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どうして十字架?

 本日、http://kikitai.teacup.com/qa4527989.htmlにおいて、十字架のことが質問されておりました。  イエスが架けられたのは、十字架という認識が多いと存じますし、そういう言葉でいろんな表現や言い回しもされてきているのは事実です。  1. それとは別に、歴史的或いは信仰や哲学の上で、イエスが架けられたのが十字架であるのか、そうでないのかというは、何かの違いを生ずる事柄なのでしょうか?つまりなんで問題なのでしょうか? 2. それとも本当は十字架ではなく、異なるものであったということになれば、伝えられる聖書の内容に、あぁこれも間違いか誤記だったのだな、というだけのことでしかないのでしょうか?

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  • kigurumi
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回答No.5

kigurumiです。 いえ ヨセフという単語じゃなくて ピムだったか、そんな単語。 それをもってヨセフは大工だとなったようなんです。 現代では「おもしろい」って<笑える>って意味ですが、昔は<興味深い><おもむきがある>という意味で使われていましたよね。 このように、単語の意味は変化するということを考慮しないと、誤解が生じる。 あの画像は・・・長いです。 海外サイトなので、読み込みも時間かかります。 右にずらすと、また読み込みに時間かかりますが・・・ ちなみに画面の下にバーがあり、その上にマウスをもってくると、マウスが選択に変化すると思います。 そしたら、左ボタンを押したまま、右のずらせば、先に進みます。 ニコニコ動画でも同様の動画がアップされていますが、著作権問題をクリアーしたのか、また 自由に配布していいと許可されたものかわからないので、本家のサイトを貼り付けました。 >私も黒白をしっかりさせて、固定観念にして何でも判断して、生きている自分をいつも、つまらないやつだなぁと思っています。 いや わかりますよ。 法則を発見した方が無駄なところ掘らなくて済みます。 無駄な苦労や遠回りをしたくないのは、誰でも一緒。 古代の人もそうで、法則があるはずだとなり、天体の星の運行を観察し、種まきの時期を知ったわけです。 さらに、天空の運行から、未来の不幸から回避しようとしたと思えます。 律法は、集団を統率するのに有効。 価値観が違うために衝突するのであれば、集団内 同じ価値感であれば、衝突も少なくなる。 小さな集団の時はそれでよかったが、文明が発達し人口が増えると、いろいろなケースが出てくる。 イエス作家の物語では、姦淫をしたとされた女性がまさに石打ちの刑に処される場面で、イエスが通りかかって救ったことになっている。 どうして女性は姦淫をしたとされたのかは、語られていない。 例えば夫を亡くした妻が、他の男を見ただけで、既に心の中で姦淫をしていることになるのか。 レビレート婚ができた理由の一つは、古代は女性に相続権があったので、嫁ぐときに女性は財産を持ってくるわけです。 その財産は女性が死んだら子供に移る。 夫を亡くした妻が、別の家に嫁いだ場合、嫁入りとして持ってきた財産を持っていってしまう。 それをふせぐために、未亡人は同じ家系の人と再婚しなければならないとしたのではないのか。 未亡人が他の男と話をしたら、その男と結婚するかもしれない。 それじゃ夫側は困る。 財産が他に流出しないためには、疑いのある未亡人の嫁を殺してしまえば、財産の流出は無くなる。 そのために、未亡人が他の男を見ただけで、姦淫をしたとして処刑しようとしたのではないのか。 さあ 神よ 姦淫とはどういうことか答えてください。    神は無言。 しかし、律法学者は律法の研究家ですから、律法学者の決めたことが、集団内の法律になる。 法律では、他の男を見たから律法の姦淫禁止に抵触したことになり、処刑でしょう。 でも、本当にそれでいいのか? イエス作家は機転を働かせたわけです。 ルールに違反したとされる人をイエスに救わせ、命の大事さを解いた。 他の箇所でも、神は人間が律法を守るより、命を大切にと考えるはずだ と律法学者の律法違反の指摘に対して答えている。 ユダヤ人は一日だけでも1000以上のルールを実行しているそうです。 神のように過ちを犯さないために、そうやっているらしいです。 でも、それでも、人間なので律法違反をやってしまう場合もあるでしょう。 朝寝坊してお祈りをしそこなったとか、事故でお祈りができなかったとか。 じゃあ 不信仰者かというと、そうじゃない。 でも 罪は罪? じゃあ 一年に一度、贖罪をし、一年の罪の穢れを祓おうとなったわけです。 これが贖罪の日。 そして民族全体の穢れは大贖罪の日に、大祭司が行うことで、民族は浄化し、新年を迎える。 日本だって、年末大掃除してチャラにして新年を清く迎えるという風習がありますよね? イエス作家は、恐らく罪は人が作るのだと思っていたのではないかと。 <人を裁くな。 自分が裁かれないために> 日本の法律でもそうです、訴えられなければ、罪に問われません。 例えば、過失があったとき、誠心誠意謝罪して、誠意が伝われば、被害をこうむった人に訴えら、裁判にかけられるってことはありません。 聖書でも、神に祈るより、まず、被害をこうむった人に詫びに行けとなっています。 こういう誠意がある集団なら、逆に自分が誰かに被害を与えたときも、裁判にかけられ罪を問われなくて済む社会になり、信頼関係を保てる平安な世の中になるってことです。 律法学者はイエスの行動の詳細にまでチェックを入れて、厳しき判定をしすぎた。 検事のような人たち。 イエスは弁護士の立場。 検事と弁護士が激しくぶつかるのが、新約聖書の内容。 子供ができない人は罪人、病気の人は罪人、そうやって自業自得だと他者を省みない集団に平安が訪れるのか? イエス作家は、これじゃあ 真の平安は訪れないと考えたのではないか と。 例えば、病人を運ぶため、スピード違反をしたとします。 一刻を争う状態で、道はすいていてガラガラ。 猛スピードで走っていたら、パトカーが止めて、「病人を運んでいる? ルールはルールです。はい免許証見せて」とやったら。 この免許証見せての法の番人が律法学者。 悲しいですよね。 こんな無常な世の中が完璧な理想的な社会だとし、妥協を許さない厳しい社会を人間が望むのだから。 このルール一辺倒のロボットたちに、話をしても無駄。 人間とはもやは呼べない彼らに心は無い。 新約聖書は、ルール一辺倒な社会に対して風穴を開けた。 だけど、革命じゃなく、クーデター。 頭が摩り替わっただけの恐怖政治は今も続いている。 奴隷解放されていないんですね。 この恐怖政治に対して、風穴を開けるのが、紹介した動画。 人々の中には、恐怖の大王による呪縛から開放される人もいるのではないかと。 動画で十字架が何のことかおわかりになると思うし、どうしてそういう神話が紀元前 何千年も前から繰り返し語られるのかもわかると思います。

