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復活とは? 不死の境地とは?

qsxdrfvgyhの回答

回答No.31

復活とは、死後の問題ではなく、この今の人生において、悟りの境地を体験後に、自己再認識を経て、再生することを意味しているのでしょうか。その時、永遠の現在を生きていると言いたいのでしょうか。 僕は、人間が「永遠の現在」を生きると言われた時、ひどく馬鹿にされたように感じてしまいます。つまり、人は過去も未来も想起できる知的な存在で、主に今を生きる動物の認識水準とは、少しだけ違っていると言いたいわけです。過去も未来もイメージできる能力を持つ、決して現在だけではない時間的な広がり(幅)の中で生きていると言うべきだと思うのです。 >未来は この現在という時が そのまま空間移動するかのように 推移するものと思われます。 ここの空間化した時間感覚が、現代の時間論とかなりずれているようです。未来は、イメージできるが、断絶(隔絶)しているのであり、現在が移行して実現すると考えることは錯覚です。連続的な移行の先に繋がっていると考えるから、いつまでも現在が続く「永遠の現在」になってしまっているのです。隔絶した未来を理解するキーワードは、「可能性」です。「現実性」ではありません。 涅槃経に、ミルクのたとえ話があります。ミルクの中にヨーグルトの元(仏性のたとえでもある)がすでにあったのかどうかという問答です。結論としては、ミルクの中には、ヨーグルトになる可能性があっただけで、まだヨーグルトの味や固形化状態はないわけです。しかし、加工方法を間違えるとヨーグルトにはならず、腐ったミルクになるのです。未来は、可能性です。予期せぬ事態が生じることは多々あるのです。予想外だからこそ、未来は隔絶しているという感覚を持ちますし、日常的な言語ゲームでも、予想外の未来を想定して上で、会話しています。「通り魔も怖いけど、雑居ビル火災も怖いよね」とかです。 「永遠の現在」は、知的で哲学的な人には、あまり魅力的な用語ではないと思います。また、「復活」よりも「自己研鑽」、「修行・修練」の方が、日常的にはしっくり来ると思います。あくまでも、個人的な感想ですが。

noname#80116
質問者

お礼

 * 《通り魔 / 雑居ビル火災》についても その現象と人間性の問題とを分けて考えるべきだと思います。前者では 法律・行政が 科学の助けを借りて 対処します。  後者の人間性の問題は 被害者・加害者・関係者また第三者と呼ばれる大きく社会的な関係者 すなわち すべての人びとにかかわった問題です。思想と行為とそれらの関係 その関係どうしの相互作用ないし因果関係を 一人の人間についても 社会全体的な視点からも 解明し合っていくこと。  解明だけではなく もちろん 互いの信頼関係のもとに 悪い可能性をあらかじめ防ぐという日常生活での言語ゲームを――井戸端会議を―― 繰り広げていくのがよいと考えます。  * 復活した人びとの社会が そういうかたちであり かれらは 三分の一いれば まづ 安心だと思います。安全の網が はたらくでしょう。  * そのときには これらの人びとも 《勉強》しますが それは 《終わりから始める》方式です。  ★ 「復活」よりも「自己研鑽」、「修行・修練」の方が、日常的にはしっくり来ると思います。  ☆ を 悪いと言おうとするのではなく そうではないのですが それでも 《永遠の現在》方式は じつは じつに 逆なのです。   ○ 「自己研鑽」、「修行・修練」よりも 「復活」  ☆ なのです。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん。これまでにも 対話のやり取りを重ねて来ましたし それほど 互いに見解が異なっているとは 思えません。  用語の問題であるようにさえ 思えます。  今回のご指摘では 次の二点を別とし得れば おおよそ 共通の認識に立っていると考えます。  ★ 現代の時間論  ☆ これをわたしは たしかに 身につけなければいけないと思います。  ★ 「永遠の現在」は、知的で哲学的な人には、あまり魅力的な用語ではないと思います。  ☆ この感覚がなかったので 再検討すべきかも知れません。たぶん そうでしたら 魅力的である・ないの二つに分かれるのではないでしょうか。  あとは 細かいところについて 例によって 質問者が 反論を提出します。  1. 《終わりから始める》という方針については 人間性の問題と 行為関係ないし社会現象の取り扱いの問題とに 分けて 捉えるとよいと考えます。  2. 人間性については そのまま もろに 《終わり=目的の成就》という地点から始めてよいし 始めるべきだと考えます。  3. ミルクからヨーグルトを作るという人間の行為については 設計図としては やはり 頭の中の《終わり》から始めますが その作業や努力の成否は まさにおっしゃるように《可能性》の問題になります。  4.従いまして 現象にかんしては 紆余曲折・有為転変が そのまま 起きます。つまり  ★ 《予期せぬ事態が生じることは多々あるのです。予想外だからこそ、未来は隔絶しているという感覚を持ちますし・・・》  ☆ であると同時に 人間性の問題では このような《現象》の問題につきものの変化から 影響を受けつつも 基本的に 自由だと言いたいという意味があります。  5. すなわち 現象には 復活という概念がなく 人間性には どうも ついて来るようだと言おうとしているわけですが その意味は こうです。すなわち 《現在》が 《可能性》の問題からあたかも自由になって すでに・いま・ここにおいて 《現実性》として 起きている世界動態である という感覚です。その実現が 復活です。  6. 現在とは いま生きているという意識かつ問題意識が 持続している時空間です。問題意識に即して 生きることが 持続しているその範囲が定まります。  7. ミルクだけを飲んでいた時空間(時代)は ミルクを飲みそれをヨーグルトにしても食べる時空間とは 別の問題意識になりますから 過去です。過去のそのこと(ミルクを飲む)自体が 新しい時空間でも 引き続き持続するのは かまわないわけです。  8. 未来は 未来と将来とに 小区分されます。  9. 仮りに ミルクやヨーグルトから 何か新しい成分への変化が起こるとすれば その問題意識を持った時点から それとしての現在が始まります。その問題意識に 科学的な可能性があると認識されたなら その《新しい成分の利用》の時代は 将来という時空間になります。《将(まさ)に来たるべき》時代です。  10. 言いかえると その問題意識が まだ 芽生えていなかった時に その新しい時代を 仮りに捉えたとすれば それは 《未だ来たらざる》未来です。  11. けれども 人間性の問題として 永遠の現在を生きる人にとっては それらの可能性を考えたり実現させようと努めたりしつつも また未来が将来になり 将来が現在になるという変化を とうぜん 見つつも 人間としての境地は 基礎が出来てからは それほど 《大変》ではないと言おうとしています。

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