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武士政権が天皇家を潰さなかったのはなぜ?

源頼朝から明治維新まで武家の長である将軍家が政権をにぎっていましたが しかしその間、天皇はその将軍家の君主として滅びずにあり続けました。 これは何故なのでしょうか? かつての王家が名目だけ残る、というのは、実質上のトップである将軍家にとってやりづらくはなかったのでしょうか? 天皇家を存続させるメリットや、潰すと起こるデメリットなどがあったのでしょうが 考えをめぐらせてもピンと来る答えに行き着きません。 もし「これだ!」というものがあれば教えて下さい。

  • nyamuo
  • お礼率87% (146/166)
  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Tacosan
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回答No.4

まず歴史をひも解いてみますと, 平安時代に「摂関政治」が始まって以来, 天皇が権力を持っていた時代はほんのわずかしかありません. 白河上皇の院政期と後醍醐天皇の「建武の新制」, 明治天皇の一時期 (憲法ができるまで) くらい? ということで, 鎌倉幕府成立時点で既に天皇は「権力を認める背景としての権威を保持する機関」となっています. そして, 武家政権を確立した平氏・源氏ともに「武家の棟梁」として認められたのは「貴種 = 天皇につながる血を持つ者」であるところが大です. つまり, そもそも権力を持たない天皇をつぶすメリットはありません (天皇家をつぶしたとしてもそれに代わる権威が得られるわけではない). むしろつぶしてしまうと, 自らの権力を認める権威が失われてしまうこと, そして自らの棟梁としての正当性を失うことにより, 2重の意味で自らの権力基盤を失うことになってしまいます. であれば, わざわざ手をかけてつぶすよりも手の上でコントロールしていた方が簡単です.

nyamuo
質問者

お礼

なるほど 月と太陽のような関係でしょうか 月が太陽を壊しても、太陽にはなれないし 自らの光源をなくすことになる なんか我ながらうまいこといいました(笑)

その他の回答 (9)

  • IXTYS
  • ベストアンサー率30% (965/3197)
回答No.10

時の権力者は天皇の権威を利用するだけ利用し、必要なくなると人知れず始末しています。  108代の後陽成天皇は信長、秀吉、家康と三代の権力者に権威を与えています。 家康は自分の出自を知られており、この天皇は座敷牢に入れ、皇太子を即位させ後水尾天皇としました。  しかし、公家諸法度で天皇家の石高を一万石に抑えています。 さらに家康は二代将軍秀忠の娘をこの天皇と嫁がせています。  しかし、中宮の膨大な持参金は持たせていますが、天皇家への資金援助は一切しない。 さらに薬師(くすし)を送り込んでいます。 彼らの真の任務は、天皇が側室に生ませた19人の男の子を密かに始末すること。 こういう扱いの最たるものが、薩長の孝明天皇への態度です。 薩長同盟が成立すると、公武合体論は邪魔になります。 この論の提唱者である孝明天皇は最早必要はなくなる。 都合の良い時、この天皇は病死(されたといわれています。) さらに皇太子の睦仁(むつひと)親王も、御所で蹴鞠に興じておられたひ弱な皇太子でした。 しかし、明治二年旧江戸城に白馬に乗って堂々と入場なさった時には、体重90キロの偉丈夫でした。  要するに誰が天皇であっても、時の権力者は意に介しておりません。 力で押さえ込んで、自分の意図した動きをさせ、都合が悪くなると、密かに始末しているのです。   

nyamuo
質問者

お礼

天皇の権威を残して利用する、という説の最大活用ですね こういう暗殺だとかドロドロした権謀術数バナシ大好きです(笑) 4ヶ月以上お礼をつけずにいてすいませんでした たくさんの回答をいただき、ありがたく思っております。

noname#79435
noname#79435
回答No.9

狩猟民族と農耕民族(従属性が強い) 特に日本人(日本民族とは、誰なのか?)の大本の人々(土着の)は従属性が強かったのでは無いかと考えます。 従って、天皇(9代目までは、神話なので実在しない)の元となった人種は戦いを好む人種で、土着の人間は簡単に征服され自ら従属性を発揮し従う事で生き残る道を選んだのでは無いかと思います。 たとえ、武家が絶対的権力を持っても、国民(民衆は)が天皇に従属したがって居れば天皇家を放逐又は滅亡などしたら政権を維持出来なかったのでは無いかと考えます。 --- 今の日本人(日本政府も)が、アメリカに従属的であるのも、そうした国民性(民族性)がさせて居ると考えます。 --- 実際の天皇家と言う血筋は今上天皇(125代目)と言われて居ても途中が、ぐちゃぐちゃなので純粋な血統では無いかも知れませんが、兎に角日本民族は、お上が居ないと安心出来ない(誰かに従って居たい民族)と言う経緯が、2668も続いて現在に至って居るのでは無いかと思います。 ---- 憲法上からは、天皇は政治に関与しない事に成っていますが、政治家が大臣に成れても、天皇の認証が無いと、実質的には大臣と認められない。

