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江戸城におけるいろんな仕事の一つ

 無論幕藩時代ですが、舞鶴城と呼んだのでしょうか、江戸城に勤務する役目の名前のようですが、『御腰のもの改め役』(おんこしのものあらためやく)というお仕事の方は、・・・  1. おられたたでしょうか??  2. どういうお仕事の内容なのでしょうか。?  3. どんな身分(旗本とか、御家人とか、お坊さんとか)の方なのでしょうか。?  4. 今、ご子孫は曖昧でいいのですが、情報はあるのでしょうか? 上記のことのことについて何かご存じでありましたらどうか、お教えください。お願い申しあげます。

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回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 1. おられたたでしょうか?? まず、簡潔にお答えすると「いました」。 2. どういうお仕事の内容なのでしょうか。? 3. どんな身分(旗本とか、御家人とか、お坊さんとか)の方なのでしょうか。? これについては、まとめてお話します。 NO1.の方が答えられているように、「御腰物奉行(おんこしのものぶぎょう)」という役職があり、旗本の中から選ばれ定員は2名。「焼火の間詰」という、割合、上位の役職でした。役高は700石。 仕事としては、将軍家の佩刀(はいとう=腰に差す刀)や大名に下賜する刀剣、あるいは、大名から献上された刀剣を「管理」し、刀の試し切りや出来栄えの彫金等の目利きをしました。 そして、老中-若年寄-腰物奉行-腰物同心-首切り役人、という序列でしたが、「首切り役人」は、やはり、自分で首を切ったりすることを嫌い、浪人の「山田浅右衛門」という者に代行させていました。 山田家は、代々、浪人ではありましたが、「公儀御様御用(こうぎおためしごよう)」という役目を請け負い、死刑人(下手人、死罪、獄門など)の斬首役を勤めました。 また、そうした死刑を執行し、首を刎(は)ねた死体を今度は、先に述べたように、将軍が大名に下賜するための刀を試し切りをしたり、逆に、将軍家への進物で届けられた刀の試し切りなどをして、刀の「吟味」もしました。 4. 今、ご子孫は曖昧でいいのですが、情報はあるのでしょうか? 現在も「山田家」は続いています。しかし、このような「不浄」の役目をしてきていましたので、個人情報保護法もありますので、住所、氏名等を明かすことは「控えさせて」いただきます。今は、都内で商売をしています。 東京都の麹町平川町にある寺に、「浅右衛門之碑」が建立されており、碑の裏面には三代目以降の戒名と没年月日、辞世が刻まれている。 (よもやま話) (1)山田浅右衛門は、元禄年間(1688~)にプロの試刀家で御腰物御様御用を勤める山田加右衛門に弟子入りをし、二代目吉時から「山田家」を引き継ぐと同時に、この役目も継承するようになりました。 (2)その腕前は、首を刎ねる時、首の皮一枚を残すという「はなれわざ」をすることとなっていました。雨降りであっても、傘を左手に持ち、右手だけで、その「はなれわざ」をする、ということで有名だったようです。 (3)山田家は、実子がいても、その技を習得できない時は、養子をもらって、その職を継がせています。 (4)また、大名や旗本などから、試し切りを依頼されると、一振りに付き、約100両(現在の金額にすると30~40万円)を「謝礼」として受け取りました。 (5)さらに、死体から生の肝臓を取り出す権利も与えられており、秘伝の技法で「浅右衛門丸」という薬を製造し、労咳(ろうがい=結核)に効くという触れ込みで販売をしています。 (6)腰物奉行から御用の通知を受けると、山田浅右衛門は麻裃(あさがみしも)を着けて、小伝馬町の牢屋敷に出向き、死刑が執行された後は、腰物奉行、腰物同心、徒目付、そして、刀剣鑑定を代々引き継ぐ「本阿弥家」などが立ち会う中で、新刀に通常よりもやや短い柄を取り付けて、土壇場に置かれた死人の胴に向かい、刀を背負うほどに振り上げて一気に打ち込む。終わると、腰物奉行らが胴体の斬口を確かめ、浅右衛門は、後日、その刀の斬れ具合等についての報告書を腰物奉行に提出した。そして、本阿弥家の「鑑定書」がつけられた。 (7)明治6年、山田家から「小竜景光作」という太刀が宮内庁に献上されたが、宮内庁では東京国立博物館に保管を依頼しました。 この「小竜景光」という太刀は、鎌倉時代末期の備前長船の刀工で、江戸時代には5万両という値が付けられたほどの名刀でした。 いかに、山田家が裕福であったかが伺われます。 (8)幕府崩壊後、八代目山田浅右衛門吉豊とその弟九代山田吉亮は「東京府囚獄掛斬役」として明治政府に出仕し、引き続き処刑執行の役割を担った。しかし明治3年(1870)には弁官達により、刑死者の試し斬りと人胆等の取り扱いが禁止され、山田浅右衛門家の大きな収入源が無くなった。 (9)明治13年(1880)には刑法の制定により死刑は絞首刑となることが決定された。明治15年(1882)には刑法が施行され、斬首刑は廃止される。吉豊は明治7年(1874)に斬役職務を解かれ、吉亮も明治14年(1881)に斬役から市ヶ谷監獄の書記となり、翌年末には退職している。 こうして「人斬り浅右衛門」としての山田浅右衛門家はその役目を終え、消滅した。 少しでも、あなたのお役に立てば、と思います。

krya1998
質問者

お礼

 早速に「歴史作家」、bungetsuのお教えを賜りありがとう御座いました。  住まいの近くには小塚原の刑場、回向院があり、山田浅右衛門のことは中学のときに、先生から話を聞いたことがありました。  その上の役が御腰物奉行でしたか。  このような詳しい話はまことにすばらしいことです。

その他の回答 (2)

  • cobamax
  • ベストアンサー率41% (157/381)
回答No.3

NO1です、NO2の「歴史作家」さん相変わらずお詳しいですね、 「物腰奉行」私の知識では下記程度です、 先日私の質問の「篤姫」の髪型等についていろいろ教えていただきありがとうございました、その後本などでいろいろ研究していますが 結構複雑ですね この場を借りまして!

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • cobamax
  • ベストアンサー率41% (157/381)
回答No.1

私の想像では物腰奉行のことではないかとおもいますが、いかがでしょう? 1 御腰物奉行という役は実際にありました 2徳川家にまつわる刀の管理 調査等 3鬼平の長谷川と同じ官位「布衣」で幕府の役職では下のほう 4わかりません (参考サイト) http://www.interq.or.jp/jazz/rhinoda/edo/bakufu1.html 下から10番目 http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2007/06/post_6107.html http://www.mypress.jp/v2/dbm/dbm_comment_disp.php?writer_id=csms2764&story_id=1774658 小説があります

krya1998
質問者

お礼

 早速ありがとう御座いました。  下から11番目でしたね。布衣ですか。家格というのが又、あるわけですね。  一応六位相当とすると、そして幕府直臣とするとなんとなく想像がつくような感じです。  御腰物奉行というのでしたか、武鑑か何かで目にしていて、少なからず興味を持っていましたので。  ありがとう御座いました。

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