krya1998
質問者

お礼

【その財産は女性が死んだら子供に移る。】  レビレート婚にはなんとこういう財産問題もあったとは、聖典の読み方も改める必要があるのですね。 【そのために、未亡人が他の男を見ただけで、姦淫をしたとして処刑しようと】  ありうる話ですが、これも現実を生きるという必要の中の事柄だったのですね。無言の神を代理して、律法学者が法律を確定する。実はこれは本当だと存じます。私はこの人生の前にはそういう職務にいた記憶があります。イエスとは敵対的であった記憶が残っています。 【ユダヤ人は一日だけでも1000以上のルール~~~】  私自身の生活ですね。  度々ありがとう御座いました。これから更にあの動画と対話させていただきます。

krya1998
質問者

補足

 kigurumiさん、たびたびありがとうございます。  私事にわたりますが、ここちょいと身体機能が低下していて、時に不義理がありましてどうかお許しください。いかに叱咤しても限界というのはあるものですね。 【ピム】。これも大工に関連する単語なんですか。  先ほどのモーゼがエジプトの建築業者、っていうお話で、何かメソニック関係を連想しました。これは単なる乾燥ですけれども。麻布か乃木坂にその本部がありますが、石工職能団体からの長い歴史文化団体ですよね。どうも関連があるのかな。 【現代では「おもしろい」って<笑える>って意味ですが、昔は<興味深い><おもむきがある>という意味で使われていましたよね。このように、単語の意味は変化するということを考慮しないと、誤解が生じる。】  はい、言語の意味内容も、意味内容の受け取り方も、その心理的効果もどんどん変化しますよね。しかも廻りの状況や置かれる環境も。気持ちへの影響も。それですから、史料や歴史を読んで、現代の意識で、とやこう評論したり、判断するのは当を得ないことも多々あるでしょうね。個人でも昔の自分の心理や状況を度外視して悔やんだりしたりしてますが。歴史認識の困難さは、事実の確認の難しさのほかに、受け取り方の難しさもありますよね。 【あの画像は・・・長いです。】  はぁ何とか面白く拝読しはじめました。影のグレーになっていて、触らなかったものですので。不完全とはいえ、一応信仰するものがあるのですが、勉強になります。 【律法は、集団を統率するのに有効。】   はぁ、そうですね。規格ですからね。 【イエス作家の物語では、姦淫をしたとされた女性がまさに石打ちの刑に処される場面で、イエスが通りかかって救ったことになっている。どうして女性は姦淫をしたとされたのかは、語られていない。】  ずいぶん欠落したところがあるのでしょうね。 【レビレート婚ができた理由の一つは、古代は女性に相続権があったので、嫁ぐときに女性は財産を持ってくるわけです。】  やはり、原初は母系社会的かもしれませんね。男の変形がおんなではなく、女の変形が男かもしれないですね。太極から出るのが、最初は陰であるし。シャンタヌから出るのが、ガンガなる女神で。天照は一応、長女ですが父母はもう不可視的存在ですよね。

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  • kigurumi
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回答No.4