nyamuo
質問者

お礼

日本人は従属性が強いから、お上をいだくと安心できるから ということでしょうか ではなぜ、時の権力者が勃興しても、旧勢力である天皇への従属が残っていたのでしょうか 「今の日本人(日本政府も)が、アメリカに従属的である」ほどに柔軟な従属性を持っているのに

noname#186176
noname#186176
回答No.8

天皇家が潰されなかった要因の一つとしては、天皇が神事を取り扱うが故ではないでしょうか。神主のもと締めみたいな天皇がいないとうまく治められないと考えたのかもしれません。 もう一つは、大学の講義の時に聴いた話ですが、天皇の権威を利用するためにあえて天皇家を残したという考え方です。幕府を開く時に、京都の人たちや他の武士集団、庶民などに自分が日本を治めるのは国の主である天皇に任されているからだ。と、周りにアピールすることで自分の統治を正当化するためだと聴きました。 天皇家を潰すと、京都を中心とする町衆や他の武士集団から、大罪であった主君殺しをしたとみなされ、自分が攻められて滅ぼされる可能性があったのではないかと思います。 もしかしたら、他にもメリットとデメリットがあるかもしれませんね。

nyamuo
質問者

お礼

権威を利用しようとした、というのは確かに説得力がありますね 潰すよりも、手を組む方が楽だし危険も少ないですね 神事を扱うから、という考え方もうなづけます

  • teccrt
  • ベストアンサー率35% (91/257)
回答No.7

やはり、ひとつの社会をまるごと新しい権威に従わせるというのは大変なことなので、天皇家を残した方が楽だったのだと思います。 例えば、織田信長が天皇家を滅ぼす意図があったかどうか分りませんが、世の中を完全に作り変えようとしていて、相当苦労しています。 彼の戦国大名としての力が大きくなると、石山本願寺や比叡山などの宗教勢力をも潰しにかかりますが、石山本願寺は結局10年間闘っても潰せず、和睦という形で終結しています。 武田や毛利、上杉といった名だたる戦国大名を圧倒した信長でさえ、これだけ苦労しました。 天皇という権威を仰がずに、すべてを自分の権威の元に置こうとすれば、武人同士の争いに勝ち残るだけではなく、宗教勢力・都市勢力と言ったこれまでの既得権益集団のすべてと争わざるを得なくなり、膨大なエネルギーと時間が必要になってしまいます。 その代りに、天皇を担げば、こうした自分たちとは違う分野における既得権益集団権利を一部認めざるを得ないかわりに、政治の実権を握る武人として彼らを従わせることができます。 この損得勘定の結果、天皇を残した方が良いという判断が代々続いてきたのでしょう。 単一民族で、外部から侵入者の少なかった日本だから維持できたシステムだとは言えますが。

nyamuo
質問者

お礼

世界はひとつのようにみえて、横から見ると何層も世界があるということですね 違う層まで支配できるような人間がいなかったということでしょうか すいません、少し回答者さまの意見とはズレた解釈をしたかもしれません しかし新しい観点からこの問題を見ることが出来ました

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.6

日本史の中で考えるとなかなか思いつかないが、世界史の中で考えると、それなりに長く続いた王朝が亡くなるというのは大変な出来事です。 イスラム圏のアッバス朝 ムハンマドの叔父の子孫から始まり750年から実質的な支配王朝でした。9世紀にはバクダッド中心の地方権力に陥り945年にブワイフ朝のもとでの宗教権力だけになりました。しかし、1258年にイスラムを全く信じないモンゴル人が来るまで続きました。400年にわたって権力を失ってから存続し続けました。 そのモンゴルもチンギスハンの後、チンギス統原理が20世紀の頭まで生きていた。なくなるのはチベット仏教の大義が上回ってから。 現在のイングランドの王朝もノルマンコンクウェスト(1066年)から続いていることになっており、そのノルマン王朝でさえ、その前のイングランドの王朝との血縁を根拠に征服しています。 こうしてみると、中国や朝鮮の王朝交代(易姓革命)の方が、世界史的には珍しく見えてくる。 で、中国を考えると、中華民族というのが太古から延々と続いているのではなく、多民族国家の最強者が交代していたことが、前例となって王朝交代がルール化された変わった文化を持っているのではないかと思う。つまり、殷王朝は打倒されて周王朝になったが、殷は商として存続し続けたわけです。時代は全然違いますが、ハプスブル家の代わりにフランスのヴァロア家が神聖ローマ皇帝になりえました。フランソワ一世は実際に神聖ローマ皇帝の候補でした。もしフランソワ一世が神聖ローマ皇帝になって、現在のフランス=ドイツあたりが同一の政体になり、ハプスブルク家がウィーンあたりの王家として残るというのが、殷周の政権交代に似ています。そのくらい民族も歴史も違っていた。

nyamuo
質問者

お礼

なるほど 権威はまったく別の世界が現れるまでは消えないということでしょうか 島国である日本にとって、同じ世界同士で権力争いをしている以上は 天皇の権威が消えることは無い、ということでしょうか

