• 締切済み

古代日本と大陸の行き来について(弥生人、遣唐使、鑑真)

質問です。 縄文、弥生~奈良時代あたりの日本の、大陸との行き来についてです。 弥生人は日本に影響を与えるくらいの数が来たはずなのに、 もっと後の時代の鑑真が渡航に苦労しているのがわかりません。 他に、菅原道真も「危険だ」と言って遣唐使をやめさせようとしていました (政治的意味があったとしても)。 潮の流れやルートの違いが原因でしょうか?

  • 歴史
  • 回答数5
  • ありがとう数10

みんなの回答

  • nene-k
  • ベストアンサー率42% (118/279)
回答No.5

遣唐使の1回目から7回目までは、「北路」と呼ばれる朝鮮半島の西岸を通り渤海を横断して、山東半島から上陸して長安へ向かうルートをとっていましたが、676年に新羅が朝鮮半島を統一して日本との関係が悪化した事によって、そのルートが使えなくなり、8回めから19回目は、「南路」と呼ばれる五島列島から東シナ海を渡って長江のあたりから上陸するルートや、「南島路」と呼ばれる奄美や沖縄ずたいに南下してから東シナ海を渡るルートになったため、とても危険になりました。 南のルートをとるようになったからの遣唐使船は、確か、毎回4隻の船団を組んで行ってましたが、4隻とも無事に帰ってきた事は、一度もなかったように思います。 ただ、菅原道真は、自分が遣唐使に任命されてしまって、「行きたくないから」と、あわてて廃止案を提出したので、ちょっとオーバーに言ってる可能性アリかも知れませんが・・・

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3031)
回答No.4

当時安全に航海しようと思ったら有視界航行になります。 常に陸地を見ながら自分の位置を確認し、嵐が来たら陸(港や入り江)に逃げる、これしか安全な航海はできません。 航海技術(天測等)も造船技術(踏波性)も未発達でだったのでしょう。 朝鮮半島との友好関係が悪化すると、日本から中国へ無理やり直線で西に向かったり、沖縄経由で大陸に向かったりと、東シナ海をまともに越えるルートをとるようになります。途中に陸地も無く逃げ場も無いこのルートが危険なわけです。

noname#82952
noname#82952
回答No.3

こんにちは。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%91%E7%9C%9F 上記によれば鑑真の渡航は 1回目(743年)・・・・渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたために失敗。 2回目(744年)・・・・暴風に遭い、一旦、引き返す。 3回目(744年)・・・・再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告によって失敗。 4回目(744年)・・・・鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えて失敗。 5回目(748年)・・・・暴風にあい、14日間の漂流の末、はるか南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留した。 6回目(753年)・・・・遣唐使が帰日する際、副使の大伴古麻呂がひそかに鑑真を乗船させた。暴風に襲われたがなんとか到着した。 とあり、6回の渡航のうち、3回は弟子などに阻止されての失敗となっています。 それでも3回は暴風雨で失敗していますから 日本への道のりは大変困難だったといえるでしょう。 航路については下記【航路と遣唐使船】にありました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF 630年~665年には北九州より北路朝鮮半島西海岸沿いを 経て 遼東半島南海岸から山東半島の登州へ至るルートをとっていたようで ぱっと見たところこのルートが一番安全そうですが 半島情勢が悪化するなどして使用できなくなったようです。 鑑真が渡航した時代には薩摩の坊津(鹿児島県南さつま市)より南西諸島経由して東シナ海を横断するルートを採っていたようです。 朝鮮半島沿いに進むのに比べると危険な感じがします。

yuu-sanpo
質問者

お礼

鑑真の渡航の失敗、昔教わったかもしれないのが少し蘇ってきました 鑑真の熱意はすごい……。 たしかにその地図を見ると、危険なルートっぽくみえますね ということは弥生人は朝鮮半島沿いとかで来た人が多かったでしょうか ありがとうございました!

noname#94392
noname#94392
回答No.2

韓流ドラマ 「朱蒙」(チュモン)「大王主神記」で観られたように、4世紀には朝鮮北部には中国支配に反抗する高句麗の建国が行われます。その高句麗に反抗する百済が朝鮮南部にあります。そのため、朝鮮半島経由の交流が 使用できないのです。  能登半島は潮(対馬海流)の流れもあって、交流に重要な役割をはたしています。  遣唐使が中断するのは、大陸の政治が混乱していた時代だけです。お土産をたくさんくれる遣唐使はおいしいものでした。  50%が沈没していたとのことですが、昔の人は偉いです。 正規の留学生は20年も留学期間がありました。空海だけが早く帰れた秘密は司馬遼太郎の「空海の風景」をお読みください。

yuu-sanpo
質問者

お礼

朝鮮半島が経路として使えないと苦労するんですね。 あと、能登半島が交流に使われていた場所だったとは知りませんでした。 命がけの渡航も、大陸の情勢が分かるということも、昔の人はすごいですね。 本まで紹介していただき、ありがとうございました。

回答No.1

 氷河期の終了による温暖化により海面上昇が起こる前、大陸と日本は地続きだったといわれています。 http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/japankokogaku2.htm

yuu-sanpo
質問者

補足

すみません、質問の仕方が悪かったです。 見やすい資料をありがとうございます。 大陸と日本が地続きだった頃の日本に来た人たちは、 いずれ縄文人となる人たちであり、弥生人といわれる人たちではありませんよね。

関連するQ&A

  • 現在の日本に再来してほしい政治家はいるでしょう

    古く奈良時代までさかのぼって、今の日本に再来してくれたらいろいろな状況を好転してくれるような政治家、あるいは権力者)はいるでしょうか。勝海舟という人もいますが、菅原道真は聞いたことがありません。

