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カントの道徳

カントの道徳はなぜ二世界説をとるのでしょうか?? なぜ二世界説でなければならなかったのでしょうか??

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カントは感性的世界と理性的世界、現象と物自体を区別しています。 (※感性、理性、現象、物自体など基本的なタームは理解しておられるものとして話を進めていきます。くれぐれも日常語の延長で理解しようとしないでください。もしわからない箇所があれば、再度聞いてください) このようにふたつの世界を分けたのは、ひとつには人間の確実な理性的認識(幾何学・数学・物理学)はこの世界の存在構造と合致することを論証するためです(おもに『純粋理性批判』が扱う領域)。 もうひとつは、道徳的な必要からです(『実践理性批判』が扱う領域)。 わたしたち人間の活動の場面は現象界に限られ、そこでのわたしたちは「コップを落としたら割れた」「ばかやろう、と言ったら怒られた」というように、「Aという行為をしたらBになった」というような〈原因-結果〉の関係に縛られています。ところが、道徳的主体であるわたしたちが、この〈原因-結果〉の関係に縛られているとすると、ここではすべてのものにかならず原因があることになって、道徳的責任を問えるような行為、すなわち、自由意思にもとづく行為などありえないことになります。 たとえば、『実践理性批判』のなかには、こんな例が出てきます。 ある人が悪意のある嘘をついて、社会に混乱を起こしたとします。 そこで、わたしたちはこの人になんでそんなことをしたのか聞きます。これまでの彼が置かれた境遇、経験、よくない交友関係、教育を受けてこなかったこと、性格、健康状態、さまざまな原因をたぐっていくとする。 そういうことを聞いていけばいくほど、彼がこういうことをしたのはさまざまな事情によって規定されていたのだ、と思うようになるかもしれません。 けれども、一方でわたしたちは彼の行為を非難すること、そうして彼自身を非難することはやめません。 それはどうしてか。 ----- 我々は、行為者がかかる行為の結果の系列をまったく新らたに、みずから始めるかのように見なしてよい、というようなことを前提しているのである。行為者に対するかかる非難は、理性の法則に基づくものであり、この場合に我々は、理性を行為の原因と見なしているのである、つまりこの行為の原因は、上に述べた一切の経験的条件にかわりなく、彼の所業を実際とは異なって規定し得たしまた規定すべきであったと見なすのである。(『実践理性批判』) ---- カントは最初に見てきたように、理性の国と感性の国を分けます。 動物は、この感性の国の住人であり、神は理性の国の住人である。そうして人間はその両方にまたがった存在である。これを「空間的な場所」としてとらえないでください。 ふたつの世界が空間的に存在して、人間はそれを行ったり来たりしているのではない。 人間は現象界の住人であるから、すべての行為は「原因-結果」の連鎖のなかにあります。けれども同時に理性の国の住人でもあるから、「原因-結果」の外へ、理性の使用によって出ることができる。それが「自由」ということです。 これまでの倫理学は、つねに善-悪の観点から道徳の問題を考えてきました。 何が善で何が悪か。こう問いを立てるとすると、ここにはふたつの応答の仕方があるでしょう。 ひとつには善悪を共同体の規範として見る見方 もうひとつには、個人の幸福(利益)として見る見方 けれども、カントはこのような見方はいずれも他律的(外から押しつけられたもの)として批判します。 カントは道徳性を「善-悪」ではなく「自由」に求めるのです。 人がする行為は、それがどんな不可避のものであろうと、その人は倫理的に責任があるのだ、とみなすのです。不可避のものであっても、「自分に責任がある」とみなすことができる。それがカントのいう「自由」ということです。 カントにとって道徳とは「自由」の問題です。したがって、道徳的主体である「私」は、「原因-結果」の関係にある現象界の一員ではなく、物自体としての人格でなければなりません。物自体としての私が物自体としての他者に、自由意思にもとづいて関わり合っているのです。 そのために、感性的世界と理性的世界のふたつを必要としたのです。

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