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復活とは? 不死の境地とは?

qsxdrfvgyhの回答

回答No.47

 ○ 仏性  ☆ は この《勝義諦=無為=真理=絶対》のことですか?とお訊きしたいと思います。 仏性は、《勝義諦=無為=真理=絶対》の前3つではありません。可能性であり、未来にも通じる面があり、その点で「絶対」にだけは関連しそうです。    ★ 勝義諦が「指し示される」という点は、全く同意見です。  ☆ でしたら もはや われわれの間の違いは (a)《勝義諦=無為》を それについては沈黙すべきなのだが 沈黙すべきことを分からせるために 沈黙せずに 言葉を使って 指し示すことを行なうか  それとも (b) 《真理=神=霊》について 言葉で 虚構ないし物語のかたちにして 説明表現するか これだけだと思います。  《指し示す》とほとんど同じ行為なのです。的確には 《代理表現》とわたしは呼んでいます。 指し示しは非言語なのです。(a)の「言葉を使って」指し示すものではありませんし、(b)言葉で 虚構ないし物語のかたちにして 説明表現するものでもありません。どちらも有為の世界の手法であり、沈黙・無記なる勝義諦の「沈黙・無記」を理解していないようですね。残念です。  ★ イメージ化するとたとえ話や虚構になるでしょう。  ☆ というよりも (b)のように あくまで《言葉を用いて説明する》という手段を採った場合 その時点で すべては 表現の問題になっています。なりきっています。全体が 仮構・虚構・おとぎ話です。 そのとおりです。たとえ話や虚構は、理解を助けるけれども、究極の理解においては、これらを捨て去り、超えねばなりません。「沈黙・無記」に至る境地であり、無為の世界は言語ゲームを超えて体得した境地なのです。非言語経験なのです。そして、信仰は、勝義諦とは関係ありません。 勝義諦も現在も、認識しようとした瞬間に、有為の世界(世俗諦)、過去に転換されてしまい、決して言語化したり、記述できません。そこのところが理解できれば、永遠の現在も、全く認識できず、瞬時に過去になり、残像化した世界しか体験していないことに気付くはずです。つまり、「現在」を生きていると思い込んでいますが、決して「現在」には属していない・有為の世界(過去)に主に属していると分かると思います。ただし、現在も未来も想起し得る能力を人類は持っているのも事実なのですよ。この幅を理解できた人は、覚者の初心者であると思います。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん 概念についての定義内容が 互いに 錯綜しているようです。また わたしの記述について 見落としておられるところがあります。  次の二点です。  ☆☆(No.33補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~  (a)《無記》とし《沈黙》し 《語ってはいけない》と捉える立ち場と (b)《沈黙》すべきであることを 沈黙せずに言葉を用いて指し示すとする立ち場と (c)《無記》ゆえに 《たとえ話》によって あるいはまた《偶像》をとおして おろかにも あたかも言葉を尽くして 指し示そうとする立ち場とです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★★(ANo.36) 勝義諦が「指し示される」という点は、全く同意見です。以前にもそのように僕も書きました。  ☆ ゆえに 上の(a)(b)をまとめて ここで(a)とし (c)を(b)としたのですよ。  ○ 永遠の現在  ☆ は 対照的な二つの概念を合わせた表現の妙であるに過ぎません。しかも なかなか その内容が伝わる言い方であるようです。  それから 現在というのは すでに書いたように 時間の幅を持っています。ブッディスムが生まれたときから 今までは その問題意識が つづいていますから 現在時が それだけの幅を持って あります。形骸化したとすれば 過去になっていると見ます。  現行憲法が発効してからは その憲法という問題意識にかんして その時から 現在が続いています。戦前までは 46年憲法にとっては 過去です。仮りに さらに新しい憲法がつくられるとすれば その時は 未来です。その憲法が すでに問題意識を持って 作成され始めたなら 将来であると同時に すでに 現在でもあると言えるような状態だと考えます。  問題意識 あるいは 生活意識 あるいは 生活現実 つまり要するに 現実であるとき 現在です。一点の瞬間とだけ捉える必要はないと思います。

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