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人は何故苦しむのか、人は何故争うのか、苦楽、自他の隔てを何故超えられないんのか

人は何故苦しむのか、人は何故争うのかと問えば、苦楽、自他、生死の隔てを超えられないからではないでしょか。苦楽、自他、生死の根源をを何故、悟れないのか?苦楽、自他、生死が一元だと何故、悟れないのでしょうか?

noname#96011
noname#96011

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)
回答No.2

>苦楽、自他、生死が一元だと何故、悟れないのでしょうか? 禅道場が増える事を期待したいですね。 是非どちらの囚われから離れる「空」を体験すには、座禅しかないでしょうからね。「空」が悟ではないでしょうけど。。。

noname#96011
質問者

お礼

禅道場そうですね、気軽に入れる道場が有ったら良いですね 「空」が悟ではないですか。参考になりました。 、ありがとうございました。

その他の回答 (9)

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.10

こんばんは。 この話きっとたくさんの切り口があると思うんですけど、 一つ強く思うのは、自分が頭の中にたくわえた固定観念のせい、というのもあると思います。 自他同一に絞っていうと、 僕でもテレビの中の戦争報道で人が死ぬのを見て、本当のところ人が死んでる、とは思ってません。でも事実は人が死んでます。 この点で生死について誤解してますし、自他についても誤解してます。 こういう誤解は、苦楽などの感覚フィーリングの発生源にもなっており、謝った苦楽を味わっています。 人はもともと自他一体ですが、自他が別だ、と思いたい固定観念が頭にへばりついてる限り、自他同一とはしんぞこからは思えないです。 もしニュースや、あるいや歴史小説などの残酷なシーンが本当なんだ、と思えたら、いても立ってもいられないと感じます。 でもそこを突き抜けたところに悟りがあるのかな、とも思います。ひとつの方向性としてですが。 仏教で、現実を観察しなさい、という教えがあるのですが、ほんまやなーと思ってます。 自他同一と思えるのは、それが現実だから、そう思えます。 自他同一、という幻を信じるわけではなりません。 自他同一は現実ですし、それを実生活で確認できるかどうかです。 上に書いたように頭に固定観念をたくわえてゆがんだ目で現実でないものを現実、と思ってる間は、それは悟れないよなー、と思ってます。 僕も道の途中なのでたいしたことかけません、すみません。

noname#96011
質問者

お礼

ありがとうございます参考になりました。

noname#80116
noname#80116
回答No.9

 ★ 苦楽、自他、生死の隔てを超えられないからではないでしょうか。  ○ 《苦楽》は 程度問題として捉えれば 苦と楽と どちらが来ても ひとは超えることも出来るでしょうね。  ですが   ○ 《自他》あるいは《生死》は その現象としては 超えることは出来ませんよ。  ○ 超えることなく 自他が 互いに 和解することが出来ます。  また   ○ 《苦楽を超えて》 生死を 受け容れることは出来るでしょうね。  これらの前提のもとに   ○ 人は 個々の都合のわるいものごとに相い対して それとして 《苦しむ》ものですよ。  ○ また 生死の受け容れ方をめぐって 人は 議論として 《争う》ものですよ。  ★ 苦楽、自他、生死の根源をを何故、悟れないのか?  ☆ まぁ 《悟り》などは どうでもよろしいのではありませんか。人間としては これもまた 程度問題です。どんぐりの背比べです。百歩が五十歩を笑っても それほどの違いは ありません。みんな 悟っているのですよ。  ★ 苦楽、自他、生死が一元だと何故、悟れないのでしょうか?  ☆ どうでもよいからです。《一元》だという観念は だれもが すでに 分かっています。しかしながら それは この有限なる存在であるわたしたち人間にとっては かたちのない希望として(もしくは 非思考の信仰において) 分かっていることなのです。  悟ったのなら これが《悟り》だというそのものを 見せて欲しい。ちゃんちゃら おかしいと みなに笑われるのが 関の山です。  結論: だれもが すでに 悟っています。程度あるいは あとさきが あります。《間主観性》において つまりは 存在としての関係性において 自他を捉えていくとよいでしょう。ほんの少し こころを向けてやってください。

noname#96011
質問者

お礼

>《一元》だという観念は だれもが すでに 分かっています。 《一元》とは「空」の事です、「空」とは全ての囚われから心が離れた状態です、無想の想、無我の我です、之は概念では有りません。私たちは意識の世界で生活していますが、意識の下に無意識の意識が有るのです。これは座禅による経験事実です、理屈・分別・智では認識できません。 「空」も悟ではありません、悟りへの過程です。 禅は全ても悩みから解放すると存じます。真の心の自由を得ることです。当たり前ですが、肉体的苦痛の解放でも、病気に成らない事でも、不遇の事故に遭わない事でも、崇高な境地に達する事でもなく、苦楽自他生死の隔てが無くなる事だと存じます、苦でも良い楽でも良い、自他どちらも大事と思える事です、決して我慢する事なくです。そう存じます。  >悟ったのなら これが《悟り》だというそのものを 見せて欲しい。 悟とは迷いから醒める事だと存じます。  禅者においても真に悟を得ている人は数少ないと思う今日この頃です。 無学の私が言葉するのはおこがましい事ですが。   御回答頂きありがとうございました。

