• 締切済み

懐疑論の意味をわかりやすく教えてください

辞書で調べたのですが 懐疑論 「人間の認識は主観的相対的であるとして、絶対的真理の認識の可能性を疑い究極的な判断を中止する思想的態度。懐疑主義。」 と表示されたのですが 僕にはさっぱりわかりません。 この意味を教えてください。

みんなの回答

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.1

懐疑するとは、自分がもうすでに分かっていると言うことを疑うことです。もう分かっていると言うものの中には、人の物を盗んではいけないとか、人を殺してはならないとか、私は今生きているとか、昨日私仕事に行ったとか、学校に行ったとか、それこそ全てを疑ってみることによって、自分が本当に分かっていることは何なのか、自分が分かっていると思っていたのに実はそれが誤解であり、自分は分かっていなかったのだということは何なのかなどを一つ一つ見つけて行く態度を懐疑論的な態度と言います。この態度を実際に実行して究極まで押し進めたのがモンテーニュの『随想録』です。この本はとても面白いですから、是非読むことをお薦めします。岩波文庫で手に入ります。超高等な話から超下ねたの話まで、人間の行為のあらゆることを一つ一つまな板に挙げて、これでもかこれでもかと、我々がもう分かっていると思っていた考え方を覆してくれます。 この態度を徹底的に進めて行くと、結局我々は何も分かっていないばかりでなく、何も結論を出すことができないと言うことになってしまいます。したがって、全てのことに対して判断を中止せざるを得ないと言う結論にまで到達してしまいます。事実モンテーニュは、自分の座右の銘は「我、何をか知る」であると言っています。今様に言えば、「私は何かを知っているのだろうか?」です。彼はもし誰かが「私は何も知らない」と言ったら、貴方が間違っていることを説得する論理を提示していますし、「私は何かを知っている」と言っても、貴方が間違っていることを説得する論理を提示してしまいますから。 このように、モンテーニュの出現によって、懐疑論は究極的には判断の中止という非生産的な結論を導き出すことになってしまったのです。ところがデカルトがその後それを逆手に取り、全てを疑っても、それを疑っている自分がいる事は疑えないと言う結論に到達しました。それを彼は「我思う、故に我あり」と表現しました。ですから、判断が一つで来たのです。そこで、デカルトの懐疑論は、建設的(あるいは生産的)懐疑論と呼ぶことができます。 デカルトは近代哲学の父と呼ばれていますが、この意味で、デカルトの出現を用意したのはモンテーニュなのです。ですから、近代哲学を本当に理解したいなら、モンテーニュは必読の書です。

lenalee770
質問者

補足

>>懐疑するとは、自分がもうすでに分かっていると言うことを疑うことです よくわかりました。ありがとうございました。 下まで読ませていただきました。詳しく書いていただきありがとうございます。 勉強になりました。 随想録 買って読んでみようと思います。 ちなみに人為的地球温暖化懐疑論 の意味が知りたくて質問させて頂きました。 本当にありがとうございました。

関連するQ&A

  • 懐疑論

      Wikipediaの懐疑主義の項目では、 「懐疑主義ないし懐疑論は、古代から近世にかけて、真の認識をもたらさない破壊的な思想として論難されることが多かった。これは、懐疑主義が、懐疑の結果、普遍性・客観性のある新たな原理・認識が得られなかった場合、判断停止に陥り、不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさをも疑うようになったためである。」 という説明がされているが、本当に、普遍性のある原理を得られないと直ちに判断停止に陥ることになるか?   「~という信念が正しいということを正当化することができるか」、「~という信念が誤っているということを正当化することができるか」という問い(「~」は同一の対象)を行い、その結果双方ともに失敗した場合、「~という信念が正しいということ、ならびに誤っているということを正当化することはできない」という結論が得られるが、ここでは「その信念を正当化することができない」という「理論」が打ち立てられるだけで、だから「実践」においては各人のかってであるということになる。   つまり、かってな判断はできるし、そもそも生きるという選択をした場合にはそうするほかないんだから判断停止になるとは思われない(なかには判断停止する人もいるかもしれないが)。

  • 哲学・懐疑論の人たちは科学や芸術をどうとらえているのでしょうか??