律法学者という職業がありまして、例えば十戒に「姦淫してはならない」とあるが、この姦淫とは何か と研究するのがお仕事。 研究の成果が、法律になり、レビレート婚ができたりする。 夫を亡くした妻は、その兄弟と結婚をしなければならない。 再婚相手との間に生まれた最初の子供は、無くなった夫の子供。 従って亡くなった夫は、その生まれた子供の中で生きつづけていることになる。 もし、別の男と結婚したら、夫は生まれ変われなくなる。 だから、他の男と結婚した未亡人は、姦淫をしたことになる。 ヘロデ大王は、洗礼者ヨハネから姦淫をしたと断罪されたのも、似たような理屈。 杭なのか十字架なのか、はっきりしないと、法律が制定されないとして、困ってしまうのは、法律家。 律法学者に白黒はっきりつけてもらう必要があり、だから律法学者たちは、杭なのか十字架なのかが重要なわけです。 その律法学者や議員やパリサイ派とどんぱちやったのがイエス作家。 つまり、イエス作家が嫌うタイプが、杭なのか十字架なのか、はっきりさせたがる人種。 不思議なものですよねぇ。 キリスト教信者は、イエス作家が嫌うタイプが多い。 聖書を読めば、わかりそうなものなのに・・・・。 信者は聖書を読まない? いや 読めないのかも。 文字だけ読んでて、作家の真意を行間から汲み取れていない。 >それとも本当は十字架ではなく、異なるものであったということになれば、伝えられる聖書の内容に、あぁこれも間違いか誤記だったのだな、というだけのことでしかないのでしょうか? えっとイエスの父親ヨセフは、大工だったというのが定説ですが、語彙から大工だとされたようなんです。 ところが古代ではその文字は、測量の単位とかだったらしい。 イエスの母マリアがどうして無原罪となったのかは、性交せずにイエスを妊娠したから。 イエスはベツレヘムで生まれたことになっています。 でも、これは地上には無い。 処女宮=乙女座 別名 ベツレヘム(パンの家) だから、イエスはベツレヘムで生まれたって物語ではなっているわけです。 謎解き 面白いでしょ? さて、ピラトはローマ帝国に逆らう疑いのあるものは、裁判なしに処刑をしていた人物だった。 聖書では、ピラトは裁判でイエスと会い、話をし、「この人に罪は無い」と判断し、処刑されないようにと苦労したと描かれているが、実際のピラトは、疑いがあるだけで裁判無しに処刑してしまう人物だった。 ちなみに当時、政治犯は十字刑だった。 イエスは政治犯だったってことになりますね。 ローマにたてついたってことでしょうか。 いえいえ ローマにたてついていたのはヘロデ党。 シモン(ペトロ)はヘロデ党だったような。 シモンの身代わりに?  聖書ではイエスが捕らえられ、シモンはやめさせようと、ローマ兵の耳をそぎ落としているが、何故ローマ兵はシモンじゃなく、イエスを最初から政治犯として捕らえる必要があったのでしょうねぇ。 ヘロデ党のリーダーだと思われたたのか。 じゃあ その一派のシモンも捕らえればいいのに。 実際の歴史では、ゼロテ党を甘く見たローマ帝国は、一度戦争に負けてますね。 それで、各地に散らばった軍隊を集め、エルサレムを砲撃し陥落させた。 これは史実ですが、イエスのことについてはこの歴史の流れにに一切出てきません。 だって古代よりある神話の焼き直しだから。 <Zeitgeist> 時代精神。 過去の時代精神がキリスト教信仰に代表される神話郡。 では、今の時代精神は。 http://www.zeitgeistmovie.com/subs.htm のJAPANESEの(1)の映像をご覧ください。 前半部分は人を救うとする宗教による戦争映像なので、関心がなければスライドを右にずらじ、飛ばしていいと思います。 イエスの正体がわかります。