回答No.8

自分が正しいと思っている事を、他人に受け入れてもらい広げたいと 思っているからでしょう。 それぞれ思っている事が違っていてそれを相手に受け入れさせようとすれば 対立が起きても不思議なことではないはずです。 お互いの違いを認めることが出来きてそれをそのままにしておくことが 許されるのならば対立することは避けられると思います。 しかし、誰でも自分の正しさを証明したがるために上手くいかないの かもしれません。

noname#96011
質問者

お礼

>しかし、誰でも自分の正しさを証明したがるために上手くいかないの かもしれません。 そうですね、人間には自我が有りますから、自我が有る故に自我を超える宗教が必然的の必要になったのかもしれませんですね。 回答して頂きありがとうございました。

  • hosiboshi
  • ベストアンサー率9% (15/158)
回答No.7

気の持ちようだと思います。 なんとなく楽しいなあと、実際苦しみのない、充実した、生死など考えない境地の時もあったと思います。 ただ、それがずっと続くことはないでしょう。 なぜなら世の中は色んなことがあり、色んなことをしていかなければならないからです。 例え悟ったとしても、その後、なにかを成していかなければならないと思います。 なんにもしないなにも考えない、無の境地にいっても、そこにはなにもないでしょう。 いや、いままでのしがらみがなんらかの形でついてくるのかもしれません。 色んなことがやってくることを楽しんで受け止めていくしかないのでは? 悲しみは理解できますが、多くの人がそこからどこに向かうかで悩む、通過地点とも思えます。 ちょっとは馬鹿になるのもいい考えだと思えますよ。 質問有難うございました。

noname#96011
質問者

お礼

禅の人のおいても本当に悟を得人は数少ないと思う今日この頃ですが。 他力宗系においても真の信仰を得てる人。。。 当たり前事ですが悟を得たから、病気にならないのでも、不遇の死に遭わないのでも、増してや空中浮揚が出来るのでも(笑い)、崇高な境地に達するのでもなく。肉体的からの苦からの解放でもなく。 全ての悩みから解放される事だと思います。真の心の自由を得ることだと存じます。 御回答頂きありがとうございました。

noname#117439
noname#117439
回答No.6

無の悟りの内訳は「無い物は無い」と断言できる心象に過ぎません。 無いものをあくまでも追いかける幻が煩悩や迷いの類です。 ただそれだけの単純さがご質問者様の何故悟れないかへの答えです。 日常的な会話として普通に「無い」と口にする平坦さで宗教的な無に接することが出来ればいいんです。 普通に「無い」がわからない馬鹿さ加減を自らが内包しているとは信じがたいかもしれませんが、そんな心の奥底に潜むそんな混沌がドグマです。

noname#96011
質問者

お礼

無は悟への過程で無が悟ではないと存じます。 正確には無ではなく「空」の事を言っておられると思いますが、「空」は悟の過程であると思っております。  「空」自体も座禅をしないとと解るものでは有りませんが、理屈に「空」なし、だと存じます。 禅の人においても本当に悟を得ている少ないと思います。 回答して頂きありがとうございました。

noname#100496
noname#100496
回答No.5

宗教では、人は、神の子と言います。なぜかというと、人は元は、神の世界にいました。ところが、脳に誘惑されて、脳の世界に入ってしまいました。そして迷い苦しんでいます。しかしやっと、苦しみから解放される時がきました。いよいよ2012年、人は、脳を分離して、神の世界にもどります。人類の幸福時代の始まりです。

noname#96011
質問者

お礼

そうですか。御回答頂きありがとうございます。

  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)
回答No.4

NO2です 智は何事においても大事ですが、智と言うものが心の問題の解決に最後の最後は役に立たない事に気づかない、知的レベルが高いとご自分で思ってる方に多いが為ではないでしょうか。 智、自体が苦楽、自他、囚われるのですから、自分を救うのに智を使うことが妄想であると気付かない為でなないでしょうか。

noname#96011
質問者

お礼

再び回答して頂きありがとうございます。 そうですね、一般的に人は智を使いながら欲が叶ったり、叶わなかったりしながら、なんとはなしの生きてます、一部の人は智を使い、離れた苦楽を一つにしようと、囚われになり鬱のなり大変な事の成りますですね。。   自分を救う為に智(苦楽)を放下著し、心の苦しみ悩みから解放されるのは。。どうすれば良いのでしょうね。肉体的な苦痛は解放さらません、当たり前ですが。   「心の苦しみ悩みから解放される」も微妙な言い回しですが。

  • QES
  • ベストアンサー率29% (758/2561)
回答No.3

人生そのものがすべて苦の連続であり、苦は人が物事に執着することから生まれます。 人は人、自分は自分と割り切ったら苦はなくなります。 もっともその人のために周囲の人々は余計に苦を抱えることになるかもしれませんが。

noname#96011
質問者

お礼

>苦は人が物事に執着することから生まれます。 確かのそうですね、男女の恋愛でも失恋した当初は、心は異性の執着し苦しいですが、時間と言う妙薬が、自(みずから)癒さなくても自(おのずから)から癒してくれますものね。 >もっともその人のために周囲の人々は余計に苦を抱えることになるかもしれませんが。 そうですか。。 回答頂きありがとうございました。

  • owata-www
  • ベストアンサー率33% (645/1954)
回答No.1

欲があるからです

noname#96011
質問者

お礼

「欲」ですね、確かのそうですね、こいつ「欲」は厄介ですね。心の何処から遣って来るのでしょうね。    回答頂きありがとうございました。

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