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復活とは? 不死の境地とは?

qsxdrfvgyhの回答

回答No.50

「現在」という語は、日常の言語ゲームにおいて、瞬間ではなく、幅を持つという感覚は、全く正しいと言えます。たとえば、「現行憲法」下で生きているという時、半世紀以上の時間を引きずって表現しています。でも、この半世紀を現在と言っているわけではありません。現在と過去を混ぜた幅で表現しています。つまり、記述や表現にする時、常に過去を含んでしまうと思われます。有為の世界での用法として、この混在が全く正しいのです。 沈黙・無記なる勝義諦、無為の世界における「現在」は、有為の世界、日常の言語ゲームとは、異質な「現在」になってしまいます。無為の世界で通用するには、有為と決定的に違うのです。ここの違いに、まず気付かねばなりません。本当は、共通した語を使うべきではなかったのでしょう。しかし、適当な語がないので、やはり「現在」とします。無理に造語すれば、「無為なる現在」です。これは、無限の最終数を言うように実現不可能です。厳密なる意味では、有為の世界においては、現在の残像しか認識できないし、「過去化の世界」にしか生きていないと思います。そして、繰り返しますが、現在や未来に関する想起の幅はあるのです。だからこそ、現在を生きていると、日常の、有為の世界では、混在して認識できるとも言えます。 無為と有為の世界の違いが、分かっていないと混乱した思考になってしまいます。brageloneさんは、有為の世界だけでの概念で思考していませんか。「無為なる現在」には、混在がありません。ですから、この場合は、瞬間的だと思います。点です。ゼロです。比喩的に言えば、そのようなイメージです。ただし、沈黙・無記なる勝義諦は、言語化してはいけないので、比喩は、読後破棄扱いです。

noname#80116
質問者

お礼

 ○ 言語化しても それは そのもののことではなく そのものを代理する表現である。その限り 自由に用いる。  ☆ のです。それゆえ ここからは 《真理》をめぐって (a)《指し示し》論と (b)《比喩・物語》論とが はなはだ覚束ない手段でありながらも 表現の手法として 考え出されました。  いいですか。なおここには 重大な危険が潜みます。  ★ 言語化してはいけない  ☆ と言うとき わたしたちは その対象を 言わば《分かった》として 精神の内に取り込んだことになります。《語り得ぬ》のではなく その中身を知った者に言わせれば という恰好です。それを《いや 語ることも ゆるされる》という場合も 同じです。いわば《勝義諦》なるものを 自分が所有したと宣言してしまっています。  いいですか。《あるとも ないとも 人間には 分からず 語り得ぬもの》を どうして 所有したり 精神の所蔵としたりすることが出来るのでしょう?  すべては 言語ゲームだったのではないですか。そこでは 《無為なる現在》は 仮りの代理としての表現として用いられて 代理であるゆえに 自由に用いて 議論してよいとなります。ゲームにおいて 合理性があって推論として妥当であるものが 讃えられます。しかも それも 相対的なものです。さらに妥当性に富んだ言説が 出て来ます。  もし ここで 人間であるゴータマ・ブッダが この勝義諦に立って=つまり世界の真相を見る空観に立って 世界のあらゆる縁起共生の関係を捉えていたとすれば そのときには こうなります。  (あ)ブッダは 勝義諦=無為=真如=超経験の領域の住人であるとするか        (い)人間は 経験存在であるが けっきょくのところ 誰でも 超経験の領域に通じることが出来るとするか    (う)ブッダのみが 特殊に 《真如を体現した人間であった》と見るか      (え)ブッダは 錯乱していた と見るかです。  ☆ この(え)や(あ)の場合の延長に 次の見方も成り立つかも知れません。  (お)ブッダは 《指し示す》理論(a)ではなく 《比喩・物語による説明》理論(b)を 方便として用いたと解釈する場合です。――むろん この(お)は 聖書の立ち場ですね。(イエスは特殊です)。  ちょうど 趣旨の同じ議論が 次のご回答にも続きます。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  やっと 議論の噛み合わなさについて 原因が分かりました。取りあえず 二点です。  一点は bananasand さんの場合とも同じようですが 《現在》のことです。その定義をどうするかです。  二点は 《無為・勝義諦》と 《有為・世俗諦》との関係についてです。前者をどう定義するかです。  ▲ (ヰキぺディア:法 (仏教)= http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99) )~~~  ○ 《勝義諦(しょうぎたい)》とか真諦とかいわれるのは、「真理の立場からみた世界の真相」であり、これらを出世間法という。  ○ 覆障諦(ふくしょうたい)とか俗諦(《世俗諦》)といわれる場合には、「いちおう世間の人々がみとめているから真理である」という意味で、世間法といわれる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《勝義諦》については わたしは 《真理》と同義と見ていました(*)ので 若干 違いがありますが 問題は それが《無為》と言いかえられるように 《超経験》だということです。《超経験から見た世界の真相》も 経験思考を超えていることでしょう。  * → ▼ (岩波仏教辞典1989)~~~~~~  《勝義》[paramaartha]: 最高の真実。原義は《最高の意義》の意。同義語として《真如・実相》などがある。・・・  《世俗》は 常識的真実 《勝義》は 超世俗的な真実で無分別知の対象である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そこで もしこの《勝義=無為》を《現在》と呼ぶとすれば それは とうぜん 無であり 空であり  ★ ゼロです。  ☆ けれども  ★ 瞬間的だと思います。点です。  ☆ は げんみつには まちがいです。《点》は 存在がなくても 位置がありますから。《瞬間》も《瞬間的》も 《無》ではありません。  さらに言いかえれば 経験世界を超えているということは 時空間を超えていることであり その《無為なる現在》は 時間でも空間でもありません。ところが 《永遠の現在》の《現在》は 経験世界における時間概念であり おっしゃるように 《世俗諦》に属します。その意味は 相対的な内容であるしかなく さまざまに 定義して 用いればよいというものです。  現在とは《瞬間》であるという定義も 自由です。《一定の生活意識とその現実が持続する時空域を言う》と定義しても 自由なのです。どちらも 互いに対等です。  いいですか。この時空間を超えているところの  ★ 「無為なる現在」には、混在がありません。  ☆ どころか 世俗諦における時間とも空間とも 何ら からんではいません。もっと厳密に言えば そこには 《概念の混在があるかないか これさえ 人間には わからない》のです。わかったら それは 勝義諦ではなく 世俗諦に属する概念です。  いいですか。それゆえ  ○ 勝義諦は 語り得ぬもの。  ☆ なのです。したがって  ★ 無記  ☆ は この場合 《勝義諦が あるとも ないとも 人間には 分からない》ことを意味するのです。決して  ★ 言語化してはいけない  ☆ のではありません。事実 《勝義諦・真諦・真如・実相》というように 言語化しているじゃないですか。

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