krya1998
質問者

お礼

 kigurumiさん。いつものように該博なお学識からのお教えに感謝申し上げます。  kigurumiさんとはどういうお方なのか、まことに興味のあることです。  私も黒白をしっかりさせて、固定観念にして何でも判断して、生きている自分をいつも、つまらないやつだなぁと思っています。  イエス作家が嫌うタイプです。聖書自体は引用があると其処だけ、本文を参考にしながら読んで、あぁそうだそうだで済ましています。聖書そのものから何かを受け取ることは難しいのです、解説がないと。  この前もレビレート婚について教えていただき、今回それといわゆる姦淫、夫の継承、つながりという考え方も教わりました。マハバーラタでもヴィアサが異父弟の未亡人二人と交わり、ドリタラシュトラとパンドゥを儲ける話があり、重要なことですが、この辺のことの理解も更に持つことが出来ました。

krya1998
質問者

補足

 本当にイエスって、歴史的な記述としては少ないそうですね。あぁ出てきていいはずの歴史の舞台には出てこないということなのですね。  話が飛躍するのですが、聖徳太子やクリシュナなども。  だから仰せのようにイエス作家ということば選びすると、見えるもがあるのですね。ヨセフという文字表現は、古代の測量の単位とは面白いし、無原罪の出産、地上に無い場所。そういう認識で受け取ることができると、違う聖書が出てきますね。  ​http://www.zeitgeistmovie.com/subs.htm​なんですけれども、画面をもっと研究して、仰せの右にずらす仕方を会得しないと勉強が出来ません。今行を終わって、パソコンを起動したばかりですので、近所の掃除んど担当家事をやってから、また研究したいと存じます。  いつも貴重なお話をありがとう御座います。  イエス作家という言語使用はいいですね。何か見えてきますね。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

 『十』というものをそういうものの象徴とすることは、後年の理知的解釈であろうと、推測申し上げます。 参考程度に追伸:残念ながら、 仏教にも同じく「不立文字」の「十」はあるんですよ。禅宗であれば、 「諸行無常」が時間縁起、「諸法無我」が空間縁起と見立てその交差点に「涅槃寂静」の境地があることがわかるでしょうかね。これ十字なんですね。イエス生誕の500前から十字は宗教的「不立文字」なんですね。 山門の「あ像」と「ん像」が「あるふぁ」と「おめが」の意味で、それが何を意味するかも「不立文字」なんですね。老いて学ぶこともいいことですね。

krya1998
質問者

お礼

 該博なるご藏識からのお教えを感謝申し上げます。  仏教の十字の「不立文字」が、禅宗にある、「諸行無常」と「諸法無我」縁起、そして交差点のに「涅槃寂静」境地というのはとても身に染みる思いが致します。  境界的交差、原理・当為意識の交差としての十字とも感じられます。  イエス生誕の500前から十字は宗教的「不立文字」なんですね。  そうですね、経験・実感、自分の意識意志のフィーリングの次元のことがらですね。  阿吽、オウム、フーム、アーメン、アルファーでありオメガ。真言密教では、おん。というのがりますね。オン サラヴァタタギャーター ・・・っていうのですね。  そして十字。  だんだん繋がりますね。太極からの最初に陰なる母、ガンガであり、サティヤヴァティですね、そして陽ですか。  創造のありようですね。現象の。意識というものの。  これはフィーリングの次元、信仰問題なのでしょうね。  ありがとう御座いました。

