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武士の歴史
はじめまして。先日伯母がなくなりました。 49日法要も終わり、一息ついたとき80歳近い伯母とお話をする機会がありました。 私家の先祖は「人を切ったことのある刀」があったそうです。 その刀は何代か前の親族が質屋に入れてしまい売ったそうです。 いまひとつピンとこないのですが、家柄は「武士」だったそうですがそんな話をきいて少し気持ちが悪くなりました。 というのもここ最近体の不調だったり親類縁者の不和が絶えず「先祖の因縁?因果応報?」なのかなぁとか思ったりします。 そこで歴史に詳しい方にお聞きしたいのですが、 (1)「人を切ったことのある刀」を代々受け継ぐとはどういう家柄だったのでしょうか?例えば大昔死刑囚首切り執行部の職とか。。 (2)その様な刀を質屋にいれても価値があったのでしょうか? 刀自体人を切ったら使い物になるのでしょうか。 (3)現在不和があるのはそういう因縁があるのでしょうか? 伯母の言うこともなんとなく大げさな言い方だったのだ少し信じがたかったのですが「武士」と聞いて武士の階級にも色々あるのでしょうね。 どうか歴史に詳しい方お願いいたします。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 (1)「人を切ったことのある刀」を代々受け継ぐとはどういう家柄だったのでしょうか?例えば大昔死刑囚首切り執行部の職とか。。 家柄は「武士」だったそうです 武士の階級にも色々あるのでしょうね。 まず、いつ頃からいつ頃まで「武士」だったかによりますが、 織田信長とか豊臣秀吉の時代までは、農民も常時「刀」や「槍(やり)」などを自宅に持っていて、戦となると、いわゆる、「農兵」として駆り出されました。 やがて、秀吉は、自分の天下が泰平に続くようにと、天正13年(1585)頃より、農民から「刀」や「武器」を取り上げる政策を断行しました。これが、「刀狩(かたながり)」というもので、「兵」「農」分離をしようとしました。 そして、江戸時代に入ると、慶長5年(1600)の関が原の戦い、さらには、慶長19年(1614)の大阪冬の陣、元和元年(1615)の大阪夏の陣で、家康が江戸幕府を磐石なものにして、それからは約260年の「天下泰平」が続くことになりました。 伯母さまが「武士」の家系・・・と、言われるのであれば、先に述べた、いわゆる、戦国時代から「由緒ある武士の家系」であったか、そして、江戸時代も引き続き「武士階級」であったかどうかと言うことになります。 「人を切ったことのある刀」と、いわれますが、「刀」そのものが「人を切るためにある」存在ですから、江戸時代に入っても、数々の小さな戦はありましたので、わが身を守るためには、人を切らねばならなかったのではないでしょうか。 江戸時代の武士の「階級」としては、 「家老」「中老」「馬回り役」「小姓」「留守居役」あたりまでを「上士(じょうし)」と呼び、武士階級としてはエリートです。 「郷士(ごうし)」「用人」「組外」「足軽」「小者」などを「下士(かし)」と呼び、言ってみれば「小間使い」のような役目でした。 しかし、「足軽」「小者」は、一応は「武士」ですが、「刀」を持つことは禁じられていました。 従って、あなたの「刀がある家系」であるとすると、少なくとも「足軽」以上の身分だったのではないかと考えられます。 「刀」は、武士である象徴でしたので、たとえ、人を切ったことがあろうと無かろうと、武士の家系であれば、当然、必需品であり、代々受け継がれていったものと考えます。 「死刑執行人」だったかどうかは、詳しい「家系図」をたどっていかなければ何とも言えません。 また、「死刑執行人」にも、「盗賊」などの「首切役」や「切腹」の際の「介添え役」など色々あります。 (2)その様な刀を質屋にいれても価値があったのでしょうか? 刀自体人を切ったら使い物になるのでしょうか。 「刀」の質入については、明治初期頃までは、かなり「良い値段」で質入ができました。良く、TVなどでも出ますが、浪人となって、食費に困ったりした時、刀の鉄の部分(もちろん刃(は)の部分も)質入がされ、それでも、武士である限り、刀を腰に差していなければなりませんでしたので、「竹光(たけみつ)」と言って、竹を刀状に削ったものを柄(え)に差し込んでもらい、腰に差していました。 やがて、明治以降になると、戦争では「軍刀」というものが出始めましたので、刀は「骨董品」として扱われるようになりました。 刀は、どのような「名刀」でも、まず、切り合いであるとすると刀と刀が「ガチン」と触れ合っただけで、「刃こぼれ」をしてしまいます。 そのような相手との戦いで触れ合った刀であれば、2~3人を切り殺すのが「やっと」で、5人10人などは切れません。しかし、防御としては、それしかなかったのでしょうから、まあ、せいぜい、相手を「負傷」させるくらいはできたでしょう。 