    哲学初心者です。 哲学はある意味、主観と客観の一致の問題を考えてきたと捉えています。 (真理は存在するか??客観視は可能か??など) そこに近代哲学批判のニーチェが出てきて・・・ 「真理などはない、すべてあるのは解釈だけだ」と述べ、その考えが現代思想の根本にある気がします。 ポストモダン思想などは懐疑論状態に陥ってしまったと思っているのですが、懐疑論の人たちは、ある程度法則が見つかったとされる物理学(運動が説明できる)や生物学(遺伝子など)などをどう捉えているのでしょうか?? また、最近は「人それぞれ」というのが流行っていますが、何処までが人それぞれなのか?? 美しさや善悪の判断など、微妙にそれぞれといえないものがあるのはどのように説明されるのでしょうか??(芸術や道徳がなぜ存在するのか?) 気になったので質問させていただきました。よろしくお願いします。

  • D.ヒュームとカントの美学論について

    D.ヒュームとカントの美学論について、質問です。 どっちもいまいちよくわかってないうえ、ヒュームは本が手元にないので、日本語がおかしかったらごめんなさい。 まず二人の議論に対する自分の理解を書きます。 ヒュームの美学論においては(@「趣味の標準について」)、美は感情に属するものだとされています。 そして、美とは事物に属するのではなく、観察者の頭の中で形作られる主観的なものということになります。(美の懐疑論?って感じがします) しかしこのままだと美は相対的なものになってしまうと(私は)思います。 ヒュームの懐疑論を土台にして、カントは議論を展開しました。 美学においては、ヒュームの議論における美の相対性を克服するために、主観的普遍妥当性という考えを持ち出します。 そしてカントは趣味判断は悟性には基づかないが普遍性を持つ、と言いました。(@「判断力批判」) 質問は (1)このヒュームとカントの美学論の理解は妥当ですか? (2)ヒュームの美学論が持つ、相対主義の可能性を克服するような議論はありますか?あるとしたらどのような考え方でしょうか? (3)ヒュームは道徳論の方で、感情は他者と共感することによって普遍的妥当性を持つと言っていたと思うのですが、これを美学の方に適用して、共感によって美は普遍性を持つという捉え方をヒュームはしていたのでしょうか? (4)もし(3)がYESならば、共感されない美のセンス(感情)を持つ人は、はみ出し者ということになってしまいますよね?ということはやっぱりヒュームの美学論は相対主義の枠から抜け出すことはできないのでしょうか?

  • ヨーロッパ人の真理論は成っていない

     ヨーロッパ人の真理論は成っていない。という見解を示して問います。  ▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86  § 1 西洋哲学における真理論  真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。  (1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。     アリストテレス、トマス・アクィナス、イマヌエル・カント、カール・マルクス、バートランド・ラッセル、前期ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、アルフレッド・タルスキ、カール・ポパー  (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。     中期プラトン、ライプニッツ、スピノザ、ヘーゲル  (3) 真理の明証説:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。     ルネ・デカルト、エトムント・フッサール  (4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。     フリードリヒ・ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ  (5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。     チャールズ・サンダース・パース、ユルゲン・ハーバーマス  (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。     フレーゲ  (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。     フランク・ラムゼイ  (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。     アンリ・ポアンカレ、デュエム、オットー・ノイラート  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。  ☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよいのだ。経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には分かるか分からないかが分からない――を 真理として想定しますよと。  (い) 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名づけただけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこの仮象の経験世界のものごとを《演繹》して来ては ダメである。絶対と相対とが――人間の思考において/によって――つながったことに成ってしまう。  (う) 経験合理性による《整合性》だけでは ダメなのである。なぜなら想定によれば 真理は そのような・人間に理解しうる整合性から自由であるのだから。善悪の彼岸であり 或る意味で人間の判定する真偽をも超えている。  (え) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。  ☆ だから これはマチガイである。《いくつかの命題》を 経験世界において並列させても それらから真理は自由であるのだから。  (お) 言いかえると 経験事象にかんしてさまざまな認識をおこない命題として提出する。その命題の真偽がどうかという問題は 相対的な真実を問うている。絶対としての真理ではない。  (か) まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題について まづその当人については 《明証性》があるなら 主観真実であると見なされる。――これが  ▲ (3) 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。  ☆ であり これは 厳密な定義としては 真理ではなく 相対的な真実のことである。  (き) すなわち ここから《明証性に立つ主観真実》が その認識内容として《事実》と合っているなら それは一般に《事実認識》として認め合われる。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。  (く) そのことをもう少し具体的に細かく見てみよう。この一人のひとの主観真実が 当の事実と照らし合わせてほかの人たちによって検証される。やはり同じく自己の主観において真実として見解を同じくするなら そこでは 主観の共同化が成る。  (け) この主観共同化が 地域を超えて歴史を超えて共有されるなら――たとえば民主制なる理念など―― これは 共同主観(コモンセンス)と呼ばれる。これは 或る程度普遍的な真実であると見なされる。すなわち 次の説に相当する。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。  (こ) 地域や民族の文化などによってその普遍性が狭まれたなら 共同主観は 部分的な真実となる。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。    (さ) 民族(≒言語)文化をさらにその独自性において重く見る立ち場では この《部分真実》をさらに限定するようである。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。  (し) この部分真実を けっきょく一人の個人(つまりその人の主観)にまでもう一度収縮させたものが 次の見解である。われが思えば・言葉で語るならば それが《真実》である。のだから それの共同化などは 問う必要はないと。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。  (す) それではあまりにも独りよがりではないかと批判されたときには ふたたびのようにこの相対世界を超えて 絶対の真理の桃源郷にのがれる。:  ▲ (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。  ☆ これは《真理》を言おうとはしているのである。 つまり (あ)に戻って 真理を《非知――知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ――》として想定すればよい地点に戻っている。  (せ)  ご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。