krya1998
質問者

補足

 mmkyさん、ここの欄をお借りします。mmkyさん、kigurumiさん貴重なお知識でのお教えを心より感謝申し上げます。  信仰っていうものの発達、変化はわかりませんが、神学や理論は発達というのか、後付的解釈というのがありましょうね。象徴とか、意味性などはそういうものであることが多いでしょうね。  日本の幕政時代の刑吏(役人ではない、むしろ階級外のかた)などの執行でも、やはり、心臓を一突きにするためには手を広げた形が望ましいでしょうね。いずれにしろ、磔柱で、苦悩・苦痛をどこまで感じているかはわかりませんが。イラクのフセイン氏が曳かれている写真がありましたが、もう意識の存在が拝見・確認ができないですね。  でも十字の観念が無くても、磔刑の刑執行の場合はそういう配慮がされたかもしれませんね。  kigurumiさんの、神話やイエスの伝説、聖書の成り立ちについてのお教えは大きく首肯しております。然(さ)ありなん。  私たち不合理な信仰者は、この地上的存在が存在の全部ではないという理解をしておりますし、むしろ地上的存在は仮初的、幻影的という言い方を聞いております。  ご両所には心より厚く御礼申し上げます。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

どうして十字架? 十字には意味があるのですね。十字の「1」はこの世とあの世を貫く「空間」という意味ですね。「-」は過去現在未来を貫く「時間」という意味ですね。空間と時間の交差点に誰しも存在する「イエス」もまた存在したという意味ですね。だから単なる「杭」では意味をなさないのですね。これ私が言っているのではないですよ。「イエスやその父」ご本人がそういってることですからね。宗教には文字に表せない悟りというものがあるんですね。十字架は「不立文字」のひとつということですね。 それからnacamさんの回答もありますので、追加しますと、 ローマの館からゴルゴダの丘(現在、その場所はギリシャ教会になっている)までの長い階段道を歩いてみることをお勧めしますね。何が起きたかが手に取るようにわかりますから(少なくとも私にはわかりましたが)。つまり、イエス最後の時には12人の弟子はいなかったんですね。どのように聖書を読もうが解釈しようが新約聖書にいる弟子はそこにいなかったそれが事実なんですね。つまり文字からではわかりようがないといいたいだけですね。わかる人の言葉を信じなさいということかな。

krya1998
質問者

お礼

 ありがとう御座いました。  空間があの世とこの世を結ぶのですか?そういう空間があるのですね。虚空やアカシャではなく。  ここに存在とここでない存在を結ぶ、あるもの。これをご回答の中で「1」なる空間と言語表現しておられるのですか。  それは多分『境界』的なるものでしょうね。私は存在と非存在との境界にそういう『観念』を認めていません。神なる実在の観念しかありません。  時間と空間の交差ということの象徴なのですか。  私は時間と空間は経験世界の在り方形式ですので、一つのものだと存じております。  『十』というものをそういうものの象徴とすることは、後年の理知的解釈であろうと、推測申し上げます。  ありがとう御座いました。

krya1998
質問者

補足

 本日の本日、​http://kikitai.teacup.com/qa4527989.html​におけるエホバや一般のキリスト教の信徒ではありませんが、イエスのお導きを常に感謝しておりますものとして、私はこの象徴とか言われる事柄に少なからず思いが傾注しておりまして、お教えを請いました。  どうか今後もなにとぞご教導を賜ることを祈ります。  「不立文字」というおことばは曹洞宗の導きを連想しますが、およそ形而下足らざるを得ない、言語では「不立文字」である、というドァが立ちふさがるものですね。  臨済宗であれ、所詮真実は「不立文字」でありながら、その「不立文字」の中に両宗とも伝えることは伝わってくるのが、ここの「不立文字」とは異なるところですね。まことに。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.1

十字架は、単なる象徴にすぎません。 磔刑にされ天国に昇天したという事で、その象徴として十字架を使用しているにすぎません。 磔刑にされた十字架が、どのような十字架なのか分かっていません。 ローマ式のラテン十字なのか、ギリシャ式のギリシャ十字なのかも。 また、十字架でなくても、それを信仰する人にとっては、それが真実なのです。 天皇が神の子孫であると信じている人にとっては、それが真実であり、質問者が、どうこう言う問題ではありません。

