出向くのを遊女が旅に 出るという演出にしした廓の一大イベントであるのに、ドラマでは  単なるパレードのように描かれていた。 以上がドラマを観て疑問に思った点です。ドラマは明治四十年代の吉原舞台となっていたので、上記で挙げた吉原の習慣は江戸時代までで、明治期になると吉原も様変わりしたのでしょうか? わかる範囲で教えて下さい。

  • 昔の遊女の呼び名を教えて下さい

    昔の吉原とかの遊女の呼び名を教えて下さい。 「~太夫」とか「~之丞」とか「花魁」とかって色々ありますよね?あれって出世すると呼び名が変わるんですか? 最初に貰った呼び名のようなものなのでしょうか? とても知りたいので詳しいことを教えてください。 出来れば階級順に教えていただけたら嬉しいです。 (一番えらいのが~で、どういう位置付けか・・・。とか) 宜しくお願いいたします。

  • 花魁の外出について

    何度もこちらで質問させていただき、申し訳ないんですが、知りたくて質問してしまいます>< 江戸時代(天明の頃1784年くらい)の花魁の小説を個人で書いています。私の書いている主人公は最高位の花魁で妓楼も吉原きっての大見世という設定です。この花魁が禿や付き人を引き連れて鎌倉へ遊びに行くという件があるんですが、果たして年季明けをしていない遊女がお供はいるけれど大門の外へ、しかも吉原から遠く鎌倉まで遊びに行けたものなのでしょうか?また、下の位の遊女は無理だとしても吉原ではトップの花魁(揚巻や八ツ橋クラス)だったら可能だったのでしょうか? お願いいたします。

  • 遊里にいた禿(かむろ)について知りたいのですが・・・

    江戸の吉原になどにいた、太夫などの高級遊女の身の回りのお世話をする10歳前後の女の子「禿(かむろ)」について色々知りたいと思っています。具体的なお話や、役に立ちそうな本やホームページを知っていたら教えてくださいm(__)m どんな小さなことでもいいので、よろしくお願いします♪

  • 明治時代の花魁道中に付き添っている「禿」と「振袖新造」について

    明治時代の花魁道中に付き添っている「禿」と「振袖新造」について 下のような、明治時代の花魁道中の写真を見ましたが、 花魁に禿や振袖新造らしき女の子が付き添っています。 http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/070319/009c.html http://fuutiger.blog115.fc2.com/blog-entry-20.html 吉原炎上で有名な斎藤真一さんの本を読むと、 「明治時代は法的に禿が許されていなかった」 「江戸時代の新造は、禿から花魁見習いになった女性のこと言った。しかし、明治の頃の新造は意味が違っていて、花魁の身の回りの世話係」 (つまり、新造が将来、花魁になるわけではない)といったことが書いてありました。 でも、上の写真を見ると、禿や振袖新造がしっかり写っています。 彼女たちはなんだったんでしょうか? 明治の頃の花魁道中は、ショー的な意味が強かったと聞きますから、 実際に妓楼で働いていた娘ではなく、その時だけどこかの家庭から借りてきた子役みたいなものだったんでしょうか。 ご存じの方がいらっしゃったら教えてください。