  • kensan39
  • ベストアンサー率13% (227/1648)
回答No.5

ごく当たり前のことです 一から作るのは簡単ではないのです 今のイラクを見ると理解できるでしょう 日本に最初から権力を作るのは大変なのです 日本に末端に権力を教える必要がないのです 天皇もその権力を作る為に 大変な力が必要なのです 一度作ると壊さない限り永遠に続くのです 今の日本もその権力で動いています まだ一度も壊れたことは有りません いつ誰が作ったかは誰も知らないのです でも誰も盲目的に従います 天皇もその権力の中にあるのです 都会ではあまり気が付きませんが 田舎に行くとその中に無数のほこらがあります 全部誰もなぜかは疑いません でも誰も壊すことは無いです それを壊すと秩序が乱れる事をみんな理解しているのです 今日本でこの権力を握っているのは公務員です 彼らはそれに気が付かず盲目的に動いています 実際は日本人が一人一人が小さな権力を持って動いているのです それを誰も壊しません 壊そうとするとこの小さな権力が抵抗します 天皇家に権力が有るわけではないのです 彼らもこの小さな権利者に 動かされているのです あなたは今年もテレビで見たでしょう 今年は5回出られましたが どちらが権力者でしょうか 上にいる人下の人 それとも誰が盲目的に動かしているのですが

nyamuo
質問者

お礼

他国では、新たに権力をつくって壊すの繰り返しですよね? 日本でも、武家の中では権力が生まれては壊されていきました 天皇だけがこの権力争いの蚊帳の外にいられるのはナゼなんでしょう? 革命者のほとんどは、ほこらを壊し、自らのほこらを作りました 秩序を乱そうとして乱しているように思えます 将軍たちは、小さな権利者のパワーをなぜ独り占めしなかったのでしょう?

  • nemosan
  • ベストアンサー率22% (582/2598)
回答No.3

もし平将門(新皇)が日本を統一していたら天皇家は滅んでいたでしょう。 けっきょく強力な武人が天皇を殺して天皇制を廃止しても、 対抗勢力が新天皇をでっち上げて連合を組み反乱するだけなので 将軍が天皇を自身の権威付けの為に飼い殺しにするのが得策だった・・・。

nyamuo
質問者

お礼

天皇を廃しても新しい天皇が出てくる・・・ これも面白い考え方ですね まるでゲリラですね ゲリラを退治するには、根こそぎ退治するか、懐柔するしかない 将軍は懐柔するほうを選んだ、ということでしょうか 平将門が日本を統一していたらどうなっていたか これを考えるのも歴史のロマンですね

  • goold-man
  • ベストアンサー率37% (8365/22183)
回答No.2

民衆(日本人の)の朝廷に対する信頼。 朝廷を敵にすると逆賊の汚名をきる。(最後の徳川政権が倒れたのも逆賊になった、錦の御旗に刃向かえなかったから)

nyamuo
質問者

お礼

これなんですよね。民衆の信頼。これがやっかいなのです。 これが、文字面は理解できるんですけど、実情としてピンとこないのです。 この信頼は、どこから生まれるものなのか? これがハッキリすればスッキリするのですが

  • kt1965
  • ベストアンサー率34% (116/339)
回答No.1

政治システムの歴史を勉強すると分かりますが、故丸山真男東大名誉教授が書いておりますが、「天皇家はブラックホール」という論文に明らかです。 権威を天皇家が、実務を武家政権が担うことで、相互に利益のある関係が継続したためであると推定しています。 これは、中世から近代に及ぶ文化の都が京都公家文化にあって、実際の政治実務は武家の政権がおかれた各都市が担っていたということから明らかです。実際に資料調査などをしてみると分かりますが、室町幕府に関しては、公家政権と武家政権が駆け引きをしている中で、「応仁の乱」が起こり京都市中が乱れ、乱世に入ったのは事実であると思います。現実には、武家政権が行政として行ってはいけない、高利貸しを足利義正の側近が権力中枢に居るために行い、それが人々の知るところとなり、乱へ至ったという事実もあります。 天皇家の場合には、鏡・剣・勾玉という神器を保有していました。それぞれの意味は、鏡が良心を映し出すもの、剣が軍事を表し、勾玉が技術を表します。それらの象徴として、軍事を武家政権に委ねる。歴史上、明らかですが、平家の壇ノ浦の乱の後、剣は失われています。 つまり、初期においては剣の役割を武家政権が担い、その後・・・どんどん象徴を武家政権に委ねたことが、日本の政治システムの流れであった。確かに、何度も巻きなおしはありました(後醍醐天皇の天皇親政、明治の天皇親政など)が、実際にはどんどん行政の役割が代わり、政治と行政の間における緊張関係が政治システムを駆動する原動力になっているような気がします。

nyamuo
質問者

お礼

ありがとうございます パスワードを忘れてしまい今まで回答できていませんでした 回答者各位には深くお詫び申し上げます お互い、「あっちはオレの領分じゃないから知らないよ。必要な時だけ会いに行くよ。」ということでしょうか? 明快な回答ありがとうございます

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