刀の手入れは中々難しく、人や動物などの血が付いたものをそのままにしておくと、すぐに「錆びて」しまいます。そこで、藁(わら)を燃やして灰にして、その灰で、何度も何度も擦(こす)る方法がとられました。 TVでおなじみですが、人を切って、懐紙でサッと拭ってポイ・・・などはもってのほかでした。また、「刃こぼれ」に対しては、刀鍛冶に出して「研ぎなおし」と言って、実際には、「鋼(はがね)」の部分を取り替えてもらわなければ、次には、使えませんでした。 まあ、いつの時代に質屋に入れたかは、存じませんが、現代では「骨董品」としての人気はあります。 私の実家にも「骨董品」としての「刀」が5~6本ありますが、そのうちの3本は、名工の作として、県の「指定文化財」になっています。 私が子どもの頃、そのような「指定文化財」とは知らず、隣の友だちと、チャンバラごっこをして、「のこぎり」のようになってしまい、親から怒られたことがありました。 また、現代の「骨董品」は、全て、「鋼(はがね)」を取り除いてあります。 私の実家の指定文化財の刀の刃も県が指定した刀鍛冶に「鋼」だけ別に「保管」されています。だから、実際には人などは切れません。 (3)現在不和があるのはそういう因縁があるのでしょうか? そのようなことは、まあ、全く無いと言えると思いますが、要は、自分の心の持ちようで、どうしても気になるようでしたら、神社や仏閣で「お祓い」でもしてもらってください。 あなたのお役に立てたでしょうか。
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- Kiriyama-taicho
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江戸時代以降、刀は武士の飾り物になってしまって、実戦に不向きな 美術品(?)もあったようです。江戸時代には刀の産地として有名な 地域に行くと古来有名な刀鍛冶が作ったとされる刀のコピー品がお土産として 売られていたそうです。おばさんが「人を切ったことのある刀」と 言われたのはその刀はそういうまがい物ではなく、実戦で使用されたことが ある正統なもの、江戸時代以前の古い刀と言いたかったのではないでしょうか。 大変価値のあるものだと思います。大事になさってください。
- Scull
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A1.「普通の武家」だと思いますよ。江戸時代でこそ武士の身分は固定されましたが、それ以前は農民町人上がりでも「戦場で武勲をたてれば武士になれた時代」でした。つまり、江戸時代の武士は基本的に「先祖は戦場で人を斬った事があるのが当然」で、珍しくも何ともない事です。 当然、先祖が敵兵を斬った刀は先祖にとっては「大事な記念品」です。その刀のおかげで無事家に帰り着き、主君から褒章を受け取り、家族を養って行く事が出来るようになった訳ですから。そう言う「記念品」を、伝家の宝刀とするのは当たり前の事だと思います。 A2.質屋に入れて価値があるかどうかはわかりません。ただ、お金になったと言う事であれば、それなりの業物だったのでしょう。 刀は「人を斬る為の道具」ですから、一人二人斬った位で使い物にならなくなるのであれば、それは「不良品」ですよ(笑)。 自家用車で10m走ったらタイヤが減って使い物にならないんですか、っていっている様なものです。 それは一時に5~6人も斬れば、刃こぼれや脂で斬れなくなりますが、研ぎに出せばまた使えます。 A3.全然関係ありません(笑)。 第一に、一人二人斬った位でそんな因縁なんかあったら、数千人が死んだ関ヶ原の合戦を起こした徳川幕府なんか、三日で倒れてます。 戦場では一日に数百人、数千人が死ぬんですから、斬られた位で一々祟ってなんかいられません。 ホント、歴史を勉強してみれば、いかにそう言う因果だの怨霊だのがあり得ないか、よくわかります。明治の新政府だって鳥羽伏見の戦い、それに続く戊辰戦争での屍の上に成り立っている政府です。死者がここで一々祟っていたら、80年も続く訳はありません。 大体、そう言う「祟りかも」と思う事自体が不幸を招くものです。 そう、今でこそ「人命は地球よりも重い」なんて言いますが、そう言われるようになったのはこの人類史で「つい最近の事」です。斬ったか斬られたかなんて、遺族以外には大した意味が無かったりします。お気になさらずに。
お礼
bungetsuさん!こんばんは。本当にわかりやすい回答ありがとうございました。 何代か前の親族が質屋に入れてしまい売ったお金で「ポナペ」に行かれたそうです。実際、ポナペ地方に行かれた経緯はわかりませんが。。 相当豪遊していたそうです。 刀一本で高価な買取ができたということは名刀だったのでしょうかねェ。 ありがとうございました。