  • 日本の新石器時代は縄文と弥生時代ですか。

    氷期が終わり、日本列島が形成された後、土器と磨製石器の使用が確認されている縄文時代と弥生時代を日本の新石器時代と呼んでもよいのでしょうか。それとも、明らかな農耕牧畜が確立されておらず金属器の使用もしていなかった縄文時代が、新石器時代の幕開けである、『磨製石器・土器・金属器・農耕牧畜』いった諸条件を十分満たしていないので、日本史においては新石器時代という区分をしないで、縄文時代、弥生時代という区分にしているのでしょうか。 それとも縄文時代が旧石器から新石器に至る中間的な時代で、水稲栽培と金属器の使用が確認されている弥生時代からを新石器時代としてもよいのでしょうか。

  • 縄文時代、弥生時代、日本人は奈良時代まで稲作文化だ

    縄文時代、弥生時代、日本人は奈良時代まで稲作文化だったがお米はおむすびみたいな団子状にして食べてた? お茶碗というか椀に炊きあがったご飯を持って食べていなかった? 戦国時代もお椀にご飯を盛って食べずにおにぎりにして皿に載せられて食べてた?

  • 戦前の歴史教育における古代史の扱い

    戦前の歴史といえば、皇国史観に基づいて行われていたのでしょうが、古代史はどのように扱われていたのでしょうか。今の日本の教科書では考古学や支那の歴史書の記述を基にして、縄文時代や弥生時代などの記述がせられておりますが、日本書紀などの記述に従えば、弥生時代などにはすでに天皇が政治を行われていたことになりますよね。戦前の教科書はどういう風に書いていたのでしょうか。また、縄文時代や弥生時代というのは一般に知られていたのでしょうか。支那の歴史書の倭国に関する記述や、時の指導者が支那の皇帝に朝見していたという事を当時の日本人は知っていたのでしょうか。蛇足ですが、足利義満が明に入貢していたということは知られていましたのでしょうか。

  • 縄文時代って日本はユーラシア大陸と繋がって

    縄文時代って日本はユーラシア大陸と繋がっていたんですか? 今の朝鮮半島や中国やロシアとも陸続きだったんですか?

  • 遣隋使、遣唐使

    1.記紀には聖徳太子が送った遣隋使が中国への最初の使いのように書かれていますが、中国側の史料には 邪馬台国や倭の五王の時代に使いが何度も来ている事が書かれています。 これらの時代の事はなんで記紀には無いのでしょうか? 2.遣唐使船はしばしば難破したり漂流したりで半分くらいしか辿り着けていないそうですが、 白村江の戦いでは日本軍は一千隻もの軍船に数万の兵を搭載して大陸まで送る航海技術があったのに、なんでこうなったのでしょうか? 白村江の戦いでも実際はその数倍の軍船が建造されていたけれど、途中でかなり沈んでいるのでしょうか? でもそのような記述はありません。 また千に数倍する軍船が建造されていたとすれば、それ自体遣唐使の時代とかなりの技術力 や生産力の違いが感じられるのですが。

  • 縄文土器の起源 大陸から

    いつもお世話になっております。 日本最古の土器の時期と重なる土器がシベリアから発見されているそうで 縄文土器は大陸が起源かもしれない、と書かれている文献をよく目にします。 逆に、日本から大陸に伝播されたという発想はありえますか? 細石刃は大陸から伝わったそうですが、土器はどうなのでしょう。 縄文時代に興味があるのですが、もしかしたらおかしな質問をしているかもしれません。 どうぞご了承下さい。

  • 日本の古代の牛について。

    Wikipedia「ウシ」歴史の項には、 「紀元前400年ごろの弥生時代の遺跡からウシの骨が出土しており、これが2012年現在日本で発見されたもっとも古いウシの出土である。日本のウシは、中国大陸から持ち込まれたと考えられている。」と記述されています。 どんなウシか、どこの遺跡か、知りたいのですが、検索しても見つかりません。 ご存知の方教えて下さい。 また、“中国大陸から持ち込まれた”と言うよりは、古代の大多数の牛は、朝鮮半島から持ち込まれたのではないでしょうか。 “中国大陸から”と聞けば、中国から海を越えて直接日本へ来た感じがします。 よろしくお願いします。

  • 弥生時代に日本に馬はいましたか?

    昔読んだ考古学の本では、弥生時代の遺跡からは馬の骨は発見されていないとありました。 魏志倭人伝にも牛馬はなしという記述があります。 ところが下のサイトには、縄文時代からの在来種がかなりの種類いたとあります。((6)日本の在来馬) http://ojizoo.jp/habataki/200250-05.html 弥生時代に馬がいたという証拠が見つかっているからだと思いますが、どこの遺跡でしょうか? また、牛についてはどうでしょう。 農耕用には馬よりも牛のほうが便利なのですが。 よろしくお願いします。

  • 遣唐使の渡航ルートの変更について

    西暦662年、百済が滅亡し、その後日本の遣唐使渡航のルートが大きく変わったと聞いた事があります。 それまでは百済に先導され、朝鮮半島づたいに現在の山東省の港を目指しています。 これだと当時の船でも安全に旅する事はできます。  ところが百済滅亡後はこのルートは取れず、東シナ海を横切るルートに変わっています。 これでは台風をまともに受け、とても危険なものとなります。  百済は旅の先導だけでなく、中国に着いた後も遣唐使と同行し、中国皇帝謁見の手配、通訳等至れり尽せりの援助をしています。 百済と奈良王朝はどんな関係にあったのでしょうか。 百済滅亡によって日本は大陸との交渉のルートを失い、長い鎖国状態に入ったと見ることもできます。  百済と日本の関係について教えて下さい。