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復活とは? 不死の境地とは?

qsxdrfvgyhの回答

回答No.28

全体の流れをほとんど見ていませんので、かなりずれた回答になってしまいますが、お許しください。 「永遠の現在」というキーワードは、brageloneさんのお気に入り用語だと思うのですが、これが究極的に虚構でしょう。僕たちは、現在という時間分類にだけ属し、生きていると暗黙に了解しているようですが、ここに矛盾が生じます。もしも、僕たちが永遠の現在に生きているならば、思い出も現在に属し、想像・予測・予定も現在に属していると言うべきです。しかし、すべての時間を永遠の現在に包摂するような一元化の発想は、過去や未来を区別したい僕たちの日常的な言語感覚から乖離した特殊な言語ゲームになっています。そのような時間感覚には、違和感を持ちます。僕たちは、過去に生きた痕跡を残し、未来に生きる可能性を孕みながら、決して現在だけではない、時間的な広がりの中で存在しているものと感じています。ですから、「復活、不死」と「永遠の現在」との間には、相当密接な関係があるようであり、僕たちの日常的な言語ゲームから乖離した別の世界(虚構)を形成していて、現実世界から隔絶していると思われてしまいます。そのような印象です。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  いま一つ 語弊があると言いますか 表現があいまいで 誤解を生むような主題を扱っているという点 これを 指摘していただきました。 前回では 《霊魂 / 復活 / 不死》が 誤解を招きやすいということでした。この直前のNo.27で bananasand さんからも ご指摘を受けました。    でも 《霊》を持ち出したことに 積極的な意味もあるように思います。それは このきわめて曖昧な霊という概念を きちんと 規定し それにまつわるいろいろな概念のことをも 交通整理しておけるなら 願ったり叶ったりだと思うからです。  さて 今回は 《永遠の現在》 これを 経験思想において きちんと 定義せよ。こういうお叱りだと受け取ります。  No.2などで CUE009さんが指摘してくれたことなのですが 要は 《この肉(身体および精神)が朽ちること つまり わが存在が死ぬということ この経験事実を 受け容れよ》 こう言っているだけだとも 言えるのではないでしょうか。つまり そうし得た魂は 《永遠の現在》を 生きることになるのだという意味です。  解きほぐします。と言いますか すでにこの今 死を 観念においてにしろ 経験事実の問題として 受け留め 受け容れざるを得ないと観念している人は もう あとの生は 死生観に変化を生ずることなく 生きる。これだけで よいと思うのですが。  過去は この現在時に あたかも収斂してくるでしょうし――ただし 過ぎ去ったことは 過ぎ去ったことです―― 未来は この現在という時が そのまま空間移動するかのように 推移するものと思われます。むろん その動態の過程において さまざまな思考も行動も おこなうのです。新しい事態が 次から次へ起こることに ちがいは有りません。ですから 《一元化》ではないのです。  言いかえると 《日常的な言語ゲーム》としては 皆とまったく同じ生活を送ります。わづかに その基礎もしくは枠組みもしくは原動力もしくは《わたし》 これらが 新しくなっているということです。すなわち あたかも《復活》したからです。  あらためて 微妙に違った表現で 説明します。まったく同じ《日常的な言語ゲーム》なる社会生活にあって 《永遠の現在》派は どこが ちがうか。たぶん 人びと一般は いつか来る死へ向かって進んでいる。それに対しては すでに死んでいる。これを言いかえれば 《死への一本道》が その人の心根において 死んだ。つまり 死が死んだ。死が死なしめられた。つまり 生きている。わたしが わたしとして 生きている。この現在が 永遠の現在として 推移するという恰好です。いかがでしょうか。  日常生活から乖離していくのではなく そうではなく――なぜなら 井戸端会議だと言っています―― 日常生活が 《一回転》するのだと見ます。あるいは《方向転換》すると言えるのではないでしょうか。  つまり念のために言えば 復活と言っても 死んだあとのことを どうにかして 考えておこうという問題ではありません。

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