  • 相対論と絶対論

    かつて俳優の,故勝新太郎さんは「総理大臣の代わりはいても,俺の代わりはいねえんだ」と豪語した事がありました。総理大臣というポストは相対的,勝新太郎というポストは絶対的というわけです。私はその話を聞いた時,他の人では変わる事の出来ないポストはなんだろう?・・と考えた末,それは血を分けた親兄弟であろうと思いました。これには代わりを務められる別の人間はいません。 では恋人,奥さんはどうでしょう?。 私はこれまで,恋愛は絶対論(もしくはそれに近い)という考え方を取ってきました。一生涯で「この人!」と思えるただ一人の伴侶を見つける事。それが恋愛の理想であると考えてきました。しかし現実には実行不可能なのでは?・・と思い始めています。 自分では一人の人に絞ったつもりでも,実際には候補となるべき人はまだ出会っていない人も含めればたくさんいるわけですし,その選択はどこまで突き詰めても完璧なものにはなりません。  一方絶対論者は,相対論に近い立場をとっている人に対しては,懐疑的だと思います。 今自分に交際相手がいないからとりあえずこの人と付き合う,そのうち別にもっといい人が現れればそちらに乗り換えるという行為をなんの後ろめたさも持たずに行う。絶対論に近い立場を取る人たちから見ると,そんな相対論者がとても偽善的に見えるのです。  しかしそうであるがゆえに,結局相対的な判断しかできないと言う結論に達してしまうと,絶対論に近い立場をとってきた私は,選択そのものに自信が持てずに結局誰をも選べない・・・というパラドックスに陥ってしまっています。  異性を好きになると言う行為はそう言うものであると割り切って望むべき物なのか。最近良くわからなくて悩んでいます。

  • 保守主義=理性を懐疑する?

    政治学者の中島岳志氏と言う方を最近知ったのですが、この方は「保守主義は人間の理性を懐疑している。」と、書籍やネットの中でよく述べています。 http://www.magazine9.jp/hacham/110330/ 他にもこの方は「右翼思想」と「保守思想」の違いについて 「現状肯定し、理想社会というのは過去にもなかったし永遠にこない、と考えるのが保守思想の立場です。だからバランス感覚を持ちながら、漸進的に改革をしていく英知しか存在しないということです。それに対して右翼思想というのは、理想社会が誕生しえると思っているのではないでしょうか。では、進歩派と何が違うかというと、過去に遡行することによって理想社会というものが可能であると考えているところです。」 こう仰っています。 http://www.magazine9.jp/taidan/007/index1.php 彼の著書にも「保守派が憲法九条に否定的態度を取り、憲法九条改正を求めるのも、彼らが軍国主義者や好戦主義者ではなく、どれだけ非武装化や反戦平和を唱えても、不完全な人間の理性では、周辺諸国が領土や資源への欲望から、他国へ攻撃する可能性を否定したりするのは困難だと考えるからである。」と主張しています。 中島氏は「保守主義=人間の理性を懐疑」と頻繁に言っているのですが、保守主義と言うのは彼が言う様に、理性を信用しない思想なのですか?

