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ウィトゲンシュタイン

ウィトゲンシュタインの前期の意味の対象理論に対する後期の批判について、簡潔に説明していただけますか?(@_@;)

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回答No.1

前期では、全てを科学的に、論理的にみようとしすぎていた。それは考えてばかりで、何にも証拠がない古い哲学のダメなところを批判するためだ。 具体的には、言葉とその意味の対応をきっちり守らせようとした このやり方は確実な考えを得るにはそれなりにいい方法だったけど、美しさと幸福といった曖昧な意味について語ることは出来なかった。そんな物は非科学的で認めないって感じで。 そんな偏った考えばかりでは人間的な感情とかをおろそかにしてしまうので、もっと人間らしくアバウトにいこうってことになったのが後期ウィトゲンシュタイン。 もちろんただアバウトにやろうとしたわけでなく、言語ゲーム等の理論を使い、そのアバウトについて科学的に考えていく理論も作ってた。 それが分析哲学って言う、現代哲学の大きな流れの一つの始まりだった。

pipi0726
質問者

お礼

contismerさん、ありがとうございます。 大学の試験で300文字以内で書かなければいけないんですが… 先生が配ったレジュメでは内容が理解できなくて、困ってます。 ここは抑えておいたほうがいいというところはありますか?

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