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復活とは? 不死の境地とは?

qsxdrfvgyhの回答

回答No.33

未来は、可能性と関連した想定概念で、隔絶していることを理解していただけたようで、回答した甲斐が有りました。しかし、永遠の現在と復活には、こだわり・思い入れがあるようですね。僕は、これらの虚構を必要としていませんので、どこまでも平行線です。 ただ、「永遠」は、有為の世界・相対領域に馴染まないことを指摘しておきましょう。これは、絶対領域に馴染むように思います。ですから、絶対領域が相転換した、無為の世界には馴染むと考えます。そして、無為の世界こそ、現在だと僕は想定していますので、永遠の現在は言葉の組み合わせとしては正しいと思いますが、有為の世界・相対領域の現実世界の裏でのたとえ話なのです。沈黙・無記の勝義諦に属すので、この世では語ってはいけない用法だと思うのです。ここは前回からの続きになります。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん。有神論と無神論とは 互いに 同じ信仰類型における二つの形態であると ここでは 見てきました。qsxdrfvgyhさんは 無神論 わたしは 有神論という意味です。  ★ しかし、永遠の現在と復活には、こだわり・思い入れがあるようですね。僕は、これらの虚構を必要としていませんので、どこまでも平行線です。  ☆ その《平行線》のあり方が 同一の類型の中の二つの形態であると言おうとしています。すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・無為の世界こそ、現在だと僕は想定していますので、永遠の現在は言葉の組み合わせとしては正しいと思いますが、有為の世界・相対領域の現実世界の裏でのたとえ話なのです。沈黙・無記の勝義諦に属すので、この世では語ってはいけない用法だと思うのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《無為》は それ自体が《世界》であるのではないと理解していました。あるいは 有為を超えた絶対的なものであるのでもなく 有為の世界を それは 一切が 縁起関係として成り立っていると見るその見方 すなわち 《空》観というその動態のことだと理解していました。  もし《無為の世界》を想定するのであれば それは 《神・霊》と同じ意味です。しかもそのとき この有神論者は 《有》とするからには それについて 《沈黙》し得ず《無記》とし得ず いろんなかたちで 物語を与えて来たというわけです。  ですから 《この経験世界を超えたなぞの領域》について 《ある》とするか《ない》とするか その二者択一の選択によって わたしたちは 分かれているのだと考えます。《ない》という判断も それは 経験思考なのではなく 非思考での選択であり 大きくは 信仰だという所以です。そのあとは 神ないし無神のことを 自由に正当にも 放っておくという意味です。   ちなみに bonbonnier さんという方の見方として わたしは 自分の質問で 次のように学びました。もちろん qsxdrfvgyhさんとは 互いに独立したご見解です。そこでは 《有神論》のごとく 神を擬人法において物語の中に表現するのではなく さりとて 単に《沈黙・無記》とするのでもなく 《指し示す》という理論が唱えられています。  ◆(《QNo.3454478 :《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教) =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html》のANo.43)~~~  勝義諦の真理としての「不死の境地」に対しては、言葉というものは、それを指し示すことしかできません。しかし、言葉により指示しないのであれば、勝義諦の真理そのものを衆生に伝えることができないのも事実です。  私たち凡夫は言葉の指し示すものに実体があると思い込んでそこに執着します。ゆえに聖者は、涅槃の境地の上から、仮名としての言葉を自由自在に操って、衆生を不生不滅の戯論寂滅の境地に導こうとします。  私たちが、その教え通り実践し、戯論寂滅の境地に到達したとするならば、そこではじめてこころの奥底にある一切の言葉生成作用、言語による分別意識が止滅します。言葉とは、この言葉の否定に導くために仮設されたものであったことが、はじめてそこで明らかになるわけです。ここを『大乗起信論』は「言に拠りて言を遣る」と表現しています。  仏の説いた経というものは、勝義諦の真理としての戯論寂滅の境地を直接に表現するものでは決してありませんが、これを仏の教えとしての真実の言葉として信じることにより、逆説的に、言葉そのものが言葉が否定される境地に導くものであるということを知ることになります。『言に拠りて言を遣るを謂うのみ』とは仏の金言としての言葉の有効性を説いたものです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いづれも 大きく信仰類型において それぞれの位置を持つと思います。次のようにも おっしゃっています。  ◆(同上の質問のANo.47)~~~~~~~~~~~~  不死の境地というのは解脱(成仏)の境地ですので、自分の仏教徒の立場からいわせていただければ、何生かかるかはわかりませんが実現できる境地であると私は信じています。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (a)《無記》とし《沈黙》し 《語ってはいけない》と捉える立ち場と (b)《沈黙》すべきであることを 沈黙せずに言葉を用いて指し示すとする立ち場と (c)《無記》ゆえに 《たとえ話》によって あるいはまた《偶像》をとおして おろかにも あたかも言葉を尽くして 指し示そうとする立ち場とです。

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