  • 政治学 存在論と認識論

    政治学 存在論と認識論 大学の政治学入門の授業で分からない事があるので助けてください。 存在論と認識論に関する英語の資料を宿題に出され、一応読んでみたものの いろんな情報がごっちゃになってしまって上手く頭の中でまとまりません。 資料の中で出てきた主な用語は 存在論、認識論、基礎付け主義、反基礎付け主義、 実証主義者、現実主義者、Interpretism(日本語不明) で、今まで分かった事は 存在論は基礎付け主義者と繋がり、認識論は反基礎付け主義者と繋がる。 基礎付け主義者は客観的で、反基礎付け主義者は主観的。 という事だけです。授業始ったばっかりなのにもう既に分からない事 だらけで不安です。どなたか分かる方、それぞれの用語の解説も含め それぞれの関係性を教えていただけないでしょうか。 何卒よろしくお願いいたします。

  • 功利主義とプラグマティズム

    功利主義とプラグマティズムの違いがいまいちはっきりしません。 プラグマティズムは功利主義と違い何が新しかったのか?功利主義は「最大多数の最大幸福」という標語にもあるように、経験論に立ちながらもヒュームのような懐疑論を拒否し、多数決により民主的に真理を探ろうとしているように思えます。一方、プラグマティズムは、功利主義と同じく結果を重視しますが、相対論を受け入れて各個人が便利だったとするならそれが真理でいいではないかと割り切っているように思えます。つまり、功利主義は民主的で、プラグマティズムは個人主義的な点に違いがあるのかなと理解しているところですが、浅学なため確信が持てません。 みなさんはどのように理解していらっしゃいますか?ご回答いただけると幸いです。

  • 温暖化懐疑論者の心理構造は?

    世界各国から数千人の科学者が参加し、国連で決議した京都議定書は立派な国際法です。また、先週、ポスト京都として英国政府は2050年までにCO2を80%削減を発表しました。ドイツ、フランス、米国の民主党も同程度の削減計画を発表しています。 しかしこのような情勢でも、日本には有名大学の肩書きを持った一部教授(専門外)が堂々と温暖化懐疑論を雑誌に載せたり、民放で発言したりしています。 科学を軽視し、嘲笑するこの異常な現象は一体なんでしょうか。 ○無神論者(地球主義者)だから、絶対的地球が破滅するなんて受け入れられないのでしょうか。 ○新自由主義などの欲望主義に目が覆われてしまっているからでしょうか。 ○狭い大学社会に住む専門馬鹿なので、専門外学問に対する謙虚さを失っているのでしょうか。 ○文系だから温暖化の意味が理解できず、周囲に同調しているからでしょうか。 ○「科学的」「客観的」思考のもつ傲慢さに慣れてしまっているからでしょうか。 それとも・・・ 各位のご意見をお聞かせください。

  • 哲学の現在について

    哲学の現在について。 ヒュームに代表される、「現象主義」って、認識論の到達点、真理?をめぐる哲学の最終的な結論だとぼくは思うのですがどうでしょうか? それ以降の哲学は、なんだか あんまり意味のないトートロジーに思えてなりません。 現象の域を脱し得ないという「理性」の限界を無視して、語り得ない、答えの出ないものについてあーだこーだと終わりのない堂々巡りの議論を続けているだけのような気がします…。 つまり、現象主義的な結論によって認識論は既に一つの決着を迎えていて、哲学の一つの大きな流れはもう終わっちゃってるのかなーと思うのです。そんで、あとは解釈や可能性を細々と提出するだけ、みたいな。 哲学に限らずあらゆる学問は、大前提として、「仮の真理」にしか到達できない擬似問題じゃないのかなと。 以上、哲学初心者のぼくが哲学(というか、認識論?)の現在についてなんとなく思うことなんですが、哲学に造詣の深い皆さんはどう思われますか? 勉強不足で、かなりトンチンカンなことを言ってるかもしれませんが、その辺は大目に見て貰って、バカでも分かるよう優しめにご教授頂ければ幸いです。 長文失礼しました。 タグ:不可知論 懐疑主義 懐疑論 カント 独我論 心の哲学