krya1998
質問者

お礼

 ありがとう御座いました

krya1998
質問者

補足

 仰せの『十字架でなくても、それを信仰する人にとっては、それが真実なのです。』という意味は、信仰が真実とするものが信仰者にとって真実だというお言説だと読解しました。  『天皇が神の子孫であると信じている人にとっては、それが真実』にはそうだとする一定の意図や思想、信念があるのでしょう。  そうだという当為判断でしょう。現今も歴史的にもそれがそのまま事実であるとしてきた経緯は私は存じません。神であるとしなければならないという、当為規範でしょう。  『質問者が、どうこう言う問題ではありません』の中の“質問者”がこの私のことであれば、私は十字架の件については、上記の質問をしているのに過ぎなくて、何らどうこうは陳述してはおりません。  十字架と杭とでは信仰上、哲学上において重要な問題性があるのかどうかの質問であります。全く問題がないのであればそれでいいのです。  更に、仮に今多く通用しているかのような聖書の中の記述が、事実的には修正されるとしたら、聖書にどういう意味があるかのことです。つまり聖書はまた、修正されるべき箇所があるということか、そうではない。権威に揺らぎはないという擁護の問題になるかどうかの事です。  そういう内容以上の質問ではありません。どうかご理解ください。  なおご回答冒頭の、『十字架は、単なる象徴にすぎません。』は言語の充足がなく、意味不分明であります。  象徴は一定の事を、あるもので示す徴表です。  十字架が何を象徴しているかが書いてない以上は、このご回答の内容が無いものであります。申し訳ありませんがどうか、ご教示賜れば幸甚です。

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    聖書を材料とする、人類史の神話性と歴史性 さて、日本で文字である漢字が初めて導入したのは、仏典の輸入が動機であった。 仏教は当初貴族階級の教養であり、文字の導入でとりかかったのは、自国の神話と歴史を文字を活用して口伝伝承から明白な記録に改変することだった。 たいてい諸外国でも文字を学ぶ教科書は聖典を活用することが多い、聖書もその役目であり、明文化した過去記録が盤石であること自体が口伝文化では驚きであったため、聖書の解釈は自由、しかし聖書そのものは改変するな、こうしたしきたりができて、西洋の絶対の概念はそこから派生したのだろう。 さて、質問その1。 文字を導入する教科書に神や信仰について書かれたことが好まれる傾向を私は指摘しましたが、その類例や例外に関して何か証言をお願いします。 さて、世界を見渡すギリシャ神話とかは、すでに信仰の主流から外れた枯れた神話として引用されるだけだ。 西洋では、聖書というのは生きた神話といえる。 イエスを主人公にした神話であるために、あろうことか、イエス実在の確信すら疑問を持つほどに、神話性に関して各個人で交錯する思惑があります。 質問その2、 イエス実在への疑念について、何か参考として記述できることがあったらご回答として参加してください。 文字で記載された、神話と歴史の交錯する西洋の原点である聖書に関しては、イエスは頑然と絶対とまで言われて守られたからには、語られる証言は間違いなくイエスは実在したのでしょう。 歴史検証で、信仰と切り離してイエスのいきさつを考察すると、彼はほろんだ王国の信仰心の伝道師であり、文明勃興期の王と神の一元の時代そのままの風習が一般的な風土で、彼の語る聖職者としての真摯な言葉は、イエス自らが、ほろんだ王国の王であると名乗るのにも等しかったのだろう。そしてローマはイエスを反逆罪で処刑した。これは現代の法の精神でも不条理ではない。 当時はこの事実は宗教裁判ではなかった。 政治的な単純な反逆罪だった。 しかし、後世でローマ皇帝自体がイエス処刑に関して宗教裁判的に問いただされることになる。 ローマは、政治的にイエス処刑をユダヤ人に責任転嫁した。それは聖書にも記載されたことだ。 イエスは生きた人として、ユダヤの信仰のための聖職者だっただろう。 しかしよりによって、ユダヤをさらに抑圧するための「呪いの材料」に使われることになる。 王が主権を収める時代、国家主権全体の根拠は、「王と神一元に時代」の文明の共通する原点から根拠は神の存在や信仰の原点にさかのぼる。 ユダヤではなくて、ローマを原点にする限りキリスト教圏の古典的主権の根拠とは「裏切り者や卑怯者が作った国家群」ということになる。 我らは罪深いというのは、人類共通ではなくてキリスト教徒の精神的土壌として反映されたどうでもいい事なのだろう。 質問主題は、歴史的にイエスを考察した、最後の論考への意見募集です。 これらは基本的に、神話時代と歴史時代を横断して、王と神の一元の文明の根拠がいまだに揺るがない、日本という地上に存在する唯一の真の王国では、イエスの悲惨な末路は「ほろんだ王国の神話」として極めて重い精神的疫病であることから問題意識を持ちました。

  • 新約聖書は成立せずとの説について

     その基本的な内容をお教えください。  おおきな主題ですので 基本的な事項を掲げて その参照資料を挙げていただくかたちでもよろしいでしょうし。  あるいは 一つの項目について やはり基本的な内容はこうだと示してくださるのも ありがたいです。  なおわたくしは 仮りにイエスが実在の人物でなかったとしても あるいはまた 聖書がいわゆる偽書であったとしても そこに書かれたことがらは 信仰の現実的にして社会構造的なあり方を示していると捉えています。  これは しかも 信仰一般のことです。あるいはつまり 人間一般のふつうの歴史社会的な存在のあり方のことです。  さらにつまりはまた 信仰とは もしその内容が実現した場合には 消えてなくなるものです。その時には見えていなかったものが 見えたというのであれば もはや信じる必要はなくなっています。  なお このような見解に立って ご回答の内容について さらに説明の補足をお願いすることがあると思います。また 筋の違ったご回答については そのまま ご遠慮願うと思います。その点も お断わりしつつ。

  • 絶対とは不変の性質がありますか

    目の前の景色、過ぎて行く時。 移ろいゆく景色に変わらぬ愛を届ける、時を結ぶ渡り鳥。 栄光の初代男子プリキュア。 キュアブルームだ。 さて今回は、特に歴史性をこねくり回そうか。 絶対を合意できる何か過去の出来事があったとしよう。 たとえばイエスさんは確かに生きていたとかだ。 そして当時の法律で正当に処刑された。 新約聖書の記述でも、歴史的に間違いなく当時の正統な法の行使で、ユダヤの王と自らを名乗り、社会不安を扇動したからこそ処刑されたんだ。 このいきさつで西洋に根付いた絶対の見地は、イエスは間違いなく神の子であるという確信から絶対の神を導き出すという流れで、神学は哲学にも発展し、イエスは絶対の基準点になっている。 この固定化され、過去に埋没された絶対の不変性は、ユダヤの王を名乗った愚か者がまさしく事実として、中国語の天子に相当する神の子、正統な王だという聖書のごり押しに原点があるのではないか? 神に見放された最後の審判がどうのこうのも、このユダヤの王の正統が滅びた事によって想像力を膨らませた物語だ。 それらは現代で言うと、歴史に対する相対的見解の一つであり、哲学なり概念の絶対は根拠を神学から切り離して成立するほどの考察が成されてきたかが質問です。 イエスが神の子、正当なユダヤの王である事を不変と規定しない限り成立しない脆弱な概念ではないか? 納得しているのは西洋人だけだ。 そういう疑問点の質問です。 歴史的事実に対して、イエスは処刑されてしかるべき愚か者。 このように考えていると根拠が崩れるという話です。 裸の王様を笑った勇気あるいたずらっ子のつもりで質問しています。 キャーステキーと云うファンレターも歓迎します。

  • 聖書について

    テストでこのような問題が出るのですが、全くわかりません。 だれか分かる方教えていただけないでしょうか?? (1)ユダヤ教のメシア思想とキリスト教の「キリスト」理解の関係について。(「メシア」、「キリスト」の語義についても触れる) (2)新訳聖書の「福音書」について。(特に、「共観福音書」相互の文献学的関係がわかるように) (3)「ナザレのイエス」の生涯について。(歴史的イエス研究の立場から) (4)キリスト教の信仰対象としての「イエス・キリスト」について。 (5)キリスト教がイエスの十字架上での死の意味をどう理解したかを中心に、キリスト教の「贖罪論」について。 (6)エルサレム初代教会と、協会指導者としてのぺトロについて。(ぺトロについては、後のローマ・カトリック協会との関係についても触れる) (7)パウロの生涯、思想について。(パウロの思想の中心と言われる「信仰義認論」の内容が具体的に分かるように) (8)「ヨハネ黙示録」とキリスト教の終末論について。(「ヨハネ黙示録」の歴史的背景や精神的